第74回 Yoshida Group 吉田潤喜

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第74回
Yoshida Group 代表取締役会長
吉田潤喜 Junki Yoshida

1949年、京都府生まれ。7人兄弟の末っ子。在日コリアン2世として育つ。片目の失明などのハンディからいじめを受けるが、根性と腕力で大逆転。成長と 共に「ごんたくれ」ぶりを発揮し始める。大学受験の失敗を機に、1969年1月24日、日本脱出だけを目的に徒手空拳で単身渡米。波乱万丈のアメリカ生活 をサバイブした末、自家製秘伝のタレをベースにしたヨシダソース(正式名称:ヨシダグルメのたれ(R))の生産販売を成功させ、アメリカン・ドリームの体 現者となる。米国の中小企業局、Small Business Administration(SBA)が選ぶ全米24社の中に、FedExやインテル、AOL、ヒューレットパッカードなど並んで「殿堂入り」を果たし た。2005年にはNewsweek誌(日本版)「世界で最も尊敬される日本人100」に選ばれる。現在、ヨシダグループとして18社を抱え、グループの 会長職と地元料理番組のレギュラー出演、各地での講演から、日本国内での様々な番組出演・各メディア取材などこなし、世界中を飛び回る日々を送っている。 著書に『人生も商売も、出る杭うたれてなんぼやで』(幻冬舎アウトロー文庫)がある。

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ライフスタイル

宝物

妻のリンダと娘たち。
最愛の妻、リンダと娘3人は、僕の大切な宝物。ちなみに、リンダはブルー、僕はレッドのプリウス。おそろいのマイカーですわ(笑)。長女は結婚して2人の子どもに恵まれた。次女は今、不動産のディーラーやってます。下の子が芸術肌で、大学出た後ハリウッドでも難関といわれるCGの学校で勉強中。それぞれの未来が楽しみです。

趣味

なんと言っても人との‘出会い’ですね。
今、こうしていられるのは、いろんな人に出会って来たからなんですよね。振り返ってみたら、人生の中でこれほど楽しくエキサイティングなことはないと思うとる。まあ、いろんな人がいましたね、仰山。偉そうに言うても、自分の力だけではここまでは来れていない。今になって言えることやけど‘出会い’はわしの趣味ですね。人間一人じゃ何もできまへんで!

社会貢献活動

自宅を子どものための憩いの場に。
今の自宅は、元・由緒あるオートクラブがあった場所。15万エーカー(2万5000坪)くらいの敷地に、6つの建物がある。3人の娘も成人して出て行ったので、妻のリンダとふたりだけで使ってるんです。近くにはサンディー川が流れ、対岸の紅葉の景色も最高。ここをいつか孤児院とか、子どものための憩いの施設として地元に寄附したいと思ってます。僕の恩返しのための人生は、今後もまだまだ続く予定です。

ほっとする瞬間

家族と過ごすひと時。
やっぱり家族と過ごす時間やね。特に長女の3歳と5歳の息子たち、僕の孫たちがめちゃくちゃかわいい(笑)。長女の家族も近くに住んでいるので、毎月1度は一緒に食事してます。僕は娘たちに会社を譲るつもりはいっさいないんだけど、この孫たちに人助けの活動をしてほしいと思ってる。だから、社会貢献の大切さを教えてあげたいんです。

空手とソースと根性でつかんだ、アメリカン・ドリーム。
一文無しが年商250億円の社長になれたやり方教えたる!

 アメリカでイチローの次に有名な日本人。知らなかったあなたに教えよう。Yoshida Groupを率いる吉田潤喜氏である。「強い国、憧れの国アメリカで成功をつかみたい!」。そんな思いを胸に、吉田氏がひとり渡米したのは今から40年前のこと。英語もからきし、徒手空拳の無謀な挑戦だった。が、中学からケンカが強くなりたい一心で、ずっと続けてきた空手が、次々に新しい縁をもたらしてくれることになる。そして1982年、とあるきっかけで生まれた“ヨシダソース”は、家庭の味を生かした本格的なソースとして、一般家庭はもとよりプロのシェフや料理人たちの間に広まっていく。その後マーケットは拡大。ヨーロッパや中南米、また日本をはじめとするアジア諸国など、世界各国でも販売されるまでに。現在、Yoshida Groupは、食品事業以外にも、不動産、ロジスティックス、ディストリビューションなどの事業も展開中だ。グループ年商約250億円の企業に成長したが、「これまで、ああもう倒産やっちゅうピンチが4度はありました。今日はノールールでしゃべりましょか」と、吉田氏は豪快に笑った。今回は、そんな吉田氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<吉田潤喜をつくったルーツ.1>
勝手気ままな父親と、7人の子育てに奔走する母親。
韓国人の両親から生まれた在日コリアン2世として育つ

 僕のおじいさんは、日韓併合の時代に韓国人として初めて日本の議員、京都市議会議員になった人でね。僕はその息子である親父と、15歳で妻となった韓国人のおふくろの間に生まれた、在日コリアン2世ですわ。12歳上の兄が長男で、その間に5人の姉がいて、僕は7人兄弟の末っ子。兄弟から「搾りかす」ってからかわれながら育ちました(笑)。親父は芸術家肌なのか人物を撮るのが大嫌いなカメラマンで、よく毛布とカメラを持って山に写真を撮りに行ってた。で、何日も家に帰ってこない。デパートで個展を開いても、「この写真いいね~」って褒められると、ただでフィルムごとあげちゃうという……。もう商売じゃないんですよ。さらに写真館を3度も潰してます。社員に乗っ取られたり、だまされたり。でもね、いつもニコニコしてる。風呂で毎晩「昭和枯れススキ」とか気持ち良さそうに歌って。

 うちはおじいさんから数えて3代続くクリスチャンなんだけど、親父はいつもこう言ってました。「仕事も食べ物も、神さんが何とかしてくれるから大丈夫」って。いったいどこまでのんきなんだと(笑)。だから大変なのはおふくろですよ。子ども7人をひとりで養うしかない。おふくろはすごかったですよ。京都駅すぐそばの東九条、東寺道の商店街で、洋服屋さん、靴屋さん、アイスキャンデー屋さん、お好み焼き屋さん、あとは喫茶店に麻雀屋さん、焼き肉屋さんと、覚えているだけで8回も商売を替えてる。昔は儲からないから商売替えしてるんやなと思ってたんですが、さらに儲かる商売を常に探して、実践していただけ。商売に対して情がないんですね。でも、今思えばこれは経営者に必要なドライさだと思う。確かに、どの商売もけっこうはやっていましたからね。だから小さな頃はのんきな親父が憎くて憎くてしょうがなかった。「お父ちゃん、神さんっておふくろこのことやないんか?」って文句言ったら、「お前はまだ信心が足らん!」と怒られた(笑)。

 でもね、親父が73歳で死んだ時、アメリカから葬式に帰って来た時には驚いた。教会の周りに花輪がずらっと並んでて、中には「いったいいつどこで知り合ったんや?」というような著名人から贈られた花輪もある。で、参列してくれた方々からの話を聞いて、さらに驚いた。親父は若い頃、バイクに轢かれて足を折ったことがある。その時の犯人が実は近所の若い子で、しかも無免許。当時、無免許で人身事故なんか起こしたら人生終わりなんですよ。親父は「はよ、行け。誰にも言わんから逃げえ。はよせんと、お前の人生終わりになるぞ」って逃がしてあげた。しかも、近所の人たちにもしっかり口止めして。あとでお巡りさんが来た時も、誰にやられたか知らぬ存ぜぬで通した。それが本当の親父の姿だったんだなあと。葬式で初めてそんな話を聞かされて、僕はものすごく後悔しました。でも、もう後の祭りやったね(笑)。

<吉田潤喜をつくったルーツ.2>
小学時代、中学生からバットでぼこぼこに。復讐は、相手の自宅の窓ガラス全部割り!

 僕ね、3歳の時に右目を失明してるんです。すぐ上のお姉ちゃんがふざけて、目ん玉のど真ん中に縫い針を刺しちゃった。もちろん悪気なんてないですよ。さらに在日コリアンなわけだから、小さな頃はよくいじめられましたねえ。いろんな差別用語をずいぶん言われたよ。でも、僕はそのまま黙っていじめられとるような性分じゃなかったんですね。自分をバカにしたやつには、きっちり倍返しでお礼しましたがな。で、どんどんケンカが強くなっていったんですよ。たくさんのハンディがあったおかげで、「負けてはおれん」というエネルギーが生まれたんでしょう。だから、もしかしたら神さんは、僕の右目をつぶした変わりに、何か大切なもんをくれたんじゃないかって。そんな気がしてるんです。

 物心ついた時から、ずっと番長やったね。で、あれは小学校6年やったかな、仲間とグラウンドで野球してたら、中学3年のやつがやって来て、場所を占領しやがった。当然許せなくて、そいつとケンカになったんだけど、バットでぼこぼこに殴られて完敗。生まれて初めての完敗……。むちゃくちゃ悔しくてね。泣きながら家に帰ったらおふくろが、ものすごい勢いで怒るんですわ。「もう1回行ってこい! ハナシつけてこい!」と。困った……けど、もう行かざるを得ない状況まで追い込まれた。行きましたよ、そいつの家まで、石コロを拾いながら。そいでそいつの家のガラスを全部割ったった。その後、そいつのオカンとお巡りさんが自宅に飛んで来た。向こうのオカンもカンカンやったけど、おふくろのほうがすごかった。「中学生が小学生をバットでって何事や! 私があんたと勝負したろか!」って(笑)。結果、お巡りさんになだめられ、相手のオカンはすごすごと帰っていきました。頼もしいおふくろやなあって、誇らしく思ったことを覚えています。

 小学校までは柔道を習ってたんだけど、中学入学と同時に空手に鞍替え。もちろん、ケンカで負けないためにですよ(笑)。で、僕の「ごんたくれ」ぶりは日に日に増していき、もうケンカばかりの日々ですわ。おふくろは週に一度は学校に呼びつけられてましたし、いや、相当なものだった(笑)。でもね、今の子どもってケンカしないでしょう。もっとケンカさせていいんじゃないかと思う。僕はケンカしたことで、悔しさや痛みを知ることができた。弱さを克服するために空手と出会うこともできた。そして、自分を強くさせるために頑張り続ける、精神的な強さも身に付けることができた。好きな言葉に“God damn it,watch me!”というのがある。「今にみとれ! 僕を見とれ!」ちゅう意味なんですが、まさにこれ。この言葉が持っている本当の意味を子どもに教えたら、ナイフで人を刺すようなやつは絶対にいなくなりますよ。

<あの国の圧倒的な強さに憧れて>
兄貴にこき使われるか、やくざになるか。日本を脱出するため憧れのアメリカ行きを決意

  強くなりたいという思いは変わらず、でも、急に勉強モードに入るんです。というのも、当時の立命館大学の空手部はめちゃくちゃ強かった。京都の街で はやくざも避けて通るほど。立命館に行くために勉強して、いい高校に入ろうと。結果、そこそこの公立高校に入れたんだけど、ごんたくれっぷりはまったく変わらんかったね。わざわざ大阪までケンカ売りに行ってましたから(笑)。立命館大学はどうなったかって? 受けましたが、見事に落ちました、振られました。でも、ここから僕の運命がガラリと変わっていったんよ。アメリカに行こうと決めた。小中学生の頃、キューバ危機の際の大胆な判断、オリンピックに出場した選手たちの圧倒的な勝利を見てから、アメリカの強さに憧れてたんです。

 このまま日本にいたら仲の悪い兄貴が始めた工場でこき使われるか、やくざの組にドラフト1位でスカウトされるか。どっちかしかない。高校の先輩がある組長の息子さんで、その人にすごくかわいがってもらってましたし。たぶん、日本に残ってやくざになってたら、今日のインタビューはなかったんちゃいますか。鉄砲でズドンと撃たれて、もうこの世にはいなかったはずだから(笑)。おふくろも、このままこの子を日本に置いといてはまずいと考えていたようで、僕を韓国に留学させたかった。そのための費用をコツコツ貯めてくれたんです。でも、僕が一度言い出したら聞かないことを知っていたので、最終的にはアメリカ行きを許してくれた。でも当時、アメリカの往復航空券は約50万円、大卒サラリーマンの年収の倍以上という金額ですよ。足りない分は家の隣のパン屋さんとか、近所を駆けずり回って借金までしてくれてね(泣)。

 アメリカに旅立つ日、おふくろが羽田空港まで見送りに来てくれました。泣きながら「カラダに気いつけや」と繰り返しながらも、最後の見送りの言葉が、面白かった。「あのな、刑務所だけには入ったらあかんで」と(笑)。おふくろがさらに借金して用立ててくれた餞別代りの500ドルをポケットにしまい、飛行機に乗り込んだのはいいんだけど、機中では不安がどんどん膨らんでいった。英語、できへんし、でっかいスチュワーデスはいろいろ話しかけてくるし。喉カラカラで、腹も減ってたけど、ずっと頭から毛布かぶってずっと狸寝入りしてました。で、ワシントンのシアトルに着いたら、何十年間ぶりの大雪。なんのあてもなくやって来た、生まれて初めての異国・アメリカ。その雪景色を見てたら、なぜだかわからないんだけど、どんどん涙が出てきた。

<不法就労移民からの脱出>
なぜか鬼ババアに助けられ、学生ビザゲット!女子学生リンダに出会い、2週間後にプロポーズ

 日本を脱出することが一番の目的だったから、何をやるかなんてまったく計画してなかった。でも、ここで何かを成し遂げるまでは絶対に帰らんと、不退転の覚悟を決めました。そこでまず、帰りの航空券を売って現金を得、ぼろぼろの中古車を購入。とりあえずこれで雨露はしのぐことができます。寝床はシアトルビーチの公衆便所のそばにある空き地に決定。仕事は現地の邦字新聞を見て、ガーデナー(芝刈り)のバイトを開始しました。週給は90ドル。切り詰めながら生活して、とりあえず学校に入って就学ビザを取得せねばと。このままでは不法就労ですから、いつ移民局の取締りにひっかかって強制送還されるかわかりません。そのために必死で、毎日毎日、朝から晩まで働きました。

 実は僕、2回移民局に捕まってるんです。1度目は、ガーデナーの元締めだった日系人が「こいつは俺の甥だから」とかばってくれた。2度目は、とうとう移民局にしょっぴかれて、「手のひらを見せろと」。ガーデナーの仕事は重労働で、マメが絶対できるわけ。これが不法就労の動かぬ証拠。僕の手はマメだらけ。「ああ、もうアカン」とあきらめかけた時に、ひとりのおばちゃんが調査室に入ってきて、「何してるの? その子は私の友だちよ」と担当者に一言。これで助かったんですわ。そのおばさんは、マリアンヌというかわいい名前なんですが、留学生からは「鬼ババア」と呼ばれていた、恐怖の移民相手のビザ審査担当者。なぜ彼女が助けてくれたのか、その理由はわかりませんでした。でもその後、僕の結婚式に彼女を招待した時に聞いてみた。「何度も何度もビザをくれって、私のところに来てたでしょう。英語もヘタクソだし、しつこいし。なんだかかわいそうに思ったのよね」と言うわけ。ホント、しつこさってのは大事だと思いましたよ。

 英語を学ぼうと入学したコミュニティカレッジには、体育の授業に空手が採用されていて、僕は先生から見込まれ、助手みたいなことを始めるんです。当時はブルース・リーの映画がはやっていて、空手やカンフーがブームでしたからね。それもラッキーだった。さらに希望する学生たちに空手を教えて謝礼をもらったり、賞金稼ぎの空手トーナメントに出場したりして、授業料を払っていました。強くなるためにずっと続けてきた空手が、僕を救ってくれたんですわ。その頃、カレッジでリンダという女子学生に会って一目ぼれ。もう完全にイカレちゃって、2週間後にプロポーズ。なかなかYESと言わんから、自分の手にタバコで根性焼きして、「YES言うまで離さんぞ」と。で、なんとかYESを引き出した。もう、脅迫ですわ(笑)。そしてその後、僕は自分の空手道場を開くんだけど、今度は空手が僕を予想外の世界へ導いていくんです。

「なにくそ! 今に見とれ!」の精神を持って、いつも立ち塞がる障壁を乗り越えてきたんや

<着物に下駄に、カウボーイハット?>
大逆転の始まりは、母秘伝のバーベキューソース。目立ってナンボの実演販売がアメリカ人の心をつかむ

 僕が始めたシアトルの道場はそこそこの人気を博し、その後3カ所に増えたんですが、まだ収支でいえばトントンの状態。その頃、隣のオレゴン州で空手道場を開いていた仲間が交通事故で亡くなって、その道場も引き継ぐことになったんですよ。さらにそこの生徒の紹介で、現地の警察で空手を教える仕事も増えた。おかげで収入はシアトル時代の倍以上になって、しばらくは生活も安定してたんだけど、1980年に入ってアメリカの不況が悪化。生徒数がいっきにピーク時の3分の1に激減し、生活が苦しくなってきたのよ。で、1981年のクリスマス、生徒たちからたくさんのプレゼントをもらいながらも、お返しする余裕がない。そこで思いついたのが、手づくりのバーベキューソースだったというわけ。

 おふくろがやっていた焼き肉屋さんのタレの味を覚えてて、それがすごくうまかったのね。で、おふくろにすぐに電話してレシピとつくり方を聞いて、8時間煮込んでつくった醤油ベースのソースをビンに詰め、リンダがかわいいリボンをつけてくれたものをお返しとしてみんなに配った。これが予想を超えた大評判でね。生徒たちが空きビンを手に「センセイもっとわけてください」「お金を払ってでもいいからほしい」と言うわけ。それを真に受けて、またつくって、今度は売ってみたら、リピートする生徒がたくさん出てきた。それで思ったわけ、「これって商売になるんとちゃうか」って。今考えたらよう始めたなと。人をどつきまわして授業料取ってる男が、いきなりモノつくって売るビジネスを始めたわけやからね。でもね、素人であろうがなんであろうが、目的を持って本気で走り始めたら、必ず応援してくれる人が出てくるんですよ。

 道場の地下室に中古で買った50ガロン(約190リットル)の釜を設置して、バーベキューソースづくりを開始。8時間煮込んで冷めたものを、家族総出の手作業でビンに詰めた。それをボロボロのバンに乗っけて、地元の食料品店に売り込みにいくんだけど、もちろん簡単には置いてくれない。そこで僕は店長やバイヤーに、「棚に並べてとは言わない。店頭で実演販売やらせてください」とお願いしたんです。「それならいいだろう。やってみろ」となった。「よし来た! 見とれよ! 絶対に売りまくってやる!」と勇んだものの、当時は実演販売なんて全く珍しい時代やったから、興味は示すもののなかなかお客が寄って来てくれない。そこで思いついたのが、着物に下駄、カウボーイハットをかぶってのデモンストレーション販売(笑)。いやあ、これが大受けに受けた。もちろん、ソースは飛ぶように売れましたよ。そして、その活動をどんどん横展開で広げていった結果、うちのソースはいろんなスーパーに置かれるようになるんですわ。

<自ら頭にピストルを・・・>
窮地に陥り、自殺を考えたこともある。10秒後に我に返り、絶対逃げない自分に変身

 1982年に、ヨシダソースを設立して、少しずつビジネスを拡大していったんです。話は飛びますけど、今では僕の会社、年商で約250億円、グループ会社も18社に拡大し、世界24カ国にネットワークが広がった。ソースのビジネスが潰れても、スタッフを守れるよう、ロジスティックス、ディストリビューション、不動産など、いろんな分野に進出してます。でもね、当然ですが順風満帆でここまでこられたわけがない。ソースの展示場所の問題で大手スーパーのバイヤーとケンカして、取引停止寸前になったり、いい気になって放漫経営しちゃったおかげで、資金繰りに窮したり。いろんなトラブルがありましたよ。過去4度は「ああこりゃあかん。もう倒産するしかない」という危機にも直面しています。

 ちなみに2度目に倒産の危機に陥ったのが1984年。新工場もでき、ソースの売れ行きも順調で、いい気になってたんですわ。中古なんだけどベンツを買って、ラジオCMを流し始めてね。見栄を張っちゃったんだよね。気が付いたらその無駄遣いが徐々に経営を圧迫し始め、娘の学校の授業料さえ支払えなくなっていた。自分自身も追い詰められて、酒におぼれる日々。ある日、もう明日倒産するしかないとガレージで酔いつぶれてたら、妻のリンダが何かを手にやってきた。フライパンで殴られるのかと思ったら、ウィスキーを持っていて、「もっと飲みなさい。明日家を売って、安いアパートを探しましょう」と(泣)。さらにその夜、リンダの親父のブーマーから電話がかかってきた。「すぐに家まで来い」と言うわけ。義父は、当初から僕とリンダの結婚に大反対でしたから、きっと離婚をせまられるんやろうと思ったね。暗い気持ちで翌朝彼の自宅を訪ねたら、1枚の紙切れを差し出された。なんとそれは、義父が何十年もこつこつと貯めてきた退職のための全財産、16万ドルもの金額が書かれた小切手でした。「マイ・サン。これを使え。ただし、俺の全財産だから、なんとしても返してくれよ」。泣けるよね。義父であるブーマーの人生を壊すわけにはいかない。「命をかけてでも事業を復活させて、絶対に返済するんや!」。もう絶対に見栄なんか張らないと、この時に僕は誓ったんです。

 その後も、ピンチはあった。ゴルフ場の開発に手を出したことで窮地に陥り、一瞬だけなんだけど、自分の頭にピストルを突きつけたことがある。でも、今まで僕を助けてくれた人はどう思うんやろ? リンダと3人の娘たちはどうなんねん? そう考えた瞬間に、死ぬことで苦しさから逃れようなんて、僕は卑怯や、最低やって……。ものの10秒くらいで我に返って猛省した。それ以来、僕はいっさい自分から逃げていないです。自分のつくった会社が潰れる時は、他人に潰される前に自分で潰そうと決めました。だから、株式公開もしない。株を持ち合うのは、リスクを分散させたいからでしょう。僕は、リスクマネジメントっていう考え方が大嫌い。自ら逃げ道をつくったら、その瞬間から逃げが始まってるということだから。最後まで命がけでこのビジネスを続けようと決めた僕には、まったく必要ない概念やということやね。

<未来へ~Yoshida Groupが目指すもの>
僕を助けてくれた人たち、そして従業員のために、できうる限りの恩返しを一生続けていくだけ

 結婚の1年後に、長女のクリスティーナが生まれたんだけど、重い病気にかかって、緊急入院してるんです。それも助かるかどうか五分五分という。神さんに「僕の命と引き換えに娘を助けてくれ!」と祈りましたよ。この時生まれて初めて、自分の命も捨てられるという親の気持ちを知ったね。幸い、娘は助かったけど、ホッとするのも束の間。当時は貧乏生活で保険なんて入れなかったから、大変な治療をしてくれたシアトル子供病院への支払いはどうすんの、と。ところが、請求されたのはわずか250ドル。5日間、5人の専門医がつきっきりで治療してくれたんですよ。あり得ない小額。病院が貧しい移民の僕を気遣ってくれたんですね。その時僕は、「絶対にこの恩返しをする! そのためにビジネスをしよう!」と、初めてお金儲けのことを思ったんですよ。そして今では、シアトル子供病院の姉妹病院も含め、9つのチャリティー団体の理事をやってます。寄附したり、財団を設立して広く活動資金を集めたり。これからも生涯ずっと、この活動を続けていきたいんです。僕のアメリカン・ドリームは、この国のいろんな人たちの助けがあってこそ実現できたんやからね。

 グループのビジネスとしては、1990年の後半くらいから、ロジスティックス事業がどんどん成長してます。ビーバートンという町で空手道場を運営していた時、近くにナイキの本社があって、そこの社員が何人か習いに来てたんです。彼らが偉くなって、仕事の相談を持ちかけてくるようになった。最初は韓国工場に、ナイキが開発したエアソールを空輸する仕事とか。でも今では、ナイキのシューズの箱をうちで開発して、デザインして、2億5000個納入するビジネスも手がけてます。また、全米に展開しているブリティッシュペトロリアムの給油所に、備品をディストリビュートするビジネスも好調。さらに、“KEEN”というシューズブランドのディトリビューションも始めていて、これも面白いことになりそうですよ。

 あとはね、2年前から始めた炭酸水のボトリングビジネス。オレゴンにはたくさんの炭酸水ブランドがあるんだけど、大手飲料メーカーがボトリング工場を独占したことで、各社苦戦を強いられてたんです。プラスチック容器よりも絶対にビンのほうがカラダにはいい。また、ビンはリサイクルできますから、地球の環境保全にも貢献できますし。1分で450本ボトリングできるマシンが、今も現地でフル稼働してるはずです。個人的には日本のマーケットにも興味がある。不動産の価値は来年もう少し落ちそうだしね。たとえば、由緒ある古い温泉旅館の再生ビジネスとか。僕自身も、温泉大好きだから。きっと、アメリカのクライアントを日本に招待した時にも、自社経営の旅館があったら喜ばれるでしょう。いずれにせよ僕は、一生、何かしらの挑戦を続けているんだと思いますわ。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
成功したいなら、出る杭にならんとあかん。とにかく、目的を見つけて動き出せ!

 今、世界的に不況、不況といわれてます。多くの人が、「こりゃアカン」ちゅう悪い暗示にかかっとるんとじゃないですか。でもね、産業革命が起き、資 本主義経済がスタートしてからずっと、バブルの勃興と崩壊が繰り返されてるんですよ。だから、要は考え方ですわ。半分水が注がれているコップを見て、半分も入っていると思うか、半分しか入ってないと思うか。みんなが慌てて逃げてる時って、けっこう落し物が見つかるもんなの。世の中が困った困ったと言っているなら、そこにある矛盾をひとつずつ拾って見るといいかもしれんね。日本で生活していて、怒りたくなること、時ってないですか? まずそこにビジネスチャンスちゅうか、機会があるんとちゃいますか。

 僕の場合は、まずは日本脱出という明確な目的ができて、英語もできないのに、突っ張り始めた。もうホント、クレイジーですわ。でも、最初はそんなもんでいいと思います。どんなクレイジーな目的であっても、必死になって一所懸命走り出したら、なんやわからんけど、ブラックホールみたいなもやもやしたエネルギーが湧き起こり始めるんです。これ、アトラクションの法則といいます。ただし、一番を目指す程度じゃあきません。絶対に一番になったるっちゅうくらいの覚悟がないと。その覚悟をもって動き出したら、きっと応援してくれる人との縁が自然と広がっていきますから。

 もちろん、失敗することもありまっせ。僕なんかも、成功の数よりも確実に失敗の数のほうが多いですもん。失敗はすぐ忘れるんですけどね。ただ、自分の弱い部分が見つかったら、すぐに対処法や克服法をつくってきた。弱さをしっかり把握し、認めることも大事やで。これは、僕が空手から学んだ重要な経営学やね。女性にとって出産って、そうとうな激痛って言いますやん。でも、生まれてきたかわいい玉のような子を見たら、あの激痛のことを忘れてまた次の子を産みたくなる。失敗がつきものの企業経営も、それと同じようなもんちゃいまっか(笑)。

 成功したいなら、出る杭にならんとあかん。出たら潰されるような今の日本ではどうかと思うけど。世の中からしてみれば、パナソニック、ホンダ、ソニーも、創業時はめちゃくちゃ出る杭だったはず。そんな企業をつくったクレイジーなおっさんたちが、日本の経済を世界トップクラスに押し上げたにもかかわらず、今の横並びを良しとする風潮はどうなんやろうね。本当はみんな成功したいと思っているんでしょう。でも、勝負をためらっていたら、いつまでたっても成功は手にできません。何でもいいですやん。不満や矛盾があるなら、とりあえずそれを目的に動き出せばいい。“God damn it,watch me!”。いつも「なにくそ! 今に見とれ!」の精神をもって。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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