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第110回 株式会社ラ・アトレ 岡本 英

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

- 目次 -

第110回
株式会社ラ・アトレ 代表取締役
岡本 英 Hideshi Okamoto

1961年、東京都生まれ。法政大学第一高等学校(現・法政大学高等学校)から、法政大学法学部へ進学する。高校時代はアイスホッケー、大学時代はボディビル部に所属。高校3年の終わりから大学を卒業するまでの5年間、「肉の万世」でアルバイト。大学3年で「30歳までに起業する」と具体的な目標が定まる。人間の暮らしに欠かせない「衣食住」に携わる仕事から、一番大きな商売となる「住」を選び、宅地建物取引主任者資格を取得。卒業後、中堅マンションデベロッパーに入社。6カ月目に課長、2年目に本部長に昇進し、26歳で子会社の代表取締役に就任する。1990年12月、ラ・アトレの前身会社である「(株)ラ・アトレにじゅういち」(港区)を設立し、代表取締役に就任。1996年にはイタリア専門料理の会社「(株)メティウスフーズ」(千代田区)も起業し、現在10店舗展開中。(2001年に経営を委譲し現在は個人株主)ラ・アトレを設立15年目の2006年6月に、大証ヘラクレス市場へ上場させる。
また次の新たなるステージへ向けた企業成長のために、昨今の世界的な金融不況、グローバル化、少子高齢化、政治的不安など長期的企業環境を洞察するため、現在社会人ビジネススクールで名高い青山学院大学大学院・国際マネジメント研究科に入学し経営学修士(MBA)を来年取得予定。

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ライフスタイル

好きな食べ物

和食です。
和食でしょうか。魚、野菜、ああ、焼き鳥も好きです。お酒は嫌いじゃないのですが、最近はあまり。社業は忙しいですし、大学院とジムにも通っていますから、なかなかお酒を飲みに行く時間が取れないでいます。家に帰ってからたまに飲む、スパークリングワインくらいでしょうか。

趣味

エアロビです。
週に4回、スポーツジムに通っています。1回当たり2時間半、有酸素運動のエアロビクスを毎回2コマやりますね。もう4年以上続けているので、今でも私の腹筋は割れています(笑)。あとは学ぶことですかね。大学院に通い始めて、旧約聖書を初めて読んだり。学生時代のように嫌々ではなく、好きで行っているからなおさらです。

行ってみたい場所

海外なら、アフリカ、インド、フィンランド、ノルウェー。国内なら札幌です。
最近は仕事がらみで中国の上海、北京をよく訪れていますね。なので海外なら、アフリカ、インド、フィンランド、ノルウェーとか。どれだけの発展を遂げたのか、実際にこの目で見てみたいです。国内はけっこう行っているんですが、一番は北海道の札幌でしょうか。うまい食事が食べられますから。あとは、暖かい沖縄とか。

最近感動したこと

大学院での学びです。
やっぱり大学院での経験になってしまいます。特に行動心理学です。社員に、心から「やりたい」と思える本能で働いてもらえると、いいですよね。そのための声のかけ方、コミュニケーションの取り方とか。何となくわかっていたことを、論理的に学べる。今、そのまとめをつくっていて、最終的にはマニュアルにまとめる計画です。


全方位「脱・特化」型の不動産ビジネスで、
独自のポジションを築き、上場企業へ成長

 成長戦略として「全方位、脱・特化型ビジネスモデル」を標榜している不動産会社、ラ・アトレ。不動産業界においては新築のデベロッパーと中古再生の業者は完全に分かれており、新築と中古の両方を手がける会社は上場企業ではほとんどない。同社の戦略は全分野の事業に対応し、大手とのシェア争いを避け、総合不動産企業として着実に成長を遂げていこうというもの。また、営業エリアを首都圏(東京・千葉・神奈川・埼玉)に絞り込むことで、営業力の集中と精度の高い物件情報を得ることができている。30歳で起業するという自分との約束を果たし、1990年に同社を立ち上げた代表取締役の岡本英氏は言う。「そもそも衣食住に関連する産業は、未来永劫必要とされるもの。ちなみにラ・アトレとはフランス語で"魅力"という意味です。魅力ある商材を提供し続けることができれば、絶対に世の中から必要とされる会社になれると確信していました」。今回は、そんな岡本氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<岡本 英をつ くったルーツ1>
やりたいことは何でも自分でトライする性分。幼い頃から、いつかは社長になると決めていた。

 東京オリンピックを3年後に控えた昭和36年(1961年)、私は東京の広尾病院で産声を上げました。高度経済成長期で、どんどん日本が発展していくまさに過渡期です。自宅は中野区にあり、父は小規模ながら金融業を営む経営者。私の親戚に起業家が多かった。その影響で、物心ついた頃には、将来は起業したいと思っていました。自分の力で生きていきたいと。

 私は次男坊でしたから、1歳上の兄に比べると両親から大きな期待を背負うこともなく、けっこう自由な少年時代をすごしました。教養のため、親に、ピアノと書道へ通わされました。後になって役に立ちましたけれど。同時に自分で好きな野球と自転車に、はまっていました。友達の中で、自転車にいろんなアクセサリーを付けるのがはやっていて、私もストップライトがほしかった。でも、高いから買えないことはわかっていました。それで友人の自転車を貸してもらって、どうやったら光るのか、仕組みを調べたんです。そしたら意外と原理は簡単で、安く部品をそろえて自分でつくってみた。ブレーキハンドルを握ると、ちゃんとストップライトが光りましたよ。昔から、やりたいことは何でも自分でトライする性分は変わっていません。

 優秀な兄はろくに勉強することなく、早稲田実業中等部に合格。それで私も中学受験をすることになって、5年の終わりから塾通いを強いられました。いい迷惑ですよね。(笑)。夏休みの1カ月合宿が嫌で泣きましたよ。成績は中の上くらいだったと思うのですが、早実の受験は不合格。それで結局、地元の公立中学へ進学しています。中学では水泳部とテニス部に掛け持ち入部しました。テニスの中野区大会では3位に入賞。運動神経は小さな頃からいいほうだったのですが、私は1月生まれで中学までは4月や5月に生まれた同級生と学力や体力に差があって苦労しました。ちなみに兄は、5月生まれ。その差を埋めるために、自分は人一倍頑張らなければと常に思っていましたね。

<岡本 英をつくったルーツ2>
ボディビル部で強靭な体作りの方法と耐え抜く根性を育み、アルバイトで社会人を垣間見た大学時代

 高校は法政一高(現・法政大学中学高等学校)へ。兄が早実のアイスホッケー部に所属していたこともあって、私もアイスホッケーを始めることに。当時私立校でアイスホッケー部は10校ほどでした。いろんな意味で兄の影響はかなり受けていると思います。アイスホッケー部を2年までで辞めたのも、早稲田大学の理工学部へ進んだ兄のようになりたかったから。私も理系が得意で、法政ではなく東京工業大学に行きたいと思ったんです。でも、3年の途中で考えを変えました。この頃から父のように起業しようと、本気で考えるように。普通なら、そこで経営学部や経済学部を選ぶのかもしれませんが、法政大学の中では法学部の偏差値が一番高かった。ビジネスには法律も密接に関係してくるし、つぶしも効きそうです。それで結局、推薦を使って法政大学の法学部へ進学しました。ちなみに、兄は現在代ゼミの数学の講師をやっています。

 高校3年から、日本橋にある「肉の万世」でバイトを始めています。父が体を悪くしたこともあって、少しでも自分でお金を稼ごうと。昼間は学校で授業を受けて、夜にレストランで働くわけですが、いろんなビジネスパーソンがお客さまとしてこられるでしょう。そんな人たちを見ていると、1日でも早く社会人になりたいという思いがふくらんでいきました。大学ではボディビル部に入部しました。病気になった父のことを考えると、やはり経営者は健康と気力が資本。別にムキムキになりたかったわけではなく、経営者として大切なものを大学時代に培っておくためです。ただ、先輩からの命令は絶対で、半分は根性論のすごい部でしたね。非人道的なこともたくさんやらされた(笑)。飲み会ではいろんなものが混入された酒を一気飲みさせられたり、人前でいきなり大声で歌わされたり。ただ、人前でバカになれる度胸や、無理難題がふっかかってきても耐えられる根性は身につきました。自分が上級生になってからは、本来の部の目的以外の自分が嫌だと思ったものはすべてやめさせました(笑)。ただ、ポジティブに考えると、なかなか経験できない大切な経験ができたと思っています。

 大学時代も肉の万世のバイトもずっと続け、バイトでありながらマネジャーのような仕事もさせてもらいました。大学3年になって、将来経営者になるためにどうするか考えた。常に衰退しない産業で働こうと考えました。やはり衣食住に関連した業種だろうと。当時、IT産業は気がつかなかったですし、中でも一番大きな金額が扱えるダイナミクスな不動産業がいいと結論。30歳までに不動産業界で起業するという明確な目標を設定した。そのためには、宅建があったほうが有利だと思い、夏休みに勉強を始め秋に受験して宅建免許を取得。私の、長所のひとつである行動力。一度決めたらすぐに動くんです。バイト先の肉の万世の店長さんにはとてもかわいがってもらっていて、実は「ぜひうちに就職してほしい」とお誘いを受けたのですが、ていねいにお断りしました。でも、その店長さんとは、今でもお付き合いが続いています。

<社会人デビュー>
30歳までの起業を最短距離で実現するため、あえて中堅企業を選び、すぐさまトップセールスに

 30歳までに起業することをイメージして、就職先を探しました。不動産業にも賃貸、分譲、売買とさまざまな業態がありますが、私はマンションデベロッパーがいいかなと。そのうえで、大手企業ではなく中小企業に的を絞り、就職活動をスタート。社員数30~40人くらいの規模で、会社全体の動きや仕組みをなるべく早く把握できる会社を選んで受けました。自分も最初に起業する際は中小企業からのスタートになるわけですからね。そうやっていくつかの会社をリストアップし、面接を受け、中堅マンションデベロッパーに就職。当時22歳だった私は、まず1日1万円を手取りできるようになれば最高だと考えていましたが、その目標は入社して3カ月後には実現しています。8年後に起業するために、まずは営業を頑張る。そのために何をすればいいか、どうすれば売れるかを考え、実際に行動に移したからです。

 どうすればいいか? それは実際に売れている人に学ぶのがいい。会社の中でトップの人、それだけではなく同じ業界でトップの人。その人たちがどのような仕事をしているかを徹底的に研究しました。そして、まずは同じやり方を真似てみる。その後、自分なりのやり方に落とし込んでいく。さらに、その方法をどんどんブラッシュアップして繰り返し実行する。多くの人はトップのポジションにいる人は特別と思っているかもしれませんが、そんなことはありません。人間は誰だって他人を見て学ぶわけですからね。そして誰であろうが、自分と同じ人間じゃないですか。思いが実現しないと嘆いている人は、思うだけで行動に移さないだけ。私は他人にできて自分にできないことはないと信じて、24時間、365日、営業の仕事に打ち込んだ。知らないことを学べることが楽しくて仕方がなかった。その結果、入社3カ月後の私の月給は40万円を超えていたわけです。

 もちろん、失敗したこともあります。マンションを契約していただいたお客さまを怒らせてしまい、契約を破棄されてしまったのです。上司から聞いていた登記に必要な公的証明(住民票と印鑑証明)の提出必要枚数が、実は多かったというただそれだけのことなのですが。入社1カ月目のことでした。上司のせいにして終わり、それでもいいのかもしれません。入社1カ月だろうがお客さまから見れば全く関係はありません私は不動産のプロとして、自分は失格だと考えました。将来、起業して社長になったらすべての取引で生ずる問題が自分の責任になるわけでしょう。だから絶対失敗をしてお客さまに迷惑をかけないように、プロとして、営業の研究だけでなく、さまざまな知識を習得しておかなくてはと。不動産の登記はもちろん、住宅ローンやファイナンスの詳細、民法に建築基準法、家具やインテリアに関することまで、自分なりの理論武装でお客さまに接することができるよう、勉強し関係資格取得に励み続けました。

<26歳で子会社の社長に>
社員数20名、年商10億円ほどの子会社を、社員数100名、年商120億円の規模まで成長させる

 会社の営業部の社員に対する評価基準は、やはり営業成績重視。先輩社員を尻目にどんどん販売戸数を増やしていく新入社員の私は、入社6カ月で課長に昇進します。最初のメンバーは4人。自分自身が実際に結果を残していたので、社内でも一目置かれる存在になっていました。みんな、「どうすれば岡本のように売れるのか」、その理由を知りたいわけです。もちろん私はすべてのノウハウを惜しみなく公開しました。自分が3カ月かかってことを、チームの部下には1カ月でできるように一生懸命いろんな方法で教えました。課長になって以降は自分で営業するのではなく、メンバーのマネジメントに専念。部下の同行営業で契約のフォローをした結果、どんどんチームの売り上げが上がり、私は24歳で部長に抜擢されました。

 メンバーの営業成績を上げるために、「保有している中古マンションを買ってくれれば契約する」というお客さまの中古マンションを会社が下取りできず、責任を取り自分で購入したこともあります。24歳でマンションの所有者となり、その経験も営業トークに使いまました。「私もマンションを購入しています」と。転んでもただでは起きないということです(笑)。そうやって仕事にまい進していた26歳の時、「子会社の販売会社の社長を任せたい」と、オーナー社長から辞令を受けます。30歳で起業する目標を持っている私にとっては、願ったりかなったりのオーダーでした。もちろん、やるべき仕事量は格段に増え、忙しくなるわけですが、まさにウエルカム。本番前に実地訓練ができるんですから。迷うことなく引き受けさせていただきました。

 子会社とはいえ、社長になると、土地の仕入れから企画設計、販売だけでなく、細かな経営管理、財務、経理、労務管理も見なければいけません。また、この会社はほとんどが新卒入社した社員で構成されていましたから、人材の採用も。結局、退職するまでの4年間で、社員数20名、年商10億円くらいの規模から、社員数100名、年商120億円の規模まで成長させることができました。当時の私は、親会社の常務取締役と子会社の社長でピーク時には月給は300万円くらいあった。今よりだいぶ多かったですよ(笑)。仕事と待遇にいっさい不満はなかったのですが、自分との約束である30歳が近づいてきます。バブルの崩壊がしのび足で近づいているのも、もちろん知っていました。しかし、私は起業に踏み切る決断をします。少しずつ準備はしていましたし、1990年12月、まずはひとりで株式会社ラ・アトレにじゅういち(現在のラ・アトレ)という会社を設立し、社員を受け入れる用意を開始。バブルがはじける恐怖ですか? それはまったくなかったですね。自信がないなら、起業なんてしませんよ(笑)。

●次週、「全方位・脱特化型の不動産ビジネスモデルを構築し、快進撃!」の後編へ続く→

大手不動産企業には届かぬ物件情報を細かく集め、
魅力的な付加価値を付加し、顧客に届け続ける!

<いばらの時期に起業>
小規模な投下資金で展開でき、資金回収が早く、回転率の良いビジネスを選択しスタート!

 私が退職した時、同社のグループ従業員数は250名くらい。でも、私が社長を務めていた従業員数100名ほどの子会社がグループのほとんどの利益を稼いでいました。1990年、バブルの崩壊が近づいていたとはいえ、私が起業した当時の従業員数は10人程度。そのくらいの規模なら、まったく問題なくいけるだろうと思っていました。あと、確かに知名度の問題はありますが、差なんてあってないようなものでしょう。そもそも衣食住に関連する産業は、未来永劫必要とされるものじゃないですか。ちなみにラ・アトレとはフランス語で「魅力」という意味です。魅力ある商品・サービスを提供し続けることができれば、絶対に世の中から必要とされる会社になれると確信していました。

 ただ、当然のことながら、不動産ビジネスを行うに当たって、まずは売るためには仕入れなければ、企画・開発・分譲ができませんよね。土地や物件などを仕入れるには多額の資金が必要ですが、当社を立ち上げた時の資本金は、わずか2000万円です。当時はバブルが崩壊し始めた時期でしたから、銀行などの金融機関も簡単には融資してくれません。そんな中、起業して最初に手がけた事業は中古マンションのリニューアル販売でした。今でこそ市場ができてきていますが当時はほとんど業界で取り扱いがなかった。将来の中古マンション市場への先駆けでした。たとえば、東京の某地区にある中古マンションを購入し、そこから部屋すべてを、新築同様に最新の設備やデザインでリノベーションし、お客さまに購入いただくというやり方です。

 中古マンションのリニューアル販売以外にも、新築マンションの販売代理事業、賃貸管理事業、ゴルフ会員権事業なども手がけ始めました。将来、自分たちでオリジナルのマンションシリーズをデベロップメントしたいという思いはありましたが、やはりバブル崩壊による土地価格の下落が続く1990年代バブル崩壊当時の状況下では、小規模な投下資金で展開できるビジネス、しかも低リスクで資金回収が早く、回転率の良い事業や販売代理などのフィービジネスを選択するしかなかったのです。そして、徐々に実績を積み重ねまた土地価格下落の底打ち感も出始め、念願のデベロップメント事業に着手し始めたのが設立7年目の1997年。第一号は高級戸建「アトレビュー尾山台」でした。こうして新築物件事業にも本格参入することになり、その後、「ラ・アトレ」シリーズは、首都圏を中心に、マンション、高級戸建、タウンハウスへと商材を拡大していきます。

<ステップアップ!>
グリーンシートへの公開、ヘラクレスへの上場で、独自のビジネスモデルの成長スピードを加速する

 多くの場合がそうだと思うのですが、企業の創業期は潤沢な資金がありません。先ほども話したとおり、事業領域の間口を最初から広げていったのは、事業を継続するための運転資金をねん出するためであり、ある意味そうせざるを得なかったともいえます。しかし、やらざるを得なかったことに真剣に取り組んできたことで、今の当社の存在意義につながった。新築や中古といった特定の事業領域に集中せず、全方位、脱・特化を継続してきたことが、多くの出口戦略の商品をつくりだし、模倣困難なノウハウの蓄積となり、今の私たちのビジネスモデルを確立させ、さまざまなニーズを拾い集められるようになったのです。まさにここに差別化のポイントがある。

 また、大手企業と戦わないことも重要な戦略です。大手と競合して仕入れ価格の上昇や価格競争に巻き込まれても私たちに勝ち目はありません。不動産業界の熾烈な生存競争に打ち勝つために、さまざまな事業領域において、大手と競合せぬよう比較的小規模でかつ手間のかかる多様化を手がけてきたからこそ、現場の効率化や有効性を求める組織体質やノウハウを得ることができ、その結果、商品回転率の良さでリスクを抑え安定成長ができてきたのだと思っています。おかげさまで、2000年にはグリーンシート市場(未公開市場)に登録し、約8000万円の資金調達に成功。株式公開により、すべての財務内容をオープンにしたことで、従業員の意識改革につながりましたし、取引のあった金融機関からの信用も格段にアップ。それがきっかけとなり、融資額も増え、事業の幅も広がっていきました。

 マンション、戸建住宅、オフィスビル、社宅などの中古再生リノベーションやコンバージョン事業。そして、使い勝手の悪い土地や小規模な土地など、大手では扱いきれないような情報が、さらに当社に集まってくるようになりました。「ラ・アトレなら、きっと何とかしてくるだろう」と。これまでずっと、中古、新築問わず、物件の本質を把握し、どのようにかたちを変えれば、もっとも快適で魅力的な付加価値をつけることができるのか。不動産業界における、全方位、脱・特化型のノウハウがどんどん当社の中に蓄積されていったわけです。そして、商圏を首都圏の大都市に限定する「ドミナント戦略」をとり、全社一丸となって「最適な付加価値」を真剣に考え続け、お客さまの期待に応え続けてきました。それらの結果が、設立から15年目の2006年6月、ヘラクレス市場への上場実現だと思っています。

<未来へ~ラ・アトレが目指すもの>
リバイバル期間と定めた3年を実りあるものとし、
その間に仕立てた筋書きで次の中長期目標である上位市場の昇格を狙う!

 起業後から上場するまでは、創業社長としての個人経営の域を超えなければならない。そして次のステージを目指し、かつ長期的に安定成長するために必要な組織体制と所有、経営の分離であるガバナンス体制やCSRを含むコンプライアンス体制などを整えなければならない。次のステップに進んでいくために、組織がきちんと回っていくようなマネジメントをしていかなければと考え始めたのが、ヘラクレス市場に上場する前後。そうやってトップ層に権限移譲を進めていたタイミングで、サブプライムローン問題が勃発。まさに組織の再構築を進めていたタイミングです。金融不動産を扱っている身ですから、市況は4、5年上向かないかもしれないと直感的に思いました。そうやってマネジメントの問題と市況の問題がいっぺんに重なってしまい、次のステップへの方向性を変更せざるを得なくなった。

 当社は、脱・特化をビジネスモデルとし、不動産にかかわるさまざまな事業を展開してきました。しかし、このような環境に対応するため、展開中の事業の中から今のような不況下でも安定的な収益を挙げている事業を選別し、逆にリスクの高い事業からは撤退することを決定。もちろん、株主の皆様にはしっかりとそのことをディスクローズして。2007年4月から取り組んできた中期経営計画「ラ・アトレグローアップ1st&2nd Stage」を見直し、新たに第20期(2009年4月~2010年3月)から始まる3年間を事業再構築期間として「ラ・アトレリバイバル期間」と定め、「新築マンション(アウトレット・マンション)買取再販業務」「中古リニューアルマンション(リノベーションマンション)販売業務」「不動産管理事業」の3事業に経営資源を集中することにしました。

 ただし、リバイバル期間を終えたらその後の戦略をどうしていくか。自分自身がしっかりとその筋書きを考え、整えるために、今年の4月から青山学院大学大学院の15年以上の職業実務経験者を対象にしたプログラムEMBA(エグゼクティブMBA)に通い、1年後のMBAの学位取得を目指しています。学びながらも、将来当社が大きくなった時に必要となる、創業社長としての個人経営の域を超え次期ステージを目指しかつ長期的に安定成長するために必要な組織体制また所有と経営の分離であるガバナンス体制やCSRを含むコンプライアンス体制など充実のため、さまざまな専門家や実務家などとの出会い、また、上位市場に上場するまでに必要な情報やデータの研究にも役立てるつもりです。いずれにせよもうすぐ私も50歳。起業家として会社を発展させることは当然として、これまで約四半世紀、経営者として事業経験で培ってきたものを、いかに社会にプラスとして還元するか。個人としての経営コンサルタントとしての能力も高めつつ、常に成長を続けていきます。

<これから起業を目指 す人たちへのメッセージ>
知っているけど、どうすればいいか考えない。実はここに大きなビジネスチャンスがある

 これからの日本が危惧するところというのは、まあ、日本だけには限りませんが。グローバル化による、人口減少や少子高齢化などこのままでは、超大手企業の、たとえば銀行の時価総額はここ10年の間に半分くらいになっているわけです。今後、日本はこれまでのような成長をしていくのは難しいと思うんです。どうなっていくんでしょうね。北欧の国々のような、福祉国家になっていくのかもしれない。そんな中、地球上の人類と企業は大きな変革期を迎えています。具体的には、トーマス・フリードマンの言う世界のフラット化。最近の日本企業における例は小松、JT、日本板硝子、HOYAや各製薬会社などに見られるようなさまざまな企業がグローバル化しています。また、日本人の平均寿命は85歳くらい。世界平均でも70歳という統計もあるようです。ちょっと前まで、うまく優良企業に就職できれば、終身雇用で1社に勤めてリタイヤという世界がありました。でも、ドラッカーの本にも書いてありますが日本の会社の平均寿命を調べてみると30年が平均です。グローバル化が進めば、競争原理の中、この会社の平均寿命は縮まっていく。しかし現在の日本の平均寿命は世界一で85歳を超えてきている。今後、益々医療の進歩によって、寿命は世界的に長くなるのです。つまり人間の寿命は企業の寿命よりはるかに長いのです。誰しもが、退職後25年以上否応もなく第2の人生を探し、歩まなければならないということ。
これが医学の進歩によって、おそらくどんどん伸びていく。私たちは、いまだかつてない領域に突き進もうとしているのです。そこでどのように生きればいいのか、何をすればいいのか。ヒントこれからは高度な知識、知恵を持つ組織でなく個人の繋がりが重要になります。

 我々の事業領域のひとつのビジネスチャンスの例として、15年後には65歳以上の高齢者が、日本の人口の3分の1になる。新聞やニュースで報道を見て、「そんなこと、知っている」という人は多いかもしれませんが、これはもう、どえらいことですよ。知っているけど、じゃあどうすればいいのかを考えない。実はここに大きなビジネスチャンスがある。私の知人に、介護施設をたくさんつくっている経営者がいます。しかし日本の少子高齢者社会はこれから20年間が本格的市場である。つまり、要介護のみならず、比較的健常者である高齢者が今後20年後の団塊世代が市場のピークを迎える間増えつずける事になる。さらに、戦後生まれ団塊世代は常に多様なトレンドをつくってきた。その世代が本当に住みたいと感動していただく魅力ある住まいとは何か。これだけ考えても相当なダイナミクスなイノベーションがあるように思います。さらにその何かを見つけると、日本に続く世界各国の高齢化のニーズの先取りになるのです。そのイノベーションはまさに、ブルーオーシャンに繋がるビックチャンスのひとつです。

 商売に必要な人・物・金ですが、今や、金も物も実は人が持っている。また、先進社会では、"人"が担ってきた労働力がどんどん機械に置き換わっていく。だから固定経費となるような人材は、会社から必要とされなくなる。結果、優れた知的資本がある人のみが生き残る。そして、内需拡大をしていくためには、今以上に、ベンチャー企業の誕生が求められるのです。だからこそ、ひとりひとりの個人が新しい知識をもって高い価値を生み出す努力をしていかなければなりません。夢があって、それをかたちにするビジネスを自分の頭で考え、「これはいける」と思うなら、できるだけ短期、中期、長期の明確な目標を定めて挑戦してみればいい。そして、そのビジネスでいつまでに、なにを、どれくらい達成できるか、軌道修正しながらも貪欲にやり続けてほしい。極論ではありますが、最初の目標は自分の人生のミッション(理念)は何かを見つけることだけでも、まったく構わないと思います。それに基づき具体的中長期的な目標設定、「何のために何がしたい」とひとつひとつの目標を定めていけばいいのです。そして99%の汗と積み重ねる失敗体験と、その苦労を吹き飛ばし感動する1%のひらめきと成功体験が次の原動力の源になるのです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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