第80回 株式会社エニグモ 須田将啓

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第80回
株式会社エニグモ 代表取締役共同最高経営責任者 
須田将啓 Shokei Suda

1974年、茨城県生まれ。県立水戸第一高校卒業後、慶應義塾大学理工学部へ。同大学院理工学研究科計算機学科専攻修士課程修了。研究者として生きていく道を自ら絶ち、もうひとつの目標だった経営者を目指すため、2000年に博報堂へ入社。ストラテジックプランニング局に配属され、大手自動車メーカーからベンチャー企業まで幅広い領域のクライアントを担当する。2002年、営業部勤務から異動してきた、田中禎人氏と出会う。同年の12月25日、田中氏と事業アイデアを語り合い、起業計画を練り始める。会社勤務を続けながら、後の「BuyMa(バイマ)」立ち上げに奔走。2004年2月、満を持して株式会社エニグモを設立。田中氏と共に、代表取締役共同最高経営責任者に就任。2005年2月、グローバル・ショッピング・コミュニティ「BuyMa」のサービスを開始。同年12月個人ブログの情報発信力を活用したプロモーションシステム「プレスブログ」のサービスを開始。その後も、「filmo」「シェアモ(ShareMo)」など、世界初のユニークなWebサービスを発信している。田中氏との共著に『謎の会社、世界を変える―エニグモの挑戦』(ミシマ社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

魚料理に目がないんです。
小さな頃から魚が好きで、それは今でも変わりません。小学生の頃、塩分の取りすぎで腎臓病を患ったこともありますが、今は減塩醤油もあるので大丈夫です(笑)。焼き魚も、刺身も大好物。お酒は飲めるほう。基本的にビールが多いですが、テンションを上げたい時はテキーラをよく飲みますね。

趣味

読書でしょうか。
歴史物、科学物、理論系などノンフィクションが多いですが、本をよく読みます。気に入った分野に当たったら、集中して周辺の本も4、5冊いっきに。最近面白かったのは、『エンデの遺言―根源からお金を問うこと』。簡単にいうとお金の起源を解説したもので、事業の持続可能性について深く考えさせられました。

最近感動したこと

5周年の社員旅行です。
今年度は通期黒字も達成し、2月8日に全社で沖縄旅行に行ってきました。大いに盛り上がりましたよ。嬉しかったのは、スタッフからネクタイのプレゼント。取締役5人全員色違いで、僕がもらったネクタイの裏には、当社のカンパニーバリューのひとつである、“enjoy work,enjoy life”の文字が刺繍してありました。

パートナーへの言葉

アメリカ市場は頼んだ!
当社は、共同代表制を取っています。パートナーの田中禎人は、博報堂時代の同僚で同い年。めちゃくちゃいいやつなんです。最初から事業にかける思いが同じで、“ノリ”も合う。もめたことは一度もありません。「アメリカ市場の開拓は頼んだ! 国内は任せとけ!」。今日、このインタビューを欠席した田中へのメッセージです(笑)。

「BuyMa」「プレスブログ」「filmo」「シェアモ」……。
謎の会社エニグモは、今後も世界初をつくり続けます!

 こんなサービスがあったら世の中が変わるかもしれない。あなたも一度くらいはそんな夢を思い描いたことがあるかもしれない。だが、その実現のために行動を起こす人は稀だ。なぜなら、誰も手がけてないということは、先が見えないから……。須田将啓氏と田中禎人氏。ふたりの創業者が共同最高経営責任者を務める エニグモという会社がある。東京・渋谷にオフィスを構える全社員50人強のこの会社が、「BuyMa」「プレスブログ」「filmo」「シェアモ」という、世界初のWebサービスを発信し続けている。2002年のクリスマス、須田氏と田中氏は、「世の中が変わるかもしれない」ビジネスアイデアについて熱く語り合った。そして、本気でその実現を目指し行動し始める。その動機について、「BuyMaは、自分の思い描く“あるべき姿”を実現できるすごいサービスになり得る。そして、その可能性を熱く語り合ったこの“ノリ”をここで終わらせたくないと思ったんです。」と、須田氏は教えてくれた。今回は、そんな須田氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<須田将啓をつくったルーツ1>
魚料理と算数が大好きな明るい子ども時代。小学5年からはミニバスケ部で猛練習

 生まれは茨城県の水戸市です。小さな頃の記憶? よく覚えていますよ。すごく明るい幼児園児でした。元気のない子の親から「須田君、うちの子と友だちになって」って頼まれるくらい。父から相撲を習っていて、体格が良く、足腰もとても丈夫だったようです。なぜだかきっかけはわからないのですが、この頃から機械や科学が好きでした。園庭に、チョークで滑走路や管制塔を書いて、みんなで飛行機ごっこして遊んだり、拾ってきたパーツを組み合わせてクルマのおもちゃをつくったり。エンジニアの父が毎晩枕元で「理系に進め、理系に進め」って暗示をかけていたのかもしれない(笑)。あと、僕は今でもそうですが魚が好物です。特に塩焼き。誕生日は母に、「バースディケーキよりも、鯛の塩焼きがいい」ってお願いしていました(笑)。

 魚ばかり食べていたから、塩分を摂取しすぎたのだと思います。小学2年で腎臓の病気を患ってしまい、2カ月ほど学校を休んでいます。ものすごく暇だったので、算数のドリルばっかりやってました。で、退院して学校に戻ったら、算数がめちゃくちゃできるようになっていた。みんなから「算数博士」って呼ばれて、このポジションにいる自分が好きで、ますます算数に熱中するように。思い返せば、子どもながらにセルフ・ブランディングしてたんですね。
 親から「三角形の内角の和は必ず180度」と教わり、「本当か? では、そうじゃない三角形を考えたら大発見かも」って勝手に火がつきました。その“新しい”三角形を探すために定規と分度器を持って必死で考えました。でも、底辺をどこまでも横に長くして細長い三角形をつくったら、底辺の角度が限りなくゼロになり、頂点の角度は限りなく180度になって、最後は180度の直線になることに気づいて納得した。かなりちっちゃい話ですが、昔から何か新しいことを見つけたり、生み出すことに燃えるタイプだったんです(笑)。

 僕が通っていたのは小中一貫の附属校で、いわゆる越境通学。でも、近所の友だちもたくさんいて、野球にサッカー、缶蹴りに陣取り、いろんな遊びをしました。
  その中で、小学校3、4年生の頃、ペットのレンタル業のようなものをやったことがあります。ノラ犬を餌付けして、近所の子どもに1日100円で、貸してあげてました。別にお金を取るつもりはなかったのですが、みんな欲しがるので、制限をつける意味で、1人100円にしていました。数時間経つと、犬たちが勝手に戻ってくるので、翌日また貸してあげる。こちらの負担は最初の餌付けだけ。そんなビジネスモデルです。毎日300円くらい手に入ったので、駄菓子屋で豪遊していました(笑)。超スモールビジネスですが、自分の人生で初のビジネスとして、良い思い出になってます。

<須田将啓をつくったルーツ2>
高校ではボクシング部と相撲部を掛け持ち。毎年開催の「歩く会」では、70kmを歩き切る

 小学生の時にテレビで広告代理店を特集している番組を見たんですよ。それがとても面白かった。もともと新しいアイデアをかたちにして、世の中に送り出すことが好きだった。日記に「大きくなったら電通かハクホウドウに入りたい」なんて書いたりしてました。中学に上がると、サッカー部に入り、楽そうだなという理由で即テニス部に転部。勉強は数学など理系の科目は好きでしたが、文系科目は嫌いでした。当時は「ビーバップハイスクール」や「湘南爆走族」がはやった時代で、少し上の先輩たちはかなり荒れていた。その反動で、僕らの学年はあまりグレている奴はいなかった。僕もいろんな遊びをしましたけど、グレることはなかったですね。それよりもめちゃめちゃ楽しい中学生活を満喫してました。記憶にあるトラブルといえば、先生と胸をど突き合わせながらケンカしたことくらいでしょうか(笑)。

 高校は県立の水戸第一高校と私立桐蔭学園に合格しましたが、親の勧めもあり、水戸一高へ。後から考えれば、このアドバイスを聞いておいて良かった。この時代に自分の価値観が固まったと思います。本当に自由で楽しい3年間でした。制服はなく、私服でOK。生徒もバラエティに富んでいて、右翼、左翼、パンク、オタク……。軍服にサーベルで登校してくるツワモノも(笑)。部活はボクシング部と相撲部を掛け持ち。あとは飲みに行ったり、パチンコに行ったり、夜中に大洗海岸まで自転車で行って騒いだり、友だちの家や部室に泊まって飲み明かしたり。はめを外しすぎて無期停学になったことも。とにかく自由で、何だか、大学時代とほとんど同じようなライフスタイル(笑)。ちなみに勉強は、好きな科目しかやってませんでした。おかげで数学は全国1位を取ることもあったのですが、それ以外はほどほどで。総合の成績は学年でだいたい20~30番くらいだったと思います。

 あと、水戸一高には「歩く会」というイベントがあります。恩田陸さんの小説「夜のピクニック」の題材にもなってますね。昔は、修学旅行があったのですが、大昔の先輩が旅先で大暴れして廃止され、その罰として、毎年1回、全学年参加で行われる、70キロの道のりを歩く行事がルーツだと聞いています。バスで70キロ先まで行って降ろされて、そこから学校を目指して歩き始めます。まず50キロくらい歩いて、小学校の体育館で少し仮眠して、朝の6時頃から残りの20キロを思い思いに走破します。走り出すやつもいれば、最後までだらだら歩くやつも。単純でプリミティブなイベントですが、かなり盛り上がります。僕にとっても、「歩く会」はいい思い出です。こ、恋ですか? 普通にお付き合いしてました(笑)。

<大学院へ>
思い切り大学生活を謳歌した後、自分の道を決めるために大学院へ進む

  インターネットが登場する前ですが、将来はコンピュータにかかわる仕事をしたいと考えてました。漠然と、ですけど。それで、電子工学が学べる大学を探して受験し、慶應義塾大学の理工学部に合格。絶対に慶應というわけではなく、どこでも良かった。ただ、文系科目、特に古典はかなり嫌いでしたので、国立は捨ててました(苦笑)。入学後、やっぱり企画好きだったので、三田祭などのイベントや、映画の試写会、ライブやコンサートをプロデュースする企画サークルに入りました。3年の時には、代表も務めています。ちなみに、初めてのひとり暮らしの場所として選んだのは、武蔵小杉にある川沿いのアパート。3年半住み続けましたが、このアパートは、かなりヤバかったですよ(笑)。

 常に僕以外の誰かがいる部屋でした。帰ったら誰かいるみたいな(笑)。大学の友だちやバイトで知り合った人、近くに住むインド人とか。カラオケボックスのバイトで知り合った歌手志望の家出少年も3カ月くらいうちに寝泊まりしてました(笑)。サークルの飲み会もよくそこでやりましたし。楽しいこと、勢いのあることをいつも探してたんです。いろんな人が集まる場所って刺激的でしょう。で、カギをかけるのもやめて、玄関を開けっぱなしにしてたんです。それが徐々にエスカレートして、窓も窓枠ごと外してしまいました。これがものすごい解放感なんですよ。春は、川沿いに咲く、桜の花びらが舞い込んできたりして。もう、出入り自由の公園みたいな部屋(笑)。

 大学では、ほとんど勉強せずに、アルバイトや麻雀やサークルばかり。テストは、スレスレでクリアって感じです。そんな大学生活を送りながら、改めてふたつの自分の存在を知ることができました。理数系が好きな自分。アイデアや企画を発想し、かたちにすることが好きな自分。その延長で自分の将来を考えた時、理数系の教授を目指すか、自分のアイデアをビジネスにできる経営者を目指すか、このどちらかだろうと。その両方の可能性を残したくて、コンピューターサイエンスを専攻することにしました。研究を続けて教授も目指せるし、コンピュータは起業の役にも立つだろうと。研究は4年だけではまだ足りない気がして、大学院に進むことにしました。大学院で研究活動を続けながらソニーの研究室でシステムとネットワーク管理のアルバイトを始めましたが、この時期の経験が僕にいろんな気づきを与えてくれることになりました。

<博報堂へ>
自分が好きなこと、自分を有効活用できる場所。立ち戻って考えた答えが、広告代理店だった

 ソニーの研究所のバイトで、最先端のテクノロジーの世界を垣間見ることができました。そこに天才的な人がいて、一般人とレベルが違うんです。プログラムに対する情熱も凄い。これはこういう人に任せた方がいいのではないかと。この分野に自分という人間をまるごと投下しても、世の中に与えられる影響はそんなに大きくないだろうと考え、自分がやる意義が少ないと感じ始めました。一方、大学院では、映画などの重い画像データをできるだけ早く、スムーズに転送するための研究をしていました。でも、企業が通信回線を太くする、信号を多重化するなどして、軽々と通信速度を上げていくわけです。そこで、コンピュータやネットワークの進化はビジネスの現場のほうが早いのではないかと考えるようになりました。この2つの点で、だんだん研究の現場に、自分のいる意味を感じられなくなっていった。それで、自分が好きな場所で、自分を最大限有効活用できる場所ってどこだ? 立ち戻って考えてみました。

 経営者というもうひとつの目標。企画や広告への興味。小学生の頃、日記に書いた夢。数年間の紆余曲折がありましたが、僕の原点ともいえる目標が再浮上してきた。将来、経営者になるならマーケティングの勉強がきっと役立つはず。広告代理店に行こう。そして、マーケティングの部署で働きたいという希望を出し、博報堂の採用試験を受けるんです。2000年、大学院を修了した僕は、無事に博報堂から内定を受け、希望どおりストラテジックプランニング局に配属されました。仕事内容を簡単に説明すると、大手クライアントの広告・マーケティングの戦略構築、効果検証などです。自分がかかわった商品が実際に街で売られていたり、その商品が普通の会話の中に出てきたり。仕事の結果がリアルに感じられることがとても面白かった。30歳までに独立するという意思を持って働いていましたから、すべて貴重な経験と考え、何でもやる意気込みでした。もちろん忙しかったですが、充実して楽しかったです。あと、博報堂は本当にいい人が多かったので、その社風にも助けられたと思ってます。

 入社3年目になった頃、営業部から田中禎人が異動してきました。何でも、帰国子女で、MBA取得後、博報堂に転職してきたらしい。同い年ということもあり、田中と僕はすぐに意気投合。結局、仕事を一緒にしたことはなかったですが、飲んで騒いでしているうちに、お互いノリが合うことがわかった。忘れもしない、あれは2002年12月25日の夜。クリスマスなのに男ふたりで残業していた時に、田中が話しかけてきたんです。「すごいアイデアを思いついた」と。いつもの田中っぽくなく、妙に真剣な面持ちで。「いや、きっと俺のアイデアのほうがすごいけど、聞こうじゃないか」。僕たちの世の中を変える挑戦は、このクリスマスの夜から始まったんです。;

世界中の人々がエニグモのサービスを使ってる。
5年後には、かなりヤバイ会社になっているはず

<まずは田中のアイデアを採用>
カットオーバー直前で、システム会社が夜逃げ?システム構築費を取り返すも、計画はふりだしに

 田中曰く、海外で生活した頃に使っていた日用品が日本ではなかなか手に入らない。また、その中には、日本で売ればヒットしそうだと思えるものも結構ある。海外各国に散らばる在留邦人をネットワークして、バイヤーになってもらい、海外からなんでもお取り寄せできるサービスがあったら使ってみたくないかと。考えれば考えるほど、かなり面白いと思いました。一方、僕のアイデアは、人がなかなか行けない場所。たとえばエベレストのてっぺんや、海外の動物園とかにWebカメラを設置して、見られた分に応じて設置者に少額のお金が支払われる仕組みを用意するというもの。そうなれば、みんなが見たがる場所にカメラが設置され、世界中からリアルタイムで見られる面白い動画が集まるはず。
 田中も「すげえ面白いな」と言ってました。その夜のミーティングは大いに盛り上がり、この空想は楽しく、「このノリをここで終わらせたくない」と思いました。そして、Webカメラのビジネスはインフラの整備に時間とお金がかかりそうなので、まずは田中のアイデアから挑戦すると決めたんです。

 その後、プロトタイプとなるシステムを自作してみましたが、お金のやりとりも発生しますし、バイヤーやユーザーが増えることで大規模システムになっても耐えられるのかなど、不安が募ってきました。そこで作戦を変更し、しっかり資金をかけてプロにシステムをつくってもらおうと、田中と一緒に企画書をつくり、いろんな会社にプレゼンに行きました。ある会社の社長Aさんが「面白い! 3000万円出すから、そこで社長になればいい」と言ってくれた。これは渡りに船と、その話に飛びつきました。ところが、話が詰まっていくに連れて、大事な会議に参加させてもらえないなど、蚊帳の外状態になっていきました。自分たちが実現したいサービスなのに、思いとおりにならない。やはり自分たちでお金を集め、リスクを取らないと、やりたいようにはできない。そこで、ふたりで会社をつくろうと決断。2003年の暮くらいでした。そして2004年に博報堂を退職し、創業メンバー4人でエニグモを設立することになるのです。

 友人や知人に出資を依頼し、自分たちの貯蓄も合わせて6000万円もの資金が集まりました。そしてまず、数社からシステム構築の見積もりを取り、一番安い金額を提示してきた某上場企業への発注を決定。半年後のカットオーバーを目指して、さまざまな作業を進めることになりました。が、そのシステム会社の下請けが夜逃げしたという情報が入ったのはカットオーバー目前のタイミング。マスコミ向けに仕込んでいたオープニングパーティも、PR会社に依頼していた広報企画もすべて仕切りなおし。バイイングマーケットを略して「BuyMa(バイマ)」と名付けたこのサービスは、どこよりも先に世の中に出すことを命題にしていましたから、これは僕たちにとって大きすぎる誤算です。結局、弁護士などいろんな人たちに協力してもらい、先払いしていた費用と迷惑料を取り戻すことはできましたが……。「BuyMa」のカットオーバーは、予定より半年も遅れることになってしまった……。

<「BuyMa」始動……>
的確なプレスリリースと逆転のブランド戦略で、認知度アップ! 取引数も大幅アップ!

 2005年2月21日、ついに「BuyMa」が動き始めました。もちろん、オープン前には海外バイヤーの登録促進、社員全員が街に出て、出品商品をかき集めるなどの準備も。同時にネットメディアを中心とし、プレスリリースを打ちました。まず、Yahoo!やCNETなど、Web系のニュースメディアが好意的に取り上げてくれ、その後、新聞や雑誌、テレビにまで、広く紹介されることになります。プレスリリースの威力は絶大でした。企画の段階ではまったく取り合ってくれなかったベンチャーキャピタルからもどんどん問い合わせが入りました。このことから企画だけではなく実際にモノをつくりあげることの大切さを痛感しました。そんな良い面も多々ありはしましたが、大きな問題が残っていました。「BuyMa」の取引がなかなか増えていかないのです。

 取引が増え始めたのはオープンの約半年後。バイヤー任せだった出品商品戦略を、ブランドで攻めることにしたんです。多くの国内ユーザーが「BuyMa」を使って買いたいのは、入手しづらい海外のアパレルブランドです。それを自分たちで調べて、海外のバイヤーに伝え、出品してもらう。その一方で、検索エンジン対策にも注力し、ブランドの検索結果に「BuyMa」が露出されるように、リスティング広告やSEO対策に注力しました。当該ブランドが「BuyMa」に出品されるたびに、そのブランドのページ数が増加し、検索エンジンで上位表示されるという仕組みづくりにも力を入れました。その後、ブランドラインナップを水平展開で増やしていき、また、アパレル以外のコスメやインテリアなどにも商材の範囲を拡大。このブランド開拓と検索エンジン対策の組み合わせが奏功し、取引が徐々に増え始め、「BuyMa」なら入手困難な海外ブランドが簡単に安く手に入ると評判に。入手困難なブランドに絞ったことで所有欲が刺激され、商品を購入した人が自分のブログで紹介したり、海外特集を企画したファッション誌が取り上げてくれたりと、自然発生的にサイトの認知度が上がっていきました。すべてが好循環に回りだして、現在、世界65カ国に1万人を超える登録バイヤーが存在し、利用会員数約40万人と、「BuyMa」のユーザーはどんどん増加しています。

 ちなみに、「BuyMa」の平均取引価格は1万5000円ほど。売買成約時にバイヤーから3%、購入者から5%を収受する手数料が当社の収益となります。バイヤーは街で見つけた魅力的な商品を携帯電話やデジカメで撮影し出品。注文が入ったタイミングで商品を購入すれば良いため、在庫を抱える不安がないことが最大の特徴です。一方、ユーザーはバイヤーに欲しい商品をリクエストすることも可能。また、独自の安全決済システムを採用していますので、バイヤーとユーザーが直接金銭をやりとりすることはありません。海外在住の元キャビンアテンダント、留学生など、「BuyMa」を使って月間100万~300万円の売り上げを挙げている人も多いです。そんな方々から、「BuyMaで生活が楽になりました! 感謝してます」なんてメールが届いた時は、めちゃくちゃ感動します。

<未来へ~エニグモが目指すもの>
世界中からリスペクトしてもらえる会社を目指して。いつまでも勢いのある、楽しい会社であり続ける

 

 「BuyMa」は正直、薄利多売のビジネスモデルです。世の中にまだない、こんな仕組みがあったら、世界は変わっていくんじゃないか。そんな“思い先行”で始めた事業といえるでしょう。そして世界初の第二弾が、2005年12月にスタートした「プレスブログ」。これは、ブロガーをネットワーク化し、当社のクライアント企業が売り込みたい商品・サービスの情報を自分のブログ上で発信してもらうという口コミ・プロモーション・サービス。いわば“マーケット先行”で始まった事業です。その後も、「世の中を変える可能性がある」「世界初」という2つの基軸をぶらさず、消費者参加型CM制作ネットワーク「filmo(フィルモ)」、会員同士で不用品を融通し合うソーシャル・シェアリング・サービス「シェアモ(ShareMo)」を始動させています。

 今年(2009年)の2月10日、当社は満5歳の誕生日を迎えました。今期は、無事通期黒字化を達成。2月8日には、50数名の全スタッフとお祝いの沖縄旅行に出かけてきました。この旅行では貸し切りバス1台で済みましたが、きっと来年は増員しているからバスは2台に別れちゃうんだろうなとしんみり考えたり。そういった意 味で、ここまでついてきてくれた仲間に感謝するための旅でもありました。また昨今、不景気だとか、倒産だとか、明るい話をあまり聞けないですが、当社は幸いにも利益もしっかり出て順調で、振り返ってみると素晴らしい5年間を過ごしてきたなあと。これからの5年はしっかりエニグモをスケールアップさせる期間としたいです。

 そのためにも、やはり優秀な人材がたくさんほしい。また、教育や人事制度も整備させていかないといけませんね。僕も田中もやりたいことがまだまだありますし、エニグモをしっかりブランディングして、株式上場を実現し、海外展開も加速していきたい。ベンチャーの成功の基準が何かと考えると、やはりグーグルだと思います。グーグルは創業から約10年で時価総額10兆円規模の企業に成長しています。この成長スピードを求めてこそベンチャー企業が存在する意義があると思います。僕らも小さく収まらず、グーグル規模の成長を本気で目指して日々仕事を続けていきたい。5年後エニグモは、そうとう“ヤバイ”会社になっていると思いますよ(笑)。世界中の人に、当社発のサービスや商品を使ってもらえるような会社になっていたい。いずれにせよ、いつになっても勢いのある、楽しい会社であることは間違いありません。これからも僕たちが手がける、世界初への挑戦に期待していてください。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
ピンチの今こそ新規ビジネス立ち上げの好機!トレンドとニーズが明確であれば勝機はある

 今はものすごいチャンスのタイミングだと思います。多くの企業が守りに入っていますし、新しいことにチャレンジできない状態。だからこそ新しいチャレンジが成功する可能性は高いということです。ベンチャーキャピタルも、新しい投資先が見つからないで困っている。もちろん、手がけるビジネスが世の中にとって必要なものであるという大前提はありますが、本当にいいビジネスであれば、お金だって協力者だって集まりやすい時代です。熱く勝負に出たいなら、これほどの好機は当分ないと思います。また、同時に最悪の時期であることも否定できませんから、仮に失敗しちゃっても気持ち的なダメージは少ない気がします。ま、時代が悪かったかなと(笑)。

 ネットビジネスのチャンスはどこにあるか? ひとつはアメリカ。microsoft、Google、Yahoo!など、名だたるIT企業が大がかりなレイオフを断行しています。ものすごい数の優秀なエンジニアが仕事を失っていますから、もし語学ができるなら、彼らを口説きながら海外でビジネスを立ち上げるという手もありですね。もうひとつは広告業界。特にテレビなどのマス広告は縮小の一途をたどっています。それがどこかに流れるとしたら、やはりインターネットが一番の可能性がある。効果が高い新たなWeb広告の仕組みを構築することができれば、大きなマーケットを手中に入れられるチャンスがあるんじゃないでしょうか。

 最後に、僕なりのアイデア創出法をお教えします。成功するビジネスには、トレンドとニーズ、ふたつの要素が必須です。まずトレンドですが、世の中ではやっているもの、これからはやりそうなものを常に把握しておかなければなりません。たとえば、最近送られてくるメールの集合場所のURLが「ぐるなび」より「食べログ」が多い気がするなど、些細なことでも何かしらの変化を気にしておくといいです。そういう癖をつけておけば、小さい変化の数々が、実は大きなトレンドとして、まとまって見えてくる時があります。あとは、ニーズ。世の中を、本当に正しい姿なのか、あるべき姿なのかという視点で見ていると、間違ったことやいびつなことに気がついてきます。そこには、必ず潜在的な不満があるはずなので、それを正しい姿にできるサービスや商品には、潜在的なニーズがあると思います。トレンドを見つけたらそれに合うニーズを探し、逆に、ニーズを見つけたら、それをトレンドに合わせていく。そのすり合わせの中で、コンセプトをつくっていくことが多いです。繰り返しになりますが、今はものすごい起業のチャンスですよ。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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