第82回 アドバンスト マテリアル ジャパン株式会社 中村繁夫

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第82回
アドバンスト マテリアル ジャパン株式会社 代表取締役社長 
中村繁夫 Shigeo Nakamura

1947年、京都府生まれ。京都府立洛北高校卒業後、静岡大学農学部木材工業科に進学。大学院に進むが休学し、世界放浪の旅へ出かける。ヒッピーのような生活を続けながら、ヨーロッパ、ブラジル、アメリカなど30数カ国を放浪する。約3年の旅を終え、大学院に復学、修士課程を修了。旅を続ける中で、商社の仕事、レアメタルという商材に興味を覚え、繊維と化学品の専門商社、蝶理に27歳の新入社員として入社。約30年勤務し、そのほとんどをレアメタル関連部門でのレアメタル資源開発輸入の業務に従事する。蝶理の経営状況悪化により、55歳でいきなりのリストラ勧告。レアメタル事業をMBOで引き継ぐことを決意し、2003年、蝶理アドバンスト マテリアル ジャパンの社長に就任。翌年、MBOを実施し独立。アドバンスト マテリアル ジャパンの代表取締役社長に就任した。著書に、『レアメタル・パニック』(光文社)、『レアメタル資源争奪戦』(日刊工業新聞社)、『2次会は出るな!』(フォレスト出版)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

お酒のおつまみ。
お酒のおつまみが好きなんですよ。カラスミなんかもいいけれど、ウルメイワシとか安っぽいもののほうが好みかな。お酒はひとりで飲む時は日本酒、ふたりなら焼酎、3人以上ならワイン。会社のスタッフとはビール。そんな感じで、すみ分けしています(笑)。

趣味

盆栽、盆石、彫刻にペット。
山登りが好きなので盆栽。仕事柄、盆石。家柄からか仏像彫刻。多趣味ですが、最近はペットかな。これまで、猿、チャボ、うさぎ、熱帯魚などいろいろ生き物を飼いました。数年前にカザフからつれてきた80キロもある巨大犬が死んでしまいました。13歳でした。今はシーズー犬を2匹飼っていて、よく一緒に散歩しています。

最近感動したこと

死に際の人生模様を目の当たりにして。
あるものを書きたいと考えていて、勉強のためにターミナルケア(ホスピス)施設に伺ったんです。100人くらいのおじいさん、おばあさんが迫り来る死を受け入れながら生きている。皆さんの人生模様を目の当たりにして、深い感慨を受けました。 まるで昔、ガンジス河のほとりに座って、1日中死を待つ人達を眺めているような気になりました。

行ってみたい場所

宇宙です。
ブラジルで出会った人生の師匠、大谷暢慶老師から「目をつぶればいつでも旅に行ける」と教えられました。本当の宇宙空間にも興味がありますが、精神的な宇宙の旅を極めてみたい。人生の最後は坊さんになりたいと思っていて、その頃までに体現したいですね。

現代の山師が率いる、レアメタル専門商社。
設立5年、社員二十数名で340億円を稼ぐまで

 パソコン、薄型テレビ、携帯電話、ハイブリッドカー、軍事兵器など、ハイテク機器に使用され、現代の生活になくてはならない物質がある。ニッケル、コバルト、マンガン、タングステン、インジウム、タンタルなど、地球に69種類あるといわれる「産業の米」。レアメタル(希少金属)である。日本は世界のレアメタルの25%を消費する世界一の消費国だが、そのほとんどを海外からの輸入に頼っているのが現状だ。産業立国ニッポンのポジションを守るために、立ち上がった“現代の山師”がいる。それが、アドバンスト マテリアル ジャパンの社長を務める中村繁夫氏。中国、ロシア、中央アジアのレアメタル開発輸入をはじめ、現在はアマゾン、キューバ、モンゴル、ベトナム、北極圏カナダなど世界の資源を開発中だ。「国がやるべき仕事ではないかとも思いますが、日本のために私たちができることはどんどん挑戦していきたい」と豪快に笑う中村氏。今回は、そんな中村氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<中村繁夫をつくったルーツ1>
宗教と商売が交差する家庭で育った少年は、個性的な奇行癖と放浪癖の持ち主

 私は団塊と呼ばれる世代で、京都市生まれ。父方も母方も、お寺に関係する筋でしてね。お坊さんや仏道を目指す書生さんが頻繁に出入りする、いわゆる抹香くさい家庭環境で育ちました。母の実家は京都駅の前で仏壇店を経営していまして、宗教と商売、両方の空気を吸いながら成長していったと。ちなみに父は京都の衛生協会初代理事長を務めた人で、老舗割烹や飲食店を管理する立場でしたけど、お中元やお歳暮など付け届けはすべて送り返してしまう堅物。子ども心ながらに、もったいないなと思っていました。そんな生真面目な父も、かなりの飲んべえではありました(笑)。当時はまったく意識していませんでしたが、今思えば自分の倫理観や道徳観は家風によって醸成されたんだなと感じています。

 子どもの頃の私は、奇行が多かったようです。地蔵盆というお祭りの日は、朝から晩まで木組みされた舞台に登って夜に行われるのど自慢大会まで歌を歌い続ける。もう、歌い出したら止まらなかった。今も歌うのが大好きで、昨晩もカラオケ行きました(笑)。あとは、放浪。友だちを引き連れて、山に登ってウロウロ。計画性がないから山中で迷って、川沿いをたどって帰ってくるのが夜の10時、11時になったり。警察が出動して大騒ぎになったこともありました。たとえばこんなことも。米軍のMP(ミリタリーポリス)が接収していた植物園に、深夜、カブトムシやクワガタムシを取りに行ってたんです。塀の下に穴を掘って侵入するんですが、確実に不審者じゃないですか。見回りの憲兵に見つかって逃げ出したら、後ろから拳銃で撃たれた。本当に当たらなくて良かった(笑)。

 子どもの頃から、まだ見たことのない場所を探検するのが好きだったんですね。小学校の高学年になると自転車で琵琶湖を一周し、中学に入ると山登りを本格的に始めてワンダリングに凝った。京都の北山は日本海の福井まで続いていて、植物、森林観察を楽しみながら鞍馬山から花背峠を通って滋賀の比叡山まで足を延ばしたり。そんな感じで、毎週土日は山登りに出かけていました。山で出会う京都大学の山岳部や探検部のお兄さんたちがかっこ良くてね。山小屋で酒を酌み交わしながら、哲学論を語り合うわけです。そんな彼らに憧れて、私は世界の文学全集を読みふけるようになりました。

<中村繁夫をつくったルーツ2>
山登りの趣味が高じて、大学で木材工業を研究。世界の森林を見るために放浪の旅へ出かける

 高校は京都府立洛北高等学校に進学しています。数多くの著名人を輩出した高校で、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長を務め、日本初の8000メートル級登山であるマナスル登山計画時にはネパール政府との交渉役として活躍された西堀栄三郎さん(故人)もそのひとり。私は社会人になって東京で生活を始めましたが、西堀さんが洛北高校同窓会の名誉会長をされていて、20代、30代当時、よくお話をさせていただきました。冒険と探検は違う。命を懸けて挑戦するという意味では同じかもしれないが、冒険はスリルや博打を味わう感覚の行為で、何度でも繰り返すことができる。一方探検とは、人の役に立つために、人が過去やったことがないことをすること。そして、一度なされた行為はもう探検とは呼ばない。など、西堀さんからはたくさんの影響を受けました。

 高校時代も放浪の趣味は続けていて、植物や森林への興味がますます高まっていきました。そして、大学は静岡大学の農学部木材工業学科へ。主な研究は、紙パルプの収率改善です。たとえば100kgのパルプから45kgの紙ができるとします。その割合をいかにして高めるかという。そんな研究に没頭していました。もちろん、遊びもたくさんしましたけど(笑)。あと、大学に入った頃から、海外を放浪してみたいという思いがふくらんでいったんです。戦前にブラジルに移住した叔父がいましてね。小さな頃、毎年の盆正月に彼が我が家にやって来て、いろんな話をしてくれてたんですよ。その話がとても面白くて、いつもワクワクしながら聞いていました。その影響も大きかったと思います。

 日本国内限定の小さな人間関係だけでは飽き足りなくなり、世界中の人たちとの交流を通じて、もっとスケールの大きな人間になりたい。世界の森林現場をこの目で見てみたいという思いもありました。結果、世界の五大陸を踏破するという夢が生まれ、数年かけてそのための周到な計画を立てることにしたんです。実は大学4年次、国内の大手製紙会社から内定をもらっていました。ですが、夢実現のためにその話をお断りし、とりあえずは大学院へ進学。そして準備が整ったタイミングで休学し、ついに海外放浪の旅へと出かけることになるのです。その時、私は22歳。大阪では万博が開催され、世界との距離が少しだけ狭まった感覚が国内に広まっていました。

<ブラジルで出会った大切なもの>
商社という仕事、レアメタルという商材。そして人生の師となる老師との出会い

  まずはロシアを経由してヨーロッパを目指しながら、各国をぐるぐる回りました。1日の生活費は5ドル以下と決めていましたから、居候させてもらえそうな各国の邦人在住者を調べて、事前に手紙を送っていました。皿洗いなどのアルバイトもしましたが、いよいよ金が底をつくと家族に送金してもらって。でも、当時は30ドルまでしか送金できない決まりがありましてね。毎日カツカツのヒッピー生活。超貧乏旅行ですよ。で、ヨーロッパ最後の国としてスペインを選んだ。冬も比較的暖かいですし、当時は軍事独裁政権のフランコ将軍が統治していて、生活コストが驚くほど安く済んだから。そしてその冬を越して、ブラジルへ渡ったんです。この時すでに30カ国以上を回っていました。

 ブラジルにはアマゾンがあります。広大な森林を早く見たかった。ここで、ユーカリなどの早成樹種の生態を調べながら、紙の量産に結びつける研究をしてみようと。アマゾンの奥地へ行くには、サンパウロから1週間くらい平気でかかるんですよ。ヒッチハイクはよくやりましたね。車はもちろん、船や飛行機も。空軍に交渉して「どこそまで乗せてほしい」とか(笑)。あと、ブラジル移住者や日本の大手商社現地支店長の家に居候させてもらって、いろんな話を聞きました。商社なんてまったく興味なかったんですが、話を聞けば聞くほど面白い。ブラジルは化石燃料はないけど、ミネラル(鉱物)は豊富。当時の日本商社もレアメタル狙いだったんですね。私も、「木材も面白いけど、レアメタルはさらに面白そうだ。男の夢をかける価値があるかもしれない」。そんな考えを持つようになっていました。

 商社マンという仕事、レアメタルという商材との出合い。そしてブラジルでは、私を開眼に導いてくれたもうひとつの大切な出会いがありました。サンパウロ東本願寺別院の住職をされていた大谷暢慶老師です。アマゾンの森林調査に出かけてサンパウロに帰ってきたら、それまで居候していた家が引っ越してもぬけの殻に。それで、「何かあったら訪ねなさい」と言われていた東本願寺にお伺いしたわけです。それからここに居候するようになり、檀家参りのお手伝いを始めました。あと、大谷老師とは酒を酌み交わし、碁を打ちながら、たくさんの対話をしました。「なぜ旅をしている」「自分探しのようなものです」「目をつぶればどこへでも行ける。本当の旅とは心を自由に解き放つこと。インドに行ってみなさい。魂が揺さぶられ真の世界が見えてくる」と。その後、私はインドへ放浪の旅に出かけましたが、大谷老師の言葉どおり、非常に価値のある経験となりました。妻との結婚式もブッダガヤで挙げているほどです。

<放浪の旅から帰国>
27歳で中堅商社の新入社員となる。当初の思いは金儲けだった

 1年弱をブラジルで過ごし、その後、南米を廻ってからメキシコ経由でアメリカへ。最初に来た頃はブラジルに移住してもいいかくらいに考えていたんですが、1970年代のブラジルは政治が乱れていたし、プランテーションの農業立国だし、自分が仕事をする場所としてはどうかと。そこで、世界経済を牽引し始めた資本主義大国、アメリカを見に行こうと考えたわけです。生活の拠点をロサンゼルスに置き、ルート646を東海岸まで車で突っ切ったり、いろんな場所へ出かけました。そうはいっても貧乏ですから、掃除夫、ペンキ塗り、ガーデナーなどアルバイトもたくさんした。ちなみにポルトガル語とスペイン語は話せるようになっていましたが、英語はてんでダメ。なので、現地のアダルトスクールにも通っていました。

 1年くらい経った頃、後に女房となる彼女をアメリカに呼んだんですよ。「アメリカで一緒に暮らさないか」と。でも、私の暮らしぶりはヒッピーそのもの。納得してくれるわけがありません(笑)。「何をバカなことを。このままじゃただの根無し草でしょう」と一喝され、帰国する決心をしたんです。危険がともなう殺虫剤製造工場で働いて帰国費用を稼ぎ、3年弱続いたこの海外放浪の旅は幕を閉じることになります。帰国後、国会議員の第二秘書をしていた彼女と結婚し、食わせてもらいながら舞い戻った大学院を修了。本当はドクターまで進みたかったのですが、ずっと地べたを這いずり回るようなヒッピー生活をしていたでしょう。それに、ブラジルで出会った商社マンたちの羽振りの良さに目がくらんでね。金色夜叉ではないけれど、商社マンになればきっと金が稼げるだろうと。大手の伊藤忠商事株式会社と中堅の蝶理株式会社の2社から内定をもらって迷いましたが、直感で、蝶理に入社することを決めました。

 その直感は間違っていませんでした。27歳の新入社員として蝶理に入社した私が配属されたのは、化学品総務部。まずは約2年間、伝票整理や経理の仕事をして、その後、念願の営業部に転じ、ばりばりと稼ぎ始めることになります。実際、蝶理はやりたいことは何でもやらせてくれました。「予算は大丈夫か?」「本当に利益が挙がるのか?」など、言われたことがありませんでしたから。当時の蝶理は古き良き時代の商社で、まさに“山師”の梁山泊。エリートばかりではなかったですが、本当に枠に収まらないユニークな人間が多く集まっていました。そんなやりたい放題、何でもありの環境で、たくさんの大儲けと大損を繰り返し、私は向こう傷をつくりながら商社マンとして成長していくんです。

世界のレアメタル争奪戦はまだまだ続いていく。
探検商社として産業立国・日本の立場を守り抜く

<前向きな向こう傷は山師の勲章>
大儲けと大損を繰り返しながら、山師としての勝負勘を身に付ける

 蝶理株式会社ではさまざまな商材を扱いましたが、もっとも力を入れたのはレアメタル(希少金属)資源の開発です。今、皆さんが使っているパソコン、テレビ、携帯電話、ハイブリッドカーなど、レアメタルがなければつくることができません。ゆえに、レアメタルは「産業の米」と呼ばれ、日本が産業立国として生きていくためには必須といえる資源なのです。私はレアメタル資源を追い求め、中国、ロシア、中央アジア、カナダ、南アメリカ、アフリカ、オセアニアなどなど、世界中を飛び回り、その資源開発業務に心血を注いできました。山師という言葉を辞書で引くと、「鉱山の発掘や鉱脈の発見・鑑定をする人」とあります。ただし、鉱山開発は大きなギャンブルです。資金協力者と顧客を見つけ、リスクを最小限に抑えながら、命がけで勝負する。そこにロマンを感じる人間が、本物の山師であるといえるでしょう。

 私はどんな時も逃げることなく、常に前のめりになってレアメタル開発の仕事に取り組んできました。大きな成功としては、1997年頃、カザフスタンとのスポンジチタン取引が挙げられます。欧米市況でスポンジチタンの価格が一気に暴騰し、この波は必ず日本にも及ぶと判断。社長にも副社長にも許可を取らずに、一発で75億円もの商売を決めたのです。それまで一度に買っていたスポンジチタンは1000トン程度、6億円ほどの商売でしたから、これは通常の10倍の取引。結果、私が予測したとおり市況は跳ね上がり、会社に7、8億円の利益をたったひとりでもたらすことができたのです。ある役員からはかなりの顰蹙を買いましたが、社長は「合理的な判断である。やり方がやんちゃだっただけ」と擁護してくれました。

 もちろん、成功だけではなく大失敗した経験もたくさんあります。大阪の有名な石油商の泉井純一という人物がからみ、三菱石油と三井鉱山の訴訟にまで発展した石油業者間転売事件。当時の私は石油部の部長を兼務しており、業績の上がらないこの部を何とかしなければと必死になっていたんです。泉井氏の口利きで蝶理が間に入り、この空売りの仲間入り。あっという間に取引額が7億8000万円まで膨れ上がった頃、ある取引先がいきなり倒産。6億円は何とか回収できましたが、1億8000万円は不良債権となって丸損です。私は責任を感じて辞表を用意しました。が、何と手形の落ちた2日後に、泉井氏から振り込まれるはずがない1億8000万円が振り込まれたのです。私は彼の男気に助けられたんです。

<探検商社の船出>
55歳でリストラに遭うも、勝負を決意。MBOで人材と事業を引き継ぎ探検を継続!

 わずか20年前の商社には、そんな切った張ったの商売に勝負をかける山師たちがたくさんいました。前向きな向こう傷は問わない文化があり、失敗したらその倍を稼げばいいという世界でしたから。命までは取られないと勝負し続ければ度胸もつきます。山師にとっては本当にいい時代だった。しかし、1990年代に土地バブルがはじけ、2000年初頭にITバブルが崩壊し、商社も儲からなくなってきた。銀行の貸し渋りも始まった。蝶理もご多聞にもれず経営が傾いて、事業の切り売りを決断。当時、レアメタル部門の年商は170億円で利益も出ていましたが、その分、莫大な資金を必要とするんです。それもあって、レアメタル部門は外に出すと。55歳でリストラ勧告に遭うわけです。私にとってはまさに青天の霹靂でした。

 さて、これからどうするか……。悩みましたが、結論としてはやはり勝負です。そもそも、入社した時から独立を考えながら仕事をしていましたし。そこでMBO(マネージング・バイ・アウト)という手法を使って会社から事業部門を買い取り、独立する道を選ぶことにしました。十数名いた部下たちに聞くと、全員がついてきたいと言います。そんな彼らと血判状を交わし、「俺たちは沈み行くタイタニック号を捨て、大きな宝を探す海賊船に乗り換えるんだ」と。私は退職金をすべてつぎ込み、さらに家を担保に個人保証もつけて融資を受けました。そして2003年、アドバンスト マテリアル ジャパン(AMJ)を設立し、代表取締役社長に就任。世界のレアメタルを追い求める探検商社の歴史が幕を開けたのです。

 探検とは自己責任でリスクを背負うけれども、自らの好奇心と社会貢献という志を持って、まだ誰もなし得ていないことに果敢にチャレンジすることです。ただのサラリーマンがいきなり経営者になったわけですから、すべてが新しい挑戦です。営業として約30年間トップで走り続けてきましたが、経営者になってからの6年間のほうが成長実感ははるかに高い。探検志向を持たず安全な勝負をしているだけでは、挙げられる利益もごくわずか。AMJでは私を含め社員全員が探検志向を持ち、多少の損失があっても、最後にそれを上回る利益を出せばいいと考え、前向きな向こう傷を厭わず挑戦を続けてきました。社員二十数名、スタート時には47億円だった売り上げは、1年目で79億円、2年目で135億円、3年目には270億円、4年目には何と340億円に達しました。

<未来へ~アドバンスト マテリアル ジャパンが目指すもの>
日本が産業立国として生きていくために、私たちにできる貢献を継続していくだけ

 これほどの急成長を遂げられた原因は、日本の産業界を襲った未曾有の資源インフレと「レアメタル・パニック」にあります。AMJが専門に扱うレアメタルの市況が暴騰したことで売り上げは大きく増加しました。そういった市場環境だけではなく、探検商社として社員が最大の能力を発揮できる社内環境も苦心しながら構築していったのです。今までどおりのやり方ではダメなわけです。なので、まずは蝶理から受け継いだ大企業病の一掃から手がけました。管理部門は全スタッフの3割以下。仕事に必要な金は使い放題。これは今期少し締めますが(笑)。個人の裁量権を最大限にする。稟議に必要なハンコは私のハンコのみ。専門家しかとらない。部門間異動がない。いわばプロの個人商の集まりのような組織です。

 そしてここにチームの強さが発揮できる仕組みを投下。AMJのスタッフの半数は、中国、中央アジア、モンゴル、ロシア出身の外国人です。個人それぞれの強みを最適配置し、異質な人間同士が同じテーマでぶつかる。それもフルオープンで。そんな多様性のコンフリクトの中から1+1の「和」ではない、1×多の「積」が生まれるんですよ。全員が自分の才覚を生かしながら、知恵と情熱を持って普通の3、4人前の仕事をこなしてくれています。だから彼らには大手商社以上の収入を配分することができるんです。子どものトランプだって強い奴は強いでしょう。ビジネスもある意味同じ。強い奴ばかりを集めて、そこに勝つためのマネジメントを取り入れればいいんです。優秀な人材を引き上げ、情熱を引き出すマネジメント。「有言実行」「目的絶対、手段は自由」「異質の協力」。私はこれさえできれば、どんなビジネスでも成功させることができると思っています。

 AMJの昨年の標語は「右手に算盤。左手に浪漫。背中に我慢」でした。今年の標語は「ひっそり。こっそり。しっかり」(笑)。4、5年かけて暴騰した資源インフレも、リーマンショック後、半年で急落。山高ければ谷も深い。しかし、中国やロシアの資源ナショナリズム、BRIC'Sをはじめとする新興国の需要の高まりは一過性で終わることはなく、今後もこのパラダイムシフトは続いていくでしょう。そして必ず資源インフレは再び起こります。そのタイミングと69種類あるレアメタルの銘柄をいかに見極め、最大限の投資をするか。休むも相場。今は大勝負の時期を待っているところです。もちろん、ハイブリッドカー、リチウム電池などの引き合いは現在も増加しています。今、注力しているのがロシアのタングステン確保とジョイントベンチャー工場の建設。元素戦略と名付けた、代替え元素の研究です。これは国がやるべき仕事ではないかとも思いますが、日本のために私たちができることはどんどん挑戦していきたいですから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自分を甘やかすことなく、なすべき事を見極める。これからの時代、プラネティストの視点が重要

 今の日本は過保護すぎる。鳥だって雛が飛び立つまでは一所懸命餌を与えるけれど、巣立ちの段になったら手助けをいっさいしないでしょう。社会も企業も人を助けすぎる、甘えさせすぎる気がしています。AMJでは毎年業績が最下位の人は退職するというルールがあります。いつか何とかなると思っても、ほかの会社のほうが活躍できる可能性もある。私は人間を構成しているのは、環境が4割、DNAが3割、努力が2割、運が1割だと考えています。人の運は努力してこそ生きてくる。努力は良い資質があってこそ生きてくる。そして、資質は良い環境があってこそ生きてくるのです。社員が自分のいいところを生かして、パフォーマンスにつなげられる環境をつくる。これが経営者のなすべき本当の仕事なのです。それと同じように、起業を目指すなら自分自身の真意を厳しく見極め、ずっと継続できる環境を選ばないといけない。

 それを見極めるために地球規模で物事を見ることが必要です。家、個人、社会、日本、世界を見渡して、どこに閉そく感があるか。これからの経営者には、プラネティストとしての視点が求められるということです。世の中から求められている仕事はこれだと決めてかかったら、その事業を3つの構造に分けて考えてみてください。まずは人に役立つことで固定費が稼げる「安定維持分野」、そして事業範囲を広げる「強化拡大分野」、あとは夢の部分「開発分野」。事業を発展させながら継続するためには、この3つを市場環境、社内環境、想定されるリスクなどと照らし合わせながらバランス良く設計、運営していくことが大切だと思います。

 当たり前ですが、ビジネスというものは競合に対して比較有位でありさえすれば勝てるわけです。そこをどうやってつくるか、経営者は常に考え続けなければなりません。私は社員に「1日100万円以内の損失ならOK」だと伝えています。また、石橋は叩くなとも。リスクを最初に限定しておけばどんどん挑戦できるようになるわけですから。そして現場主義を貫く。たとえば、朝ひとつの情報を仕入れてその情報をひとりの顧客に伝えれば、ふたつくらいのネタが返ってきます。それを1日4回繰り返せば、最初の情報が16個のネタになる。それだけネタを集めれば、ひとつくらい儲けにつながるものがあるんですよ。商社は人本主義。これからの時代、すべては人が資本になる。前向きな向こう傷を恐れることなく、自分の価値を高めるために、どんどん挑戦してほしいと思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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