第118回 株式会社キタムラ 北村正志

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第118回
株式会社キタムラ 代表取締役会長兼CEO
北村正志 Masashi Kitamura

1941年、高知県生まれ。私立土佐中学校・高等学校を卒業後、早稲田大学第一政治経済学部に進学。学生運動にのめり込みすぎた結果、同大学を除籍処分となる。1965年、家業の取引先の大手老舗問屋・浅沼商会入社。竹ぼうきを片手に倉庫業務で修業を積む。1967年、キタムラに入社。1970年、取締役就任。1976年、岡山県・倉敷市にチェーン展開1号店目となる「カメラのキタムラ」を開業。現在の1000店舗、グループ年商1400億円につながる礎を築いた。1979年、代表取締役営業本部長。1985年、代表取締役社長。2001年、株式を店頭登録。2002年、代表取締役会長に。2005年、東証2部市場に株式を上場。2006年に「カメラのきむら」、2007年、「スナップス」を展開していたジャスフォートを買収。2009年4月に全店の店名を「カメラのキタムラ」に統合。子ども写真館「スタジオマリオ」の店舗数を加えると、現在約1200店舗。未来に写真を残すため、現在も新たな取り組みに挑戦し続けている。

ライフスタイル

好きな食べ物

お酒を飲んでは困ってます。
命を縮めていると思うのですが、日本酒に限らず何でも飲みます。飲みすぎで困ります。ただ、飲まないように、飲まないように努力はしています。毎晩、挫折していますけどね(笑)。でも、ほとんど酔わないですし、前日の記憶をなくしたことも一生のうち一度あったかないか。食べ物はなんでも好きです。つまみに凝るやつは、ウザイと思っています(笑)。私たちの世代は、ほら、腹がいつも減っていた時代でしたから。食べ物を、うまい、まずいと言うなと思います。食べられるだけでありがたいと、いつも思っています。

趣味

ゴルフ場に、勤めています。
家から車で8分のところにゴルフ場があるので、60歳を過ぎてから始めて、とことこ歩きで、ゲートボールのようにプレーしています。ゴルフの恰好で家を出かけて、自分で車を運転して、行った時の恰好で帰ってくるものですから。だいたい毎週1回はやっていますね。やるというより、勤めているようなものです。私は心臓発作を2回起こしているので、今日あたり死ぬかな?と思いながらゴルフをやってます(笑)。まあ、人間、何をしていたとしても、いつかは死ぬじゃないですか。バクチみたいってよく言われます(笑)。

行ってみたい場所

ヨーロッパでしょうか。
一昨年、キューバに行ってきました。カストロが引退する前のキューバを、一度この目で見ておきたいと思って行ったのですが、嫌な感じの資本主義でしたね。なんせ、観光客が国民所得の10倍ものお金を落としていくし、働く人はチップもらうでしょ。そりゃ、人間が腐りますよ。残念ながら、幻滅でしたね。今行きたいと思うのは、フランス、イタリア、スペインですか。あとは、上手に没落しているイギリスにも行ってみたいですかね。日本も今後、イギリスみたいにならんかなと思っています。

最近感動したこと

日々感動、日々嬉しい。
毎日感動していますし、これに感動したってことは、うまく話せませんねぇ。嬉しかったこと? 毎日、生きているだけで嬉しいといえば嬉しい。これといって特にはないです。まったく、こういったインタビュー向きの男じゃないんですよ、私は(笑)。

すべての人を、写真のある素晴らしき未来へ。
「カメラのキタムラ」がその役目を担う!

 デジタルカメラの普及により、ピーク時450万台あった年間の国内出荷台数が、わずか10年足らずでほぼゼロになったフィルムカメラ。技術革新とインターネットの台頭が、フィルムカメラの販売とプリントで成長してきたキタムラを、未曾有の危機に落とし込んだ……。同社の全国チェーン化を推進したのが、二代目経営者の北村正志氏である。2002年、氏は決意した。「人には、写真・映像による感動・思い出・きずなが絶対に必要」「すべての従業員を守らなければならない」。そして、利益度外視のデジカメ販売、デジカメのプリントへと事業構造の大改革を断行。70歳を目前に控えた今も、経営の最前線に立って旗を振り、オンリーワンのサービス企業を目指すため、日夜奮闘を続けている。「これからも、当社が世の中のひとつのインフラになって生き続けるために、ダントツのオンリーワン企業を目指します。ただし、絶対に人切りはしません。小売業が人切りするくらいなら、解散したほうがいい。当社の主役は、人間ですから」。今回はそんな北村氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<北村正志をつくったルーツ1>
高知市の中心を流れる鏡川で遊んだ少年時代。
中高は市内の進学校に通い、東京の大学へ

 先祖代々、高知の人間で、カメラ屋の息子です。兄弟は、一番上が姉で、あとは長男の私と弟が2人。1934年の3月に、父が若くして高知市中心地の堺町という場所で、「キタムラ写真機店」を開業しましてね。今の「カメラのキタムラ堺町店」がある場所です。戦前の創業当時は、かなりハイカラな商売だったようです。高知と聞くと、まず太平洋の大海原を連想する人は多いかもしれませんが、私はきわめて普通の街の子でしたよ。ただ、市内には、鏡川という坂本龍馬も遊んだ大きな清流が流れていて、私たちの小さな頃の遊びといえば川遊びでした。夏の天気のいい日は1日中、8時間くらい川にいたんじゃないかな。真黒に日焼けしながら、泳ぎも魚取りも、そこで覚えました。

 素行は悪かったか? いや、今の子たちと比べたらかわいいものです。陰湿なイジメなどなかったですからね。学校では、まあ、やんちゃなほうでしたね。仲間5、6人とちょっとした悪ふざけをして、先生に立たされたことは、よくあったなあ(笑)。中学から高校まで、ずっと水泳部に所属していました。種目は平泳ぎで、100メートルと200メートル。それほど強くはありませんでしたが、20名くらいの部員のキャプテンを務めていました。高校では何度かインターハイに出場していまして、神宮プールで泳ぎましたが、二流選手ですからね。毎回予選落ちです。私のベストタイムは、200メートルで2分56秒だったと思います。当時のオリンピック記録が、メルボルン大会で確か、2分34秒とかそのくらいでした。しかし、北島康介選手はすごいですよ。2分04秒で泳ぎますから。水着の進化や科学的サポートがあるとはいえ、私達の時代からすると、夢のような記録です。

 高知では進学校として有名な、私立土佐中学校・高等学校に通っていました。成績は真ん中の下あたりをうろうろ。生徒の8割が大学に進学するような環境でしたので、自然と自分も大学にはいくものだと決めていました。でも、サイン・コサインの三角関数を過ぎたくらいから、数学がチンプンカンプンになってきて、選択の微分積分は取りませんでした。だから、おのずと行き先は私立大学の文系に絞られる。浪人はしたくなかったので、最後は集中して受験勉強に取り組みましたよ。東京に行きたかったこともあって、早稲田大学を主として、いくつかの学部を流しで受験。それで、最初に合格発表があった第一政経学部に進学しています。

<北村正志をつくったルーツ2>
プロレタリアのために活動したトロツキスト。
学生運動にのめり込み、大学を除籍となる。

 高校時代の恋愛ですか? たいしたことないですよ、人並だったと思います。もう70歳手前のじいさんつかまえて、そんなこと聞いても仕方ないでしょう(笑)。なぜ、早稲田だったのか? うちはそれほど裕福な家庭でもなかったし、お金持ちは慶應というイメージがあったから。そりゃあ、石原裕次郎は、早稲田にはいないでしょう(笑)。東京に出てきて、初めてのひとり暮らし。毎日が楽しくてしょうがなかった。ただし、大学生になってはみたものの、授業に出席したり、勉強したりした記憶は、ほとんどないですねえ。私は最初から「デカダン」でしたから。最近の人は知らない言葉でしょうけど、廃退的、ふまじめという意味です(笑)。

 当時は60年安保の真っただ中だったこともあって、男はだいたい学生運動に関わっていました。かく言う私も同じように、どんどん学生運動にのめり込んでいきました。大学の勉強はしませんでしたが、本は人一倍たくさん読みました。ジャンルを問わず、いろんな本をとにかく読み漁りました。プロレタリアのために闘っていたトロツキストでしたし、かつ、もの思う青年だったわけですね(笑)。大学には、6年間ほど通ったことになりますかね。ちなみに、私は大学を除籍になっているんですよ。自分の意志でやめたのではなく、大学の意思で、ということです。

 学生運動にのめり込みすぎて、自分としては確信犯なんですけど、刑法の有罪判決を受けましてね。裁判にも何度も通って、1年8カ月の執行猶予でしたか。大学の法律では、刑法で有罪となった学生は、即そのまま除籍でしたから。ハガキ1枚の通知で終わりですわ。でも、除籍になった後も1年くらいは毎日元気に登校していました(笑)。それで就職もできず食い詰めまして。仕方なく父に泣きついて、家業の取引先だった浅沼商会という大きな老舗問屋に丁稚扱いで雇ってもらいました。竹ぼうきを持って倉庫で働いていましたよ。そこでは1年と少しお世話になって、家業のカメラ屋に入社したのが1967年。その時、私は26歳になっていました。

<流通革命>
渥美俊一の「チェーンストア理論」に開眼。卸業よりも店を増やす事業にロマンを感じる

 当時は、カラー写真の現像所が出始めた頃でした。私が担当していた仕事は、いってみれば地域の写真屋さんへの卸業ですね。お客さんが写真屋さんに預けたフィルムを集荷して、自社の現像所でプリントしたカラー写真を写真屋さんに収めるという。そんな頃、新聞に「流通革命」という言葉が出始めて、ダイエーが百億円企業になるとか、そんなニュースが報じられていました。その少し前に偶然、書店で立ち読みしていたのが、渥美俊一先生が書かれた「チェーンストア理論」に関する書籍です。渥美先生は「ペガサスクラブ」という団体を主宰されていたのですが、その初期メンバーは、若き日のダイエー・中内功さん、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊さん、イオンの岡田卓也さんなど、1兆円企業になられた先輩経営者の方々。今でも日本の大手チェーンストアの約8割、流通企業の約5割が加盟している、由緒正しい会員制の経営研究団体です。

 もちろん、当社も「ペガサスクラブ」の会員企業になっていまして、渥美さんの著書との出合いが、私の企業家精神に火をつけたのです。卸業を続けるよりは、店の数を増やすほうが断然面白そうじゃないかと。残念ながら、今年7月に渥美先生はご逝去されて、お悔やみの会に私も参加してきました。数千人は集ったと思いますが、日本を代表する流通企業の重鎮もたくさん参列されていました。

話を戻しますと、地域の卸業ではなく、全国展開するチェーンストアの確立を目指そうと考えはしましたが、四国でそれを始めると、自社のお客様の商売を邪魔する恐れがありました。そこで、1976年、瀬戸内海を挟んだ四国の隣、まだ取引先が存在しない岡山県の倉敷市の郊外に、今のような形態の「カメラのキタムラ」1号店を出店したのです。

 それまでの写真屋は、駅前の繁華街に店舗面積10~20坪ほどの店を構えるのが一般的でした。しかし、私がつくった店舗は、周りが田んぼのロードサイドに、約100坪の大型店。この挑戦が唯一、私が実行して成功させた業界イノベーションだと思っています。うちの会社も四国の中で3つの支店を経営はしていましたが、本部で一括仕入れを行うセントラルコントロールのチェーンストアと支店経営は全く違います。当時の写真屋としては、100坪の店を出すなんて、かなりの度胸が要りましたよ。金もない、人もない、そんな中での始まりでしたからね。その頃の銀行は、重化学工業への融資はしてくれても、小さな商業にはなかなか融資してくれない。うちの商売なんて、融資するに足る産業として認めてくれていなかったと思います。

<唯一の自慢できる作品>
田んぼの周りか、ロードサイドに大型店。
これが写真屋に貢献したイノベーション

 店を新しく出せば、当然ですが初年度は赤字になる。でも、1店つくったら2店目、次の3店目というものじゃないんです。渥美先生が言われているチェーンストアとは、1000店出す内の1店をつくったから、残りはあと999店という考え方です。うちもチェーンストアの確立を目指して、倉敷に1店目を出しましたが、その店舗は、土地代の安い田んぼの真ん中に、人手をできるだけ省いたオープン陳列の半セルフサービスの店。これが当たったんですね。お客様にしてみると買わずに出られるから、気軽に入店できる。そんな店への入り易さが受けて、「カメラのキタムラ」の人気は徐々に高まっていきます。さらに、元々やっていた現像ビジネスは装置産業で、粗利の高いDPEもどんどん増えていきました。

 結局、岡山県内で26軒の店をつくり、マーケットが飽和状態となったことを機に、西へ東へと向かい始めました。まずは広島県、兵庫県、そして全国へと店舗網を拡大していくことになります。カメラはもちろん、アルバムなどの関連商品も、10万人商圏の同業他店と比べて断トツに充実させました。日本の人口を1億人とすると、店舗当たりの商圏が10万人としても単純計算で1000店出すことができる。30店目の頃でしたか、それが一番経営効率の良いやり方だと思いました。紆余曲折を経ながら、10年以上かけて100店舗を達成し、250店舗になったのが1999年。このくらいになると、出店する店の成功確率はかなり高まっていました。まあ、かなりのトレーニングを強いられましたから。それで、1999年から2001年の間に、毎年100店ずつ、300店舗を作りました。30年かけてやってきたことを、3年でやってやろうと。

 どこのチェーンストアも同じようなやり方をしているのですが、この商売、売る時は現金で貰って、仕入れ元に支払うのは翌月でしょう。実はメーカーと問屋のお金で、設備投資をさせてもらっているようなものですよ。そうしないと、無から有ができないわけです。もうひとつ、当社は、外部に対していっさいウソのない、フルオープンの経営情報の公開をしてきました。銀行にお金を貸し渋られた記憶は全くないです。今だってそうですね…まあ、今のところは貸してくれています(笑)。ただ、打ち立てた目標どおり、2001年に直営550店舗を構えたのはいいのですが、ここから地獄が始まるとは予想もしていませんでした。私の人生の苦労はすべて後半になってからです。ご存じのとおり、フィルムカメラの市場がどんどんデジタルカメラに食われていったのです……。

●次週、「オンリーワンの業態をつくり続け、ナンバーワンの座を維持し続ける!」の後編へ続く→

一番の敵は写真を撮影した最終消費者の習慣。
デジタル時代の写真屋の生き残りをかけた勝負!

<地獄の始まり>
デジタル化とインターネットの高速化により、
苦労して築きあげた事業が暗礁に乗り上げる

 普通は若い時に苦労して、年取ったら楽になるはずでしょう。それが60歳をすぎてから地獄とは……。辞め時を間違えてしまったようです(苦笑)。ある程度、予想はしていましたが、ここまでフィルムカメラが駆逐されてしまうとは思ってもみませんでした。フィルムカメラの販売とDPEという粗利益の高い商品構成、そして土地価格と人件費を抑えたローコスト運営で得た収益をもとに、550店舗をつくってきたのです。その設計図が、時代の変化によって大きく覆ってしまった。2000年に52万台だったフィルムカメラの販売台数が、翌年2001年には46万台に減少。その後は、毎年約30%のダウンを続け、2008年には、最盛期450万台あった国内生産量もほぼゼロになっています。その代わり、当時生産台数50万台程度のデジカメは年々生産量を増やし、2008年には1000万台を超えました。

 自分自身、フィルムカメラが好きでしたからね。そのために、デジカメの台頭に対抗していた部分もありました。2002年、「やめるか?」「やりぬくか?」、私はその決断に迫られたのです。でも、最終的には数千人の従業員の顔がよぎった。ここまで一緒に頑張ってきてくれたみんなを守るためには、店と会社を継続させることが一番大切である。「本業の変革・変化をやりぬく」「デジタル時代の写真屋として生き抜く」。不退転の覚悟を決めました。先に述べましたが、まずはデジカメを売りまくり、ひとりでも多くのお客さんにデジカメを持ってもらう。そのうえで、キタムラでデジカメを買ってくれたお客さまに、キタムラで写真を現像してもらえるように、あの手この手でサービスを展開するという戦略です。

 2000年前後、DPEは6000億円の市場でした。それが今では、1500億円に縮小しています。デジカメが台頭してから、ビッグカメラやヤマダ電機などの家電量販店がデジカメ販売市場になだれ込んできて、ピーク時で3万店あった街の写真屋はもう1万店を切っています。当然ですが、当社も大きな打撃を受け、フィルムカメラでは30%のトップシェアを握っていたポジションから陥落。業態転換のスタートとして、主力商品をフィルムカメラからデジカメに切り替え、販売目標を100万台に定めた。先行する家電量販店に売り勝つために、日々、家電量販店の販売価格をウォッチしながら、少しでも、1円でも安く売る。店舗のスタッフには原価割れでもOKという指示を出しました。

<大改革へ!>
ライバルが次々に消えていく環境下、オンリーワンの新業態を目指し続ける

 さらに、1台1500万円もするデジタルプリンターを当時の全店に導入し、デジカメプリントに対応。この先行投資のために、約200億円を投下しています。デジカメへの対応が一段落したと思ったら、今度は高速インターネットとデジカメ機能を備えた携帯電話が出てきました。これらによって、人々のシャッターを押す回数は、昔の10倍以上になったと思います。ただし、その写真や映像はネット空間を行き来したり、パソコンや外部メディアに保存されたままで、なかなか紙に焼き付けてはもらえない……。現像される写真は、シャッターを押された分の数十分の1くらいでしょう。また、家庭用プリンターの性能が劇的に向上しましたから、その内の半分はさらに家でプリントされる……。

 いずれにせよ、もう昔のままのカメラの販売、DPEを拡大していくだけでは生き残ることはできません。デジタル時代の新しい写真屋として生き残るためには、規模感も必要であると考え、2006年に「カメラのきむら」84店舗、2007年には、ジャスフォートの「スナップス」510店舗を買収し、全国1000店舗の体制を構築しています。このM&A対策に投じたのが、約110億円です。全体の中での存在感を高めることで、生存確率が高まるはずという戦略です。写真屋という凋落を続ける業種ではありますが、その中でもオンリーワンビジネスをつくり続けようと、日々努力しています。

 人には、写真や映像による「感動」「思い出」「きずな」が絶対に必要です。それをなくしてたまるかと、「やりぬく」と覚悟を決めた2002年以降、我々にできることはすべて、ひるむことなく挑戦し続けてきました。ちなみに、デジカメ販売ではヤマダ電機にトップシェアの座を譲っていますが、当社は一眼レフの比重が高く、15~20%のシェアで2位となっています。また、国内DPE用のカラーペーパーはほぼ100%富士フイルムが供給していますが、キタムラがその半分、50%を仕入れているという状況にあります。キタムラは現在、グループ連結年商で1400億円の会社ですが、写真屋全体の市場規模は2000億円程度でしかありません。ここまで来ると、このビジネスではいったい誰に勝てばいいのか、悩ましいところなのです。結局、一番の敵は、最終消費者であるお客様の習慣なのでしょう。

<未来へ~キタムラが目指すもの>
写真と映像を未来に残すための仕事を次から次へと、何でもチャレンジ!

 現状、統計的にキタムラでデジカメを買ったお客様が、半年以内にプリント依頼してくれる確率は34%あります。年に130万台ほどのデジカメを販売していますから、だいたい40万人ほどのお客様が来てくれている。それで年にレジを通るお客様が述べで3000万人。全体の来店人数は6000万人くらいですかね。子ども向けの写真スタジオ「スタジオマリオ」も、生き残りをかけた新しい商品ですよ。これも、形を変えたプリントなんです。カメラのキタムラの店内に、今、マリオを導入しながら入れ替えていて、これが約300店。来年で150億円ほどの規模を目指しています。とにかく、負けてたまるかというくらい、写真を残すための仕事を、次から次へ何にでもチャレンジしています。

 撮影した写真をプリントする際に、写真集のかたちにまとめるのがフォトブックです。欧州最大の集配ラボ「CeWe Color社」の社長が、「写真プリントの50%はフォトブックになる」と言っていました。ですが、今、キタムラのプリント事業が400億円ほどで、その内、40億円がフォトブックです。あとは、昔録った思い出ビデオのデジタル化。そんなこともやっています。これが年間10億円。365日、24時間、機械を動かしても追いつかないくらい需要があります。さらに10年前に始めた中古カメラ事業が60億円。そして最近、100店舗で始めたのがiPhoneの販売です。キタムラ専用のアプリもつくって、撮影からプリント注文まで一気通貫でOK。あとは、写真愛好家を増やすために、NPO法人フォトカルチャー倶楽部の支援、双葉社から発行している写真コンテスト専門雑誌『フォトコンライフ』の発行も手伝っています。

 現在は当社でもeコマースが伸びていて、グループ全体の売り上げが450億円ほどあります。eコマースとスタジオマリオが2、3割アップ。無くなっていくものを埋めていくために、身が細る思いで新しいことを必死にやってきました。泣き言は言わず前向きにやる。あとは死ぬしかない。年齢的に、そろそろ神様は許してくれないんじゃないかと思ながらやってます(笑)。だから、若い人が中心となって、写真に関連する領域に、とにかくどんどん商品を開発していく。10年前を振り返ってみると、社名は一緒ですが、まったく異質な事業体になっているわけです。これからも変化を続けながら、世の中のひとつのインフラになって生き続けるために、ダントツのオンリーワン企業を目指します。ただし、絶対に人切りはしません。小売業が人切りするなら、解散したほうがいい。当社の主役は、人間なのですから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
企業の存在意義は、企業自体が存続し続けること。
そして、その中で人が生き続けること

 時々、このようなインタビューや講演の依頼を受けるのですが、悲しいことに、依頼されるテーマが「何でまだ生きてるの?」という……ジュラ紀の恐竜を見るような感じですよ(笑)。チェーンオペレーションというのはマネジメントの領域ですから真似ができますが、マーケティングはセンス=感覚です。こういうことをお客様が望んでいる、それを先んじてやる。これが起業家精神だと思います。私はロードサイドに大きな写真屋を作っただけ。それが唯一の作品です。でも、ユニクロやニトリはすごいですね。早くから海外生産を確立して、新しいマーケットを牽引してきましたから。吉野家もすごく真面目な企業であり、ブランドと思っていましたが、同業でその吉野家を抜く企業が出てくると思いもよりませんでした。それくらいビジネスの変化が速くなっている。たった10年前と比べても、本当に隔世の感がありますよ。

 メッセージといいますか、私が40年前から依拠しているのは、ドラッカーです。偉いことを言うやっちゃなあと(笑)。ドラッカーは最近も脚光を浴びていますね。彼はオーストリアの大インテリで、ナチスからギリギリで逃げて、アメリカに受け入れられた人です。しかも、マルクスを全部知ったうえで、マルクス主義じゃないんですよね。ドラッカーが言っているのは、事業とは人を生かすための基本的な社会機関である、企業とは公器である。企業の目的は利益なんてのは、神話だと言いきっている。企業の本当の目的は、それ自体が存続し続けること。そして、その中で人が生きることが目的なのだと。それは道徳ではないけれど、きっと真実です。それが経営者に必要な、真の道徳なのだと納得できます。

 仕事は教えられても、真面目さだけは教えることができません。無能な上司は許せるけども、真面目さ、真摯さのない上司を部下は許さない。ですから、経営者を目指す以上、そういった社会性が大事だと思いますね。だいたい成功した経営者は、以下の2つを併せ持っているものです。一つはお客様のニーズを先取りして、それを実現するリーダーシップ。そしてもう一つが、真面目さ。これはイコールの才能ではありません。ただし、成功する起業家に絶対必要な二大要件ですよ。どちらかが欠けていても、事業は全うできない。そのバランスを取れている人が、起業家として生き残っているわけです。いずれにせよ起業して大志を成し遂げたいなら、まずは将来に向かった明確な夢を語り続けること、そして、人間に対する優しさを忘れないことです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.私はカメラが趣味ですが、ここ10年で一気にデジカメに代わってしまいました。
こんなに激しい業界変化にもかかわらず、御社は業態転換をやり抜けたのですが、その地獄のような苦労をやりとおせた秘訣はなんでしょうか。
(千葉県 会社員)

A.
2002年以来のフィルム写真の消滅化は9年目を迎えます。
わが社は、毎年、お客さまのニーズを開発して、とにかく生きてきました。だが、まだ続いています。
商品とサービスの開発を続けることが、新時代の業態開発そのものであります。
存在するものは陳腐化します。外部も内部も商品も組織も。今輝いている商品も売れなくなります。
会社が継続できるためには、常に革新が必要です。 意図的に捨てる勇気、未来を創る気力です。
そして、人は仕事の「場」で活躍し、貢献し、自己実現したいものです。

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