第114回 株式会社サンセットコーポレイション 丹野照夫

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第114回
株式会社サンセットコーポレイション 代表取締役社長
丹野照夫 Teruo Tanno

1967年、千葉県生まれ。高校1年で留年後、競輪選手を目指して猛練習に励むが、一流選手との実力差を痛感して断念。進学した大学は数日で自主退学。九州を放浪するなど、無為な時間を過ごす。その後、工事現場での肉体労働、不動産会社の営業職、長距離トラックの運転手など、短期間で多くの仕事を経験。バブル絶頂期の不動産会社勤務時代には、転売目的の戸建てとマンションを購入し、失敗。多額の借金を背負う。偶然入った古本屋で旧友に再会し、リサイクルビジネスの粗利率の高さに驚愕。すべての退路を断ち、このビジネスで勝負することを決意する。1991年、24歳で、千葉県中央区に6坪のリサイクルショップを開業。創業時から「サービスによる参入障壁の創出」を心がけ、紆余曲折を得ながらも、地道な多店舗展開を継続してきた。2010年7月現在、ゲーム、CD、DVD、書籍、コミックのほか、幅広い商品を扱うエンターテイメントリサイクルショップ「エンターキング」を千葉、東京、埼玉を中心に33店舗展開中。関連会社2社も含めた連結年商は前期に120億円を超えている。

ライフスタイル

好きな食べ物

ラーメンに餃子、レバ刺しも。
ラーメンに餃子、あ、餃子は「王将」が好きです。あとは、レバ刺しとか、馬刺しとか。お酒は数年前までいっさい飲まなかったのですが、ある時、滝行に参加した後、なぜか飲むようになりました。何でも飲みますが、一番好きなのはビールですね。

趣味

スポーツと読書。
う~ん……仕事が一番楽しいですけど、強いて挙げるとすれば、スポーツでしょうか。時間があまり取れないので、効率的に体が鍛えられるスポーツジムに行く程度です。基本的なウェイトトレーニングと自転車などの有酸素運動が中心ですね。加圧トレーニングも少々。そうそう、読書は大好きです。気になった表紙の本はどんどん買ってしまいます。

行ってみたい場所

パワースポットです。
成功は個人の能力と行動が99%、運は1%に満たないものと思っています。私の知り合いで風水住宅を建てた社長の会社が倒産したのですが、やるべきことをやらずして、何かに頼ると甘えに支配され、大切な何かがダメになると思います。ただ、やりきったうえで、運の良くなる行動をしたら、どんなに良くなるだろうと(笑)。だから、世界的に有名なパワースポットであるアリゾナに行ってみたいですね。

最近感動したこと

映画「スラムドッグ$ミリオネア」です。
昨年、アカデミー賞作品賞を受賞したあのインド映画です。出張に向かう飛行機の中で偶然見たのですが、思わず引き込まれましたね。もうダメだ、もうダメだとなるスリリングな展開もそうですが、そこをあきらめずなんとか前に進むストーリーが良かった。起業したての頃の初心を思い出させてくれた作品でしたね。


わずか6坪でスタートしたリサイクルショップが、
創業19年で44店舗、年商120億円のビッグビジネスに!

 サンセットコーポレイションの創業者・丹野照夫氏が、24歳で開業した店舗面積わずか6坪のリサイクルショップが同社の歴史の始まりだった。創業から数年は、月の生活費3万円以下。そんな地道な努力と率先垂範のマネジメントを継続しながらも、人材募集の効率化を目指した大型店舗の出店、商品の単品管理を徹底するための自社POSシステムの導入など、チャンスと見るやすぐにチャレンジ。慎重さと大胆さを武器に、千葉、東京、埼玉のドミナント戦略による多店舗化を成功させてきた。「創業当初、サービスによる参入障壁をつくろうと考えました。当時はまだ、常連客と初来店客で同じ商品の買い取り価格を変えたり、立ち読み客を怒鳴って追い帰したりする古本屋が多かったのですが、その真逆をやれば、必ず選ばれる店になると思いました」。今回はそんな丹野氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<丹野照夫をつ くったルーツ1>
カブト虫を取って、店の軒先を借りて販売。稼いだお金で仲間たちにおごるのが好きだった

 父は某官庁に勤務する公務員。母は専業主婦で、私は姉と妹に挟まれた長男として育ちました。公務員家庭というと堅そうなイメージかもしれませんが、家はかなりの放任主義でした。生まれは千葉県の習志野市で、小学校の頃の遊びといえば釣りと虫捕り。だいたい自転車に乗って仲間たちと出かけるわけですが、うなぎは夜のほうが釣れましたし、カブト虫も当然夜行性じゃないですか。夜中に家を抜け出しても、自宅から1時間くらい離れた川で釣りをして遅くに帰って来ても、まったく怒られませんでした。そういえば、私はこの頃から商売というか、仕事をしていました。まあ、子供ながらのお遊びではありましたけれど。カブト虫を売ったり、鉄くずを集めてスクラップ屋に売ってみたり。

 仲間を集めてみんなで作戦を練って、たくさんカブト虫を捕る方法を考えました。ガキ大将の私が中心になり、子供ながらにディスカッションをするわけです。トラップに使う蜜にお酒を混ぜると良いのではないか、とか。メスを木に縛り付けておいたらオスがたくさん集まるのではないか、とか(笑)。そうやってチームワークを組んで、成果を挙げることがすごく楽しかったですね。多く捕れれば捕れるほど、儲かるわけですし。そんな仕事で得たお金で、数万円を超えるラジコンカーを買ったり、仲間と一緒にラーメン屋や洋食屋でごはんを食べたり。家があまり裕福じゃない友達がひとりいたんですが、そいつの喜ぶ顔を見ることも、仕事を頑張っていた理由でしたね。

 勉強は嫌いでした。学校ではいつもふざけていたというか、みんなとじゃれあっていたというか。プロレスが好きだったので、痛くない程度に技をかけ合ったりして。あれは小5の時、女性の担任教師が「丹野君から嫌なことをされた人は前へ出てきて。丹野君を一度ずつ蹴っても叩いてもいいから」と言い出したのですよ。そうしたらクラスの全員が手を挙げて、一発ずつやられた。かなりのショックでしたね。今考えても、あの先生のやり方はひどかったと思いますが、自分にとっては良かったのかなと。弱者の気持ちがわかるようになりましたから。

<丹野照夫をつくったルーツ2>
勉強は大の苦手、スポーツもいまひとつ。高1の数学試験に失敗し留年を経験する。

 小3の時、当時大人気だった「ピンクレディ」に会えることになったのですよ。友達の父親が新聞社の会社員で、「会わせてやる」と。平日だったのですが、病欠を理由に学校を休んで出かけました。後日、その友人が自慢げに、日付入りのサイン色紙を学校に持ってきてしまって。即、私のずる休みがバレまして、血みどろになるまで先生にビンタされましたよ。でも、その友達は叩かれる恐怖に耐えられず、学校があった習志野から印旛沼まで逃走して、最後は警察に保護された(笑)。そこまでやった彼は許されて、結局、僕だけが先生からの体罰にさらされたわけです。中学でもそうでしたが、私たちの頃は先生からの体罰は日常茶飯事。小中時代は叩かれた思い出ばっかりです(笑)。

 特に、私が通っていた中学は、ものすごく怖い先生が多くて、校内暴力の話を聞いても、生徒が先生に手をあげるなんて想像すらできませんでした。グレていた卒業生が暴走族になってお礼参りに来た時も、ボコボコにされて返り討ちにあっていましたからね。ちなみに部活は柔道部から誘われましたが、ミーハー気分でバスケット部に入部しましたね。でも、練習はあまり熱心でなく、試合にも出たり出なかったり。この頃になると、身体能力の差が歴然としてくるでしょう。私も運動は出来できたほうですが、100メートルを11秒台前半で走ったり、1500メートルを3分台で走ったりするやつが出てくる。プロを目指せる人と、目指せない人がわかるようになる。残念だけど自分は後者だろうなと。勉強も苦手で、運動もいまひとつ。中学時代は楽しい思い出なんかほとんどなくて、うっ屈とした日々を過ごしていましたね。

 県立高校に進学しましたが、家の解体作業など、肉体労働のアルバイトに明け暮れていました。1980年代当時はバブル景気の全盛期で、多い時は日当で2万円くらい出ましたね。稼いだお金はだいたい仲間との飲食代に消えていました。今もそうなのですが、私は仲間にご馳走することが大好きなようです。夜の現場に出た日の翌日は、昼過ぎから高校に行ったりして、ほんと、適当に過ごしていました。そして、勉強しなくても卒業はさせてくれるだろうと高をくくっていたら、1年時の数学の試験で赤点を取って、留年させられました。いや、驚いたのはもちろんですが、かなりのショックですよ。ちなみに、その数学の先生は、縁あってうちの会社の幹部になっています。今になって言うのですが、「留年はいい仕組みじゃない。だから、丹野を落としてからは、一人も留年させなかった」って……。ひどい話ですよね(笑)。

<プロスポーツ選手になろう!>
競輪選手になるため猛特訓するも壁に遭う。進学した大学を退学し、無為な日々に突入

 留年して高校をやめることも考えました。自分で解体業でも始めてみるかと。ただ、泥まみれで働くことを考えると、ずっとは嫌だなと思い、我慢して別の可能性を探してみることにしました。それで、競輪選手を目指してみようと思い立ちました。競技人口が少ないから、うまくやれば頂点を目指せると勘違いして。地元のプロの競輪選手に弟子入りして、2年間、必死でトレーニングに励んだ結果、師匠からは、「三流選手くらいならなれそうだ」と言われました。プロになるのを断念したのは、やっぱり素質の問題ですね。例えば、インターハイに出た人が自転車を始めると、私が1年かけて出したタイムをわずか3カ月で出してしまう……。そんな超えられない壁というか、厳しい現実を目の当たりにして。ただ、自転車に関しては「一所懸命、やり切った」という思いが残せたので、後悔はまったくしていないです。

 結局、人よりも1年長く高校に通い、現役で入れる大学を受験して、大学生になってみました。でも、すぐに自主退学。遊びに夢中な人ばかりで、このままここで4年間を過ごすのはあまりにもったいないと感じました。けど、その後は1日中自宅で寝ていたり、ふと九州や山口へ放浪の旅に出たり、バイトしながら過ごしたり、無為な日々を過ごすことになるのですね。1年半くらいそんな生活を続け、このままじゃやばいと思い立ち、自分をリセットすることを決めました。それでまた、肉体労働をすることにしました。1年間という期限を付けて、自分が一番やりたくないことで必死になってお金を貯めようと決意しました。いつか自分で商売しようと思っていましたから、その資金づくりをするという目的もありました。そして、あれは銀座の並木とおりの道路を掘っている時のことです。高級外車の列を見て、乗っている人は誰かと調べてみたら、不動産会社の社長が多かった。今度はそんな単純な理由で、不動産会社で働くことになるわけです。

 2つの会社で1年強、働いてみました。途中、中古の家を買ってリフォームして転売したら儲かるのではないかと魔がさして、1989年、一番土地価格が高かった時ですよ、中古の戸建てと、マンションを購入しました。そうしたら契約直後に湾岸戦争が起こり、さらに当時の大蔵省がいわゆる総量規制を行って、バブル景気がいっきに瓦解。多額の借金と売るに売れない不動産が残ってしまいました……。会社の仕事をこなしながら、夜は白タクのバイトをして、借金返済に充てるのですが、焼け石に水。腎臓を売ったらかなりの高値で売れるという話を聞いて、本気で悩みました。腎臓はふたつあるけど、確実に元気なほうの腎臓を持っていかれるのだろうな、とか。もちろん、売りませんでしたし、本当に売らなくてよかったと思います(笑)。

<ビジネスチャンスとの出合い>
古本屋で働く友人に教えてもらった粗利率に驚愕!この市場での勝負を決め、24歳で6坪の店を開業

 私は昔から読書が好きなのですが、その当時は節約中だったので、ある日、古本屋にふらりと入ったのですね。そうしたら、その店で友人がバイトをしていまして。こっそり売上帳を見せてもらったら、かなりの粗利率に驚きました。この時ですね、初めてリサイクルビジネスで勝負しようと思ったのは。そして、その店のオーナーにノウハウを教えてほしいと頼んだら、「3年は丁稚奉公しろ」と。そこまでは待てないので、どうすればいいか友人に相談すると、「100万円くらい出せばノウハウを教えてくれるんじゃないかな」。そう言われて、すぐに虎の子の100万円をオーナーに提示したところ、すんなりと古本商売のノウハウを、1から10まで教えてくれました(笑)。その後、すぐに開業のための資金稼ぎをスタート。長距離トラックの仕事で、1年間、毎月60万円を稼ぐことを決めました。

 トラックの運転手を選んだ理由は、旅行気分で仕事できるし、楽しそうだと思って決めました。ただ、甘かったですね。西に行こうが、東に行こうが、当然ですがまったく同じ道。1カ月で飽きました。でも、一度決めたことですから続けました。月に60万円を稼ぐためには、1日の睡眠時間は2、3時間くらいになります。眠くなったら、まち針でふとももを刺しながら運転し続けました。ある時、神経を傷つける寸前まで深く針を刺してしまって足が痺れてしまいました。それからは止めが付いて深く刺せない「瞬間接着剤」の針を使うようにしました(笑)。何度も居眠り運転で死にそうな目に遭っていますから、必死でした。睡眠時間を削ってまで、あまりに働くものだから、運転手仲間に「あいつはきっと覚せい剤を打ちながら働いている」と噂をされたり、注射の跡を確かめるために「袖をまくって腕を見せろ」と言われたことも。確かに、足には眠気覚ましの針の刺し跡がありましたけど(笑)。

 そして、1991年、24歳の時、千葉県中央区に最初の店舗を開業します。ある会社の営業所が入っている建物の1階、目の前が駐車場、6坪の物件で、開業資金は総額で260万円。什器などは廃材を使って手づくりで安く仕上げました。不動産会社で働いていた時、そのあたりの立地調査をしていたので土地勘もあり、お客さまの導線もなんとなくわかっていたので、出店地に選びました。借りた建物は夜になると営業車がすべて出払うので、空になった駐車場を使える点もよかったですね。商品は本だけではなく、ゲームやCDも扱うことにしました。それでふたを開けてみたら、予想以上の盛況で「うまくやれば多店舗展開して大成功できる」と、開業後1週間で確信しました。そこまでの私の人生は、ある意味負けっぱなしだったでしょう。これでダメなら、マグロ船に乗って働くしかないと思っていましたから、手ごたえを感じた時の喜びはものすごく大きなものでした。

●次週、「6坪で始まった事業が、年商120億円強の会社に育つまで」の後編へ続く→

チャンス&チャレンジで、時には慎重に、時には大胆に。
仲間と知恵を出し合いながら、会社を成長させ続ける

<サービスによる参入障壁づくり>
過労のため開業3カ月目に脳卒中で病院へ搬送。
命に別条がないと聞いた瞬間、すぐに仕事に復帰する

 100メートルを10秒台で走れる日本人だったら、きっとCM出演料だけで食っていけますよね。そんな存在に、ずっと憧れていました。でも残念ですが、私にはそんな才能はないわけです。高校生の頃、城山三郎さんの『外食王の飢え』という本を読みました。ファミリーレストランの黎明期の物語で、登場する会社が、仲間と知恵を出し合って困難を脱するストーリーなのですが、そんなストーリーに感動して、今の社名の「サンセット」は小説の中に登場する企業から取りました。自分は昔から整理整頓ができないし、教科書の勉強が嫌いで物覚えが悪い。先日、当社の幹部と一緒に参加した研修で、漢文を覚えるカリキュラムがありましたが、58人中私が最下位でした(笑)。苦手なことは人にお願いすればいい。この事業をスタートした時から、仲間と知恵を出し合って、会社を成長させていきたいと考えていました。もちろん、自分にできることはすべてやり切ったうえで。

 創業当初、サービスによる参入障壁をつくろうと考えました。当時はまだ、常連客と初来店客で同じ商品の買い取り価格を変えたり、立ち読み客を怒鳴って追い帰したりする古本屋が多かったのですが、その真逆をやれば、必ず選ばれる店になると思いました。だから、まずは買い取り価格を店内に明示し、本と一緒にゲームソフトや音楽CDなど、お客さまから要望の高い商材も取り扱うことにしました。また、24時間営業をするために、来客用のベルを設置して、私はずっと店のカウンターの裏や車で寝たりしていました。さらにお客さまから「この商品はないの?」と聞かれて在庫がなければ、すぐに買いに走って用意しました。そんな努力を続けていくと、お客さまの傾向がよく分かるようになって、仕入れする際にも役立つわけです。そしてリサイクルビジネスでは、常連客が大事な仕入れ先になることもわかってきました。

 ただ、過労がたたって、開業3カ月目に、軽い脳卒中でぶっ倒れてしまいました。もちろんすぐに病院に運ばれて、精密検査をしてもらいました。そうしたら、「命に別条はないが、1週間は入院して様子を見るべきです」と。ただ、せっかく軌道に乗り始めた商売を休みたくありません。とりあえず死ぬことはないと聞いた瞬間に、病院を抜け出して、店に戻って働いていましたね。それくらいこのリサイクルビジネスに賭けていたということです。今度こそ、自分の嗅覚に間違いはないと思っていましたから。肉体労働を辞めた時、不動産会社を辞めた時、長距離トラックの運転手を辞めた時、私はその時の作業服やスーツを全部捨てました。退路を断つという意味もありますが、二度と戻らないという覚悟の決意でもありました。

<率先垂範マネジメント>
社長がスタッフに毎日3度のモーニングコール?一番の苦労は創業時の人材マネジメントだった

 創業から3年間は、毎月3万円以下で生活していました。今は止めていますが、当時はかなりのヘビースモーカーだったので、しんどかったです。だからその頃の服装は、ほぼ1年を通して同じジーパンとTシャツです。さらに、会社で使う車も当然ですが軽自動車。バイトスタッフのほうが良い車に乗っていたと思います。それでもスタッフにご馳走する時は、どんとおごっていましたね。そうやって自分が我慢できるところはしっかり節約し、会社の成長のために必死で考えて働き続けました。そうして、1号店の出店コストは約3カ月で回収することができました。それから多店舗展開に向けてのアクションが始まるわけなのですが、店舗を増やすためには必ずスタッフが必要になりますよね。今抱えている不安よりも、その頃の人材に関する不安のほうが格段に大きかったと思います。

 過去にいろんな人がいてくれたからこそ、今のサンセットコーポレイションがあるわけですが、初期の頃の人材マネジメントは本当に大変でしたね。人手不足という時代背景もあったのでしょうが、そもそも小さなリサイクルショップには、なかなか人が来てくれないのです。せっかく採用できてもすぐに辞める。店頭にスタッフ募集の貼り紙を張ってもダメ。求人誌で募集しても、面接希望者が近くまで来て、店を見ただけで帰ってしまう……。そんな状況ですから、私はスタッフに3回もモーニングコールをしていました。朝一番で自宅に「おはよう。もう起きたかな?」。その後に「もう家を出る時間だよ」。次に店に「もう出社したかな?」と。店に出てなかったら、そのスタッフの自宅と店の間にあるファミリーレストランなどをパトロールして、見つけて店に連れて行ったこともあります。

 結局、人に変わってもらうことは難しいですよね。だったら自分のやり方を変えようと思い至りました。まず店舗に魅力がないからダメだと思いました。それまでは小さな店舗で展開していたのですが、1994年、浦安に思い切って80坪の大型店を出店しました。それからは人材募集がかなり楽になって、多店舗展開への弾みがつきました。また、1997年には自社製のPOSシステムを全店に導入しました。資本金が2000万円強だった時に、1億5000万円ほどの投資ですから、これも大きな勝負でしたね。リサイクルビジネスは確かに粗利率が高いですが、どこも商品在庫の管理がずさんでした。自動車や住宅など同じリサイクル・リユース業界を見ていると、将来的に競合が増えていくのは目に見えていました。そこでいち早く、自社で単品管理をすることで、さらなるサービスの参入障壁をつくろうという戦略です。このPOSシステムのおかげで、「最大定価の80%で買い取り」「他店在庫商品のお取り寄せ」など、さまざまなサービスが生み出せています。

<未来へ~サンセットコーポレイションが目指すもの>
今は店舗出店のスピードよりも組織力の強化を優先。
スタッフにどんどんチャンスを提供していきたい

 今年、創業から数えて19年目を迎えました。サンセットグループとして現在、千葉・東京・埼玉を中心としたドミナント戦略で、中核の複合リサイクルショップ「エンターキング」を33店舗、FC加盟した古着のリサイクルショップ「ドンドンダウンオンウェンズデイ」1店舗、ブランドリサイクルショップ「銀蔵」4店舗、ほか幅広いラインナップを扱うリサイクルショップ「嬉楽座」6店舗と、計44店舗を展開しています。売り上げも順調に伸びており、2010年3月期の売り上げは連結で120億円を超えました。ただ、時代の流れのスピードは速く、世の中のニーズもどんどん変化を遂げています。私たちも次代のニーズにしっかり対応するべく、今、既存店のスクラップ&ビルドを推進しながら、地域一番店づくりに注力しているところです。

 もちろん競合との参入障壁となるサービスはどんどん実施していきます。たとえば、買い取りに来ていただいたお客さまにお飲み物や、お菓子を提供する店舗があります。また、ゲームの試遊機、トレーディングカードやオセロ、将棋などのプレイコーナーを設置している店舗があります。お金がなくてもお客さまが楽しめる場を設置したのは、できるだけ多くのファンを増やしておいて、いつかお金のある時に使ってもらえばいいという考え方です。また、本業以外の新たな事業の柱をつくるために、社内で新規事業を募り、最大1000万円の報奨金を得られる制度も始めています。すでにこの制度を使って、新規事業をスタートさせた社員もいますよ。自社で制作している店舗用什器を外販する事業なのですが、今のところはちょっと苦戦しているみたいですね。でも、なんでもやってみないとわからないですし、そもそも当社の企業理念は「チャンス&チャレンジ」ですから。

 これからは、スタッフにどんどんチャンスを提供していきたいと思っています。私自身はコンプレックスの塊ですが、忍耐力とビジネスへの嗅覚には自信があります。この会社の社長である自分を助けてくれて、逆に私や会社を「助けた」という達成感を手にした人に、社長を任せていきたい。目標は15人の経営者をつくりたいと考えていますが、すでに2社の関連会社がありますから、あと13人ですね。今後はエリア別の分社化も進めていく予定なので、我こそはという人はぜひ頑張ってほしい。もちろん、上場も目指していますが、それはあくまで通過点。また、店舗数の増加よりも、今やるべき最優先事項は組織の強化だと考えています。個人的な夢ですか? 気力が続く限り働いていたいということ。あと、体が動かなくなった時にも、サンセットの仲間たちにチャンスを与え続けられるような存在になっていること、ですかね。

<これか ら起業を目指す人たちへのメッセー ジ>
今の時代、執着しすぎると深手を負うことになる。
起業したら「忍耐と見切り」のポイントを見極めること

 起業する人に向けてのメッセージですか? 時代、時代によって異なるのだと思いますが、今なら「忍耐と見切り」ということになる気がしています。石の上にも三年とか、十年ひと昔とかいいますが、それ、20年前の私なら納得していたかもしれません。でも、これだけ変化のスピードが速い時代になると、どこまで耐えるべきかを考える事は大事です。ある事業の成功に固執して、ずっとかじり付いたまま倒産してしまった会社もあります。起業するためには一歩を踏み出す勇気が一番大切だとは思いますが、その後にどこまで耐えて、どこで引くか。しっかりマーケットを調べるなどして、「忍耐と見切り」のポイントを考えておいてほしいです。

 これから面白そうなマーケットがどこか考えてみると、インターネット的ではない、アナログ的なビジネスにチャンスがあるのではないかと思います。飲食業や不動産業もそうですし、その他のサービス業もそう。先祖がえりとでもいうのでしょうか、昔からあるもの、昔流行っていたのに今は廃れているもの。そんな中にビジネスチャンスがあるように思います。今後、日本国民の可処分所得は、残念ながらどんどん下がっていくでしょう。上がる要因が今のところまったく見えてこない。都内に住む若者の間で、シェアハウスが人気という話を聞きますが、住居の家賃相場が今よりも格段に下がる可能性もありますので、低価格の賃貸住居ビジネスなどは面白いと思います。

 結局は、ピンチはチャンスということに尽きます。サブプライム問題で大損してしまった人はたくさんいますが、あれ以降にものすごく儲けている人だっているわけです。時たま逆風が吹くのはしかたありませんよ。でも、そこで何かないかと貪欲に探っていくと、意外なチャンスが隠れているものなのです。私の場合、ある会社が倒産したという話を聞くと、「その会社の保有在庫はどうなるのだろう」と思います。そういう感覚が大事です。あと、こんな時代に一番頼れるのは、信頼できる人からの生の情報です。もちろん、起業資金をつくるためには、刑務所にいるくらいのつもりで節約することも大切ですが、交際費をケチってはダメだと思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.創業後になんども苦境に陥った際に、頑張り続けられる秘訣はなんでしょうか。 (千葉県 会社員)

A.
昔から前向きなイメージを持つことを心がけています。 失敗しても「今が底」と思えば後は上がるだけ。 コンプレックスが強いことも関係していますね。 大企業に入れるような学力も資格もないけど、「どうせアイツだから」って思われるのが嫌で、死ぬまで頑張ってみようと思ったんです。 今もコンプレックスと危機感は大事にしています

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