第40回 株式会社ダイヤモンドダイニング 松村厚久

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第40回
株式会社ダイヤモンドダイニング 代表取締役社長
松村厚久 Atsuhisa Matsumura

1967年、高知県出身。小学校は野球に熱中。中学からはサッカーに転校。県立高知追手前高校から、日本大学理工学部へ進学する。大学時代、イタリアンレ ストラン「サイゼリヤ」で4年間続けたアルバイト経験により、将来、自分も飲食の世界で勝負してみたいと思うように。大学卒業後は、日拓エンタープライズ へ就職。当時全盛だったディスコの店長などを務める。27歳で結婚、28歳で独立。1996年3月、有限会社A&Yビューティサプライを設立。5 年間で日焼けサロンを4店舗展開し、成功を収める。ここで得た資金を元手に、2001年6月、東京・銀座に1号店となるコンセプト・トレストラン 「VAMPIRE CAFE」をオープン。開業から現在まで6年経つが、好調な売り上げを成し遂げている。2002年12月、株式会社ダイヤモンドダイニングに商号変更。そ の後、業態開発ナンバーワンをスローガンに掲げたマルチコンセプト(個店主義)戦略を推進し、2007年3月6日、大証ヘラクレス市場に上場を果たした。 2008年2月現在、53店を運営。3年後の「100店舗100業態」の達成に向けて走り続けている。

ライフスタイル

好きな食べ物

基本的には和食が好きです。
高知出身ですから酒呑みと思われがちなんですが、それほど呑める口ではないんです。呑む時でも、ビールに焼酎を少しくらいですかね。好きな食事は、やはり 和食でしょうか。実は子どもの頃は野菜嫌いの偏食家だったんです。でも、この商売を始めてからいろいろ食べるようになって、「あ~、なんでも食べればおい しいんだ」ということがわかった。要するに食わず嫌いだったんですよね(笑)。昔では考えられないんですが、健康を考慮して野菜ジュースも飲むようになり ましたから。

趣味

やはりサッカー観戦ですね。 
青春時代にどっぷりとはまったサッカーですね。一番ひいきにしているチームは、もちろん「日本代表」です。関東近郊で代表戦があれば、必ず観戦にいきます よ。ワールドカップドイツ大会は、仕事の関係で行けなかったのですが、次の南アフリカ大会は絶対に行くと決めています。社内のスタッフにも「絶対行くか ら」と言い続けていますし。すでに社内調整を始めているということです(笑)。

休日

日曜はしっかり休みます。
土曜はたまにしか休めませんが、日曜はなるべく休むようにしています。先日、奥さんと買い物に出かけたんですが、僕は新しい店を見つけると、内装を調べた り、サービスをチェックしたり、なんだか気になって仕事モードになっちゃうんです。「なんなのよ!」とか思われてます(苦笑)。子どもは7歳の女の子と、 4歳の男の子がいるんですが、平日なかなか子どもたちが起きている時間に帰れないでしょう。だから、あまり懐いてないんです。下の子が書いた家族の絵に は、僕を除いた3人しか描かれていないし(苦笑)。もうちょっとケアしないと。

行ってみたい場所

まだマイナーなヨーロッパの国々へ。
フランスやイタリアではなく、日本ではなじみのまだ薄い、チェコ、スロバキア、スイスとかに行ってみたいですね。以前、ベルギーを訪れたんですが、そこで ベルギービールのアイデアが浮かんで、「パトラッシュ」というビアホールを開業しました。異文化に接することで、いろいろなニーズを感じることができるん です。だから、プライベートの旅行であっても、結局は仕事になっちゃうんでしょうね(笑)。

出店に際して、一番に考えるのは「お客様歓喜」。
「100店舗100業態」の実現を目指し、走り続ける!

 ダイヤモンドダイニング。競合ひしめく外食業界の中で、いつまでも輝きを失わないように。そんな思いがこの社名に込められている。同社のこだわり。売上でもなく、利益でもなく、店舗数でもなく、目指すは業態開発ナンバーワン。そのとおり、現在まで53店舗を開業してきたが、同じ店がひとつとしてないのだ。1号店である、「21世紀によみがえったドラキュラ伯爵の館~VAMPIRECAFE」ほか、「幻想の国のアリス」「竹取百物語」「黒提灯」「三年ぶた蔵」「ベルサイユの豚」「九州黒男児」「CANDY」などなど、ユニークな店名も、物語性ある店内の雰囲気も、提供する厳選されたメニューも、すべて異なるレストランを展開し続けてきた。そしてなんと、今後3年で「100店舗100業態」を達成する目標だという。ダイヤモンドダイニングは2007年3月、大証ヘラクレス市場に上場を果たした。これまでの飲食店チェーン展開の常識を覆した経営手法で、業界の異端児として各界から注目を集めている若き経営者、松村厚久氏。今回は、そんな松村氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<松村厚久をつくったルーツ.1>
野球にはまった小学生時代。行動評価は「落ち着きがありません」

 高校を卒業するまでずっと高知県の高知市で過ごしました。両親とも高知で生まれた人で、父は小さな町工場を経営していましたが、今では引退してのんびり暮らしています。兄妹は5歳上の姉が1人。彼女は小学校時代の恩師に憧れて、大学は教育学部に進学し、実際に教師となりました。今も高知の小学校で教師の仕事を続けています。

 高知は野球王国と言われるくらい、野球が盛んです。僕も小学校時代から野 球にはまり、野球三昧の毎日を送っていました。また、自然が身近にたくさんありましたから、海、山、川でたくさん遊んだこともいい思い出ですね。勉強は、普通よりはできたほうだと思います。特に算数は大の得意でしたよ。でも、通知表の行動評価欄には、毎回、毎回、先生から「落ち着きがありません」というコメントが。それも6年間ずっと。担任の先生も何度か変わっているのに、全員がその同じコメントを書いているんです。まあ、本当に落ち着きのない児童だったんでしょうね(笑)。

 中学でも野球を続けようと、強豪の私立高知中学校に進みました。入学して野球部に入部しようと思っていたのですが、なんと1学年の半分以上が野球部に入部するという。ですから、同級生のうち100人以上が野球部なんです。本気で驚きました。エスカレーターで進学できる高知高校は、甲子園での優勝経験がある。なので、県外からも甲子園を目指す球児がたくさん集まっているんですよ。これじゃあ、3年間やっても絶対にレギュラーにはなれないと判断して、サッカーに転向しました。

 高知中学はスポーツがとても盛んでしたが、勉強はからきし。当時の話ですから、今はくわしくわかりませんけど。野球部入部という当初の目的もなくなったんだし、そのまま受験なしで行ける高知高校へは進まず、勉強して進学校へ行こうと。けっこう頑張りまして、県内公立高校の頂点と言われている県立高知追手前高校に合格できたんです。本当にこの選択は間違っていませんでした。なぜなら高校時代は最高に楽しい3年間でしたから。

<松村厚久をつくったルーツ.2>
最高に楽しく過ごした高校生時代。サッカー漬けの毎日で、勉強はそこそこ

 高知追手前高校は、高知市内の中心地、高知城の真下に校舎がありまして、その隣に、高知女子大学と土佐女子中学高校があるという、この上ない好立地(笑)。そのうえ高知追手前高校も男女共学ですから、学校の周辺には女の子がいっぱいなわけです。だから、毎日、学校に行くのが楽しくてしょうがなかったですね(笑)。高校でもサッカー部に入部したんですが、つらい部活の練習だって、そりゃ張り切りますよね。女の子に注目してほしいから(笑)。そんな軟派な、進学校の僕たちですから、いわゆる周辺でのパワーポジションがめちゃくちゃ低かったですね。簡単に言えば、喧嘩が弱いやつらとみなされてたということ。だから他校ともめるなんてとんでもなくて、明るいオシャレ系でみんな楽しくってという感じだったと思います。

  高校時代は、青春時代特有の甘酸っぱい経験もある程度はしましたし、サッカーにとことんのめりこみました。僕のポジションは、ずっと守備的ミッドフィルター。今でいうボランチで、3年生がいなくなるとキャプテンを任されたんです。いい線までは行くんですけど、結果的にベスト4とか、準優勝どまり。残念ながら、全国大会の切符を手にすることはできませんでした。当然、青春優先ですから、勉強のほうはそこそこです。高校2年に上がる時の選択で、僕は理系進学コースを選ぶんです。小学校の頃から算数が得意だったという理由もありますが、最終的に「そうだよな」と納得したのは、父から「男なら、当然、理系だろ」と言われたこと(笑)。この選択が失敗でした。まだ16、17歳の少年に、理系の将来も、文系の将来もわかんないですよ。案の定、高校3年で僕は国語が大好きになり、「文学部へ行きたいなあ」と思った時には遅かった。結局僕は、日本大学の理工学部へ進学するのです。

 当時の高知はピザ店もない、マクドナルドもない。「どんな味がすんだろう? 食べてみたいなあ」って、思うわけですよ。一度は何でもそろってる大都会で生活してみたい。それが、東京の大学を選んだ一番の理由です。受験のために初めて上京した時に、電車に乗ったんですよ。驚きましたよ、「みんなテレビと同じしゃべり方してる!」って。今考えれば標準語ですから当然なんですが(笑)。まあ無事に大学に合格し、最初の一人暮らしは千葉県の北習志野でした。陸上自衛隊の駐屯地が近くにあって、何度も自衛隊に勧誘されたことを覚えてます。

<大学時代の貴重な経験>
「サイゼリヤ」でのバイトがきっかけで松村氏の未来予想図画が生まれた

  彼女ができまして。津田沼のマルイに勤めている女の子でした。すぐにフラれるんですけどね。その彼女とデートで使っていたのが、イタリアンレストランの「サイゼリヤ」。そうだ、ここでアルバイトをしようと。もしかしたら、また彼女に会えるかもしれないと思ったんですね。甘酸っぱい動機で(笑)。当時の「サイゼリヤ」は「マリアーヌ商会」という社名で、現在のような全国チェーンではなく、時には正垣泰彦社長ご自身が厨房でフライパンをふっていたようなレストランでした。

 当時、ミラノ風ドリア380円(現在は299円)、イタリアンワイン1杯100 円。なんでこんな価格で出せるのか? 常識で考えると意味わかんないですよ笑)。僕がバイトをしていた頃、三鷹に店を出したんですが、この価格設定が原因で苦戦したそうです。あまりに安いので、安かろう悪かろうと思われたらしい。それでも、ほとんどのお店が繁盛店で、どんどん事業を拡大していかれ、今や店舗数は750店を超えています。そして、東証1部に上場。当時から、すごい店だったんですよ。ここで僕は徹底的なコストカット戦略を学ぶとともに、飲食店経営の奥深さに触れることができました。

 常に店の前に行列ができているというものすごい繁盛店で、4年間ずっと1週間に4、5日くらいのペースで働きながら、私はお客様から「おいしかったよ」「また来るよ」「ありがとう」なんて言い続けられたわけです。まあ、たまには怒られることもありましたけど(笑)。すごく楽しい仕事でしたね。バイトの評価もしっかりしていて、頑張りに比例して時給が上がっていく。大学4年の時に、僕の時給は1100円。すべてのバイトの中で一番高い時給をもらってたんですよ。就職活動を始める頃には、いつか自分の飲食店を開きたいと考えるようになっていました。

 低価格帯の飲食店の仕事は経験できたので、その対極にある多額な設備投資をした高級エンターテインメントサービス業で働いてみようと。そして、就職先として選んだのは、当時全盛を誇っていた有名ディスコを複数経営していた日拓エンタープライズという会社です。僕が入社した1990年は、バブルの残り火があった頃で、街にまだまだけっこうな勢いがありました。配属されたのは六本木の「エリア」というディスコでした。

<雇われない生き方の選択>
28歳で独立し、日焼けサロンを開業。すべては、飲食ビジネス立ち上げの布石

 でも、2年ほどするとバブル崩壊のあおりを受けて客足が激減。ディスコは人が入っていないとディスコにあらず。集客するためにさまざまなイベントを企画し、それを告知する仕事をいろいろやりましたね。お見合いナイト、ボディコンナイトなどのイベントを企画して、テレビ局や雑誌社に売り込んで。逆にテレビ局から「T-Back運動会をやろうよ」と言われてたら、「じゃ、やりましょうか」と実際に企画してみたり。テレビ番組で紹介された後は、ものすごい数のお客様が入るんです。メディアのパワーを痛感しました。そして、この時に培った集客のノウハウが、後々非常に役立つことになるのです。

  日拓エンタープライズでは、最終的に「エリア」と「シパンゴ」という両ディスコの店長を任されていました。アルバイトを含めると100人くらいのメンバーをマネジメントしていたんです。当時のディスコは、上下の関係がとても厳しく、先輩からの鉄拳制裁は当たり前。でも、僕はそれがすごく嫌だったので、ソフトなマネジメントに徹していましたよ。そして、ディスコブームに翳りが見え始め、会社はディスコ経営からパチンコ店経営にビジネスの主軸を移し始めます。もうここで働く意義もなくなった・・・。27歳で結婚した僕は、独立に向けて動き始めます。

 1996年、日拓エンタープライズを退職し、飲食店開業の準備を開始。店舗経営に関しては自信がありましたから、きっと金融機関も協力してくれるだろうと考えていたのです。しかし、どこもお金を貸してくれないんですよ・・・。独立の厳しさを思い知らされました。そこで、親族から少しだけ借金をして、当時自分もよく通っていた日焼けサロンを始めることに。サービスというかホスピタリティの欠如した店ばかりだったので、きちんとやれば絶対に当たるだろうと。池袋に12坪の店舗を借りて、個室を用意して、BGMも有線を引いて自由に選べるようにしたところ、その狙いは大当たり。夏の繁忙期は1店舗あたり月商が400万円くらいありましたから。そして、5年間で4店舗の展開に成功し、いよいよ飲食店の立ち上げに着手するのです。

お客様に「非日常」のワクワク感を提供し続ける。
業態開発ナンバーワンの飲食企業を目指しています!

<満を持して、レストランを開業>
東京・銀座6丁目に1号店を出店。その名は、「VAMPIRE CAFE」

 日焼けサロンを経営していた5年間は、開業資金を貯める、融資を受けるための信用をつける、さまざまな飲食店の視察をすることに注力した時期でした。妻との新婚旅行もそう。アメリカのオーランドで、世界一怖いといわれているお化け屋敷に行ったんです。本場の本物のエンターテインメントとは、これほどディテールにこだわるのかと感動しました。おいしいレストランはいくらでもありますが、本物の雰囲気の中、ワクワク感が楽しめるレストランは少ない。これだ! と。それからずっと、本格的エンターテインメントレストランのコンセプトを考えるようになりました。

 どうせやるなら日本一の繁華街、東京・銀座で勝負することを決めていました。マクドナルドも、タリーズコーヒーも、1号店は銀座からですからね。しかし、銀座の敷居はやはり高かったですよ。何度も何度も不動産会社やビルオーナーと交渉し、テナント入居に成功。それでも最後に「銀座に似合わないお客が来るような店にはしないでくれ」って釘を刺されましたから。そして2001年3月、やっと「VAMPIRE CAFE」のオープンにこぎつけたというわけです。開業資金は総額で6000万円ほどかかりました。約半分が自己資金、残りは銀行からの融資ですね。

 「VAMPIRE CAFE」の開業前、媒体へのリリース営業に力を入れました。広報スタッフに、『東京ウォーカー』『Hanako』など、主要タウン誌の編集部に直接ご挨拶に伺わせ、「出席の返事をもらえるまで帰ってくるな」と指令を出すほどの徹底振りです。その甲斐あって、プレスパーティには100名を超えるマスコミ関係者にお越しいただき、数え切れないくらいの媒体露出に成功。これはディスコで働いていたときの経験が生きましたね。開業後1カ月は集客が厳しく、スタッフから「社長、本当に大丈夫ですか?」と心配されていましたが、メディアへの露出が始まった瞬間から、予約の電話が鳴り止まない状況に。僕の狙いは的中したというわけです。

 実は開業当初、創業メンバーと「5年後に3店舗くらい展開できていたらいいな」と話し合ってたんです。しかし、赤坂のあるフランス料理店が撤退した店舗を見た瞬間、ここで和食居酒屋をやれば絶対にはやると思ったんです。それが「黒提灯」という店なのですが、これが予想以上にはやった。他店が失敗した跡地でも、当社のコンセプトならやれる。それが証明できてから、居抜きの店舗を多く手がけるようになりました。居抜きなら、通常新店開業にかかる費用が3分の1程度に抑えられます。ここから多店舗化のスピードが一気にアップしましたね。以降、1つとして同じ店をつくらないというマルチコンセプト戦略を徹底して貫き、2008年2月現在で、53店舗の個性的な飲食店を経営しています。

<夢の10割バッター>
店舗間のシナジー効果もあり、53店舗、好調な運営を継続中

 私たちの経営理念は「お客様歓喜」。常にお客様を喜ばせることを念頭に置いた店をつくるために、例えば焼酎を約300種類取り揃えた「竹取百物語」、10種類の豚肉と約100種類の梅酒を提供する「三年ぶた蔵」など、インテリアやネーミングのサプライズもさることながら、圧倒的な食材・種類の豊富さもお客様から支持をいただいている理由のひとつ。少し前までは店のコンセプトやネーミングのほとんどを私が考えてきました。電車の中の広告、妻が読んでいる女性誌、大好きな映画などからインスピレーションを得ることが多いですね。

 もうひとつ、飲食店の面白さは、提供しているサービスへの反応がお客様からダイレクトに返ってくるところにあります。だから、お客様を飽きさせないために、料理メニューやBGM、コスチュームなど、すぐに変更できるよう、3つの約束「お客様に喜んでいただく」「コンセプトを外さない」「予算に基づいた利益を挙げる」を逸脱しないことを条件に、店長以下現場のスタッフに大きな権限を与えているのです。そんな個店主義、現場重視の経営も業績好調の理由と言えるでしょうね。大手飲食チェーンは、仕入れルートやロジスティックにさまざまな制約があったり、運営に際しても画一的なオペレーションが求められますから、当社のような本気の顧客本意経営はなかなか真似できません。ここが競合との差別化ポイントでもあります。

 コンセプト性の強い飲食店は寿命が短いと言われています。しかし、「VAMPIRE CAFE」は丸6年経った現在も前年売上高をクリアしています。同じ形態の店をチェーン化するとその瞬間から陳腐化が始まりますが、「VAMPIRE CAFE」はオンリーワンの存在。もちろん当社のほかすべての店舗も同じく、それぞれがオンリーワンの飲食店です。また、「竹取百物語」に来店されたお客様が私たちのパンフレットを見て、「VAMPIRE CAFE」にも行ってみよう」といった、自社内でのシナジー効果もどんどん高まっています。おかげ様でまだ撤退店舗はないんですよ(笑)。

 これまでは基本的に客単価平均4000~5000円のダイニングタイプの店舗を中心に出店してきましたが、ららぽーと豊洲に出店したスペアリブのテイクアウト「GABU-RIB」の客単価平均1000~2000円の新業態や、大阪への出店も実現しました。そうやってさまざまな挑戦を続けながら、会社の業績は、2004年2月期の売上高が4億円、2005年2月期が8億3000万円、2006年2月期が17億5000万円、そして2007年2月期が35億円と、これまでの成長率を保ちながら順調に事業拡大を続けています。

<未来へ~ダイヤモンドダイニングが目指すもの>
今後3年で、100店舗100業態。この目標達成しか眼中になし!

 今後3年で、「100店舗100業態」の個店をつくることが当面の目標ですね。私はダイヤモンドダイニングを、売上日本一でも、利益額日本一でも、FC加盟数日本一でもなく、業態開発ナンバーワンの会社として育てていきたい。各方面から、業態委託やFC加盟などのお声をいただきますが、100店舗100業態を達成するまでは我慢、我慢。「チームファンタジー」という組織縦断プロジェクトが常に新業態のアイデアを企画し続けており、今でも40案件ほどの新業態が出番を待っているところです。街は生き物ですから、いろんな条件の出物が出てきた時にGOだと踏めば、すぐに出店対応できるよう、その準備は万全です。

 2007年の3月6日にヘラクレス市場に上場することができました。これまで、出店エントリーをする際、上場していないことを理由に断られたこともあります。今回の上場により、出店審査はすごく楽になるでしょうね。連休の翌日に、取引先への支払いを確実にするために、連休最後の深夜、各店舗を回って売上金を回収したり、1億円規模の出店が決まって銀行から融資の内諾を得ていたのにもかかわらず、急遽、融資を断られたり。そんなお金にまつわる苦労もかなり軽減されるでしょう。

 あとはここまで一緒に頑張ってくれた社員へのお返しもできたかなと。僕たちがやっているのはやっぱり水商売なんですよ。でも、上場企業になれたおかげで、社員たちが結婚するときに向こうの親御さんへ与える印象も良くなるでしょうし、住宅ローンを組む際にも上場前よりスムーズになるはずです。また、採用にも多少影響していると思います。2007年度は約30人、2008年度には約50人以上の大学卒新入社員が入社する予定。最終面接は僕が全員やるので大変ですが、これもうれしい悲鳴ですよね。

 日拓エンタープライズ時代の仲間も10人ほど社員になってくれていまして、みんな辞めずに頑張ってくれています。これからも、3年後の「100店舗100業態」実現を目指して、わき目を振らず走り続けていきます。ぜひ一度、ダイヤモンドダイニングのお店に遊びに来てくださいね。絶対に楽しんでいただけるはずですから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
半端な気持ちならば起業してはいけない。自分も含め、周囲を不幸にするだけだから

 起業を夢見るのはいいですが、実際に起業したら、正直言ってめちゃくちゃ大変ですよ。誰かから「起業したいんですが」と相談されたとしたら、まず「やめておいたほうがいいぞ」と僕は答えるでしょうね。やる以上、それくらい大変なことだということをよくよくわかった上で決断してほしいです。会社が嫌だから、上司と合わないから、起業するなんて理由はもってのほか。絶対にやり遂げる、困難が目の前に立ちふさがったとしても、クリアして事業を継続していく。起業目標を達成するためなら、24時間会社人間になれる。それくらいの気概が持てないなら、本当にやめておいてください。自分も含め、周囲を不幸にするだけですから。

 あと、「3年後に起業したいので準備しています」と言う人がたまにいますが、それもどうかと思います。ダイエットとか禁煙とかも同じ。「来月から本気で始めるから、今月は食べていいんだ、吸っていいんだ」って、そんな心構えでは絶対に実現できないですよ。やりたいと思った時こそ、始め時。本気で起業したいと思うなら、チャンスが来たらすぐにスタートできるよう、常にアンテナを広げて、 これ以上は無理だろうというくらい情報を収集して、勝つためのマーケティングを徹底しておくことです。

 もしも、あなたが飲食店のオーナーとして独立したいなら、まずは当社で働いてみるのもいいかもしれませんよ。先ほどもお話しましたように、現在53店舗、それをこれから3年間かけて100店舗100業態に拡大していきます。どんどん仕事を任せていきますし、権限もどんどん委譲していきますから。常にやりたいことが明確で、率先して行動できる人なら、最高の擬似起業体験の場となるのではないでしょうか。これまでうちから独立していった人ですか? いないんですよ、これが。辞めて自分でやらなくても、当社でしっかり頑張ればやりたい店がつくれるんですから、当たり前かもしれません。そういった意味で、飲食ビジネスで起業を考えている人たちにとって、当社は最高の準備環境が用意された場所だと言えますね(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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