第109回 株式会社アップガレージ 石田 誠

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第109回
株式会社アップガレージ 代表取締役社長
石田 誠 Makoto Ishida

1960年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学部に進学。大学在学中の1983年に、父と兄が始めた中古車販売ビジネス「オートフリーク」に参加。そのまま事業にのめり込み、大学は7年かけて卒業。同事業を年商60億円のビジネスに育て上げる。1999年、オートフリークからスピンアウトさせるかたちで、中古カー用品販売部門を独立。株式会社アップガレージを設立し、代表取締役社長に就任。立ち上げ当時から、フランチャイズシステムを取り入れた多店舗展開を計画し、年商2億円の時代に、1億円のシステム開発、運営マニュアル制作を実行。設立総会でメンバーに宣言した、5年後の上場もスムーズに実現。2004年に東証マザーズに上場している。その後、順調に店舗数を拡大し、直営店20店、フランチャイズ74店の計94店舗を運営中。現在、「アップガレージ」「アップガレージライダース」「アップガレージホイールズ」の3業態で、300店舗の出店を目指している。

ライフスタイル

好きな食べ物

牛丼とシウマイ弁当。
好きな食べ物はふたつ。吉野家の牛丼と、崎陽軒のシウマイ弁当です。受け狙いではなくて、最後の晩餐はどっちにしようかいつも悩むほど。ちなみに、シウマイ弁当は温めてはダメ。崎陽軒の創始者が、冷めてもおいしい駅弁をつくろうという志でつくったので。お酒は飲みません。でも、飲み屋はしょっちゅう行きます。オールも大丈夫です(笑)。

趣味

新規出店です。
表向きには、テニス、芝居鑑賞、読書とか言っていますが、今一番の趣味は、アップガレージの新規出店ですね。300店が今のところの出店目標なので、あと200くらいやらないと。僕のモチベーションの源泉です。クルマですか? この間、久しぶりに富士スピードウェイの本コースを走ってきました。けっこうテンション高くなって、頑張りました。

行ってみたい場所

北朝鮮をこの目で見たい。
北朝鮮、行ってみたいです。いろいろ言われているけど、ホントにそうなのかなって。日本のマスコミいい加減じゃないですか。あまり行った人いないし、自慢げに語れそう。飲み屋のお姉ちゃんにも受けがいいんじゃないかと(笑)。そういうよこしまな理由からも。あと国内でいえば、吉野の桜でしょうか。まだ見たことがないので。

最近感動したこと

メンバーの成長です。
店長の上にいるマネージャーが、メンバーを叱ったりとか、ほめたりしてる場面に出くわした時に、僕とほぼ同じ思いでやっているのを見たこと。すごいなこいつらって。そうだよね、ここは怒るところだよねって。以前は、結構はずれてたんですけど。ここ3年くらい、価値基準の共有化がテーマでしたから。すごく嬉しかったです。

中古車販売ビジネスを通じてチャンスを見出す。
日本最大級の中古カー&バイク用品チェーンへ

 中古タイヤ・ホイール・カーナビゲーションなどの中古カー用品・中古バイク用品を販売&高価買取! 1999年に産声を上げた株式会社アップガレージは、今や日本最大級の中古カー&バイク用品チェーンに成長。「カー用品・バイク用品をもっと身近に、もっと親しみやすく」「ユーザーにとって欠けがいのない店へ」。そんなミッションを掲げ、今、同社は全国300店舗の出店を急いでいる。大学時代に始めた中古車販売ビジネスからスピンアウトするかたちで同社を起業した代表取締役社長の石田誠氏は言う。「エコ、環境問題を前提にしてビジネスをしているという気持ちは、まったくないですね。それよりも、クルマやバイクが大好きなお客さまが必要なものをなんとか安く届けたい。『アップガレージがあって良かった』と喜んでいただけるお客さまをひとりでも増やすこと。それがすべてなんです」。今回は、そんな石田氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<石田 誠をつ くったルーツ1>
スポーツも勉強もそこそこの目立ちたがり屋。この頃が一番バランスの取れた時代だった?

 神奈川県で生まれました。生まれたのは茅ヶ崎市ですが、すぐ川崎市に移ってきましたので、育ったのは川崎です。兄弟は5つ上の兄貴がいます。その当時、親父はクルマ関係の会社に勤めるサラリーマンでした。お袋の実家が銭湯をやっていまして、川崎大師近くにある大衆浴場ですね。だから、基本的には商売の家に育ったと。僕が小学校1年生の時に、親父は何を思ったか、いきなり寿司屋を始めるんです。職人さんを探して、人を雇って、最終的には見よう見まねでやっていましたね。もともと自分でビジネスをやりたかったみたいですよ。それで同じ川崎市内に引っ越して、店を開いた。まあ、新しもの好きでしたし、計画性もなくまずはとにかく始めて、走りながら考えるという。僕もそんな親父のDNAを引き継いでいる気がしています。

 僕は、小さい頃は割と大人しい、引っ込み思案な子だったんですよ、実は(笑)。兄貴と年が5つ離れていたものですから、彼は僕にとってかなりのお兄さんでしょう。また、親父の商売をお袋が手伝って、かなり忙しくしていましたから、けっこう何でも自分でやらなきゃいけない状況に勝手になっていまして。そういう意味では、この自立心は、その頃育まれたのかな?と今になって思っています。でも、小学校の高学年くらいから、特に何かきっかけがあったわけではないですけど、けっこうアクティブになってきましてね。お山の大将的な性格、今の僕の原型がかたちになり始めたのもこの頃。目立ちたがり屋だったり、お調子者だったりする面が出てきたのが、この高学年くらいですかね。

 野球をやっていました。リトルリーグとか、本格的なものではないですけど、チームに入って。あと、うちの母親が教育熱心で、教育ママの走りみたいな感じでして。うちの兄貴も中学受験をしまして、僕も中学受験をしたんですけど、4年生ぐらいから塾に行ったり、家庭教師を雇ってもらったりして、受験勉強をしていました。野球をやりつつ、リーダーシップも発揮しつつ、勉強もそこそこ。そうですね。小学生時代が、一番バランスが良かったかもしれないですね(笑)。ただ、兄貴にはコンプレックスがありました。結果的に兄貴に比べると、偏差値的にちょっと低い中学しか受からなかったですし。お袋は、ズバリ比較していましたから。「お兄ちゃんはできるのに……」みたいな(笑)。今では子育てで言っちゃいけない禁句みたいですけど。お袋はそういう感じ。逆に親父は何も言わない。でも、今思うと兄貴コンプレックスは高校生ぐらいまで続いてたかな。

<石田 誠をつくったルーツ2>
映画と芝居と読書に明け暮れた青春時代。
当時、将来の夢は脚本家か演出家だった

 バリバリの進学校ではないんですけど、男子校の中高一貫校に進みました。部活ですか?野球部には入りませんでした。趣味でテニスをちょっと始めた程度。スポーツ系から一転、僕は、文学少年になっていくんですよ。本を読むのが好きだったこともあるんですけど。  中学に進んでから、かなり読書量が増えて。映画とか芝居とかやりたいなあと。そういう方向に進みたいなと漠然と思うようになって。俳優ではなく、どちらかというと、裏方のほうですね。脚本とか演出ですとか。一番影響を受けたのは、遠藤周作さんですかね。まあノリで結構いっちゃうほうなんで。徐々に芝居を見に行くようになって。1975年ごろ、ちょうど、つかこうへいさんがブレイクし始めた頃でした。高校生の頃は、本当に足しげく通いました。「熱海殺人事件」や「ストリッパー物語」とか。風間杜夫さん、平田満さんがメインを張っていて。特に高校生は観劇料が安かったんですよ。一般の半額くらいでしたか。もちろん映画もたくさん観ました。

 高校の時に、自分たちで映画製作研究会をつくったんですね。『ぴあ』が、自主制作の映画を支援する「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」を始めていて。そこから映像の世界に進む人が出たりして。もちろん僕なんかはぜんぜんダメだったんですけど。いっぱしの映画人気取りみたいな感じで活動していました。学園祭に合わせて、卒業までに2本くらい映画つくりました。みんなで脚本つくったり、出演したり、ロケに行ったりしながら。僕らは男子校なもんで、女優は現地調達したり、今思うとナンパ目的みたいな気もしますけど、御茶の水女子の女生徒に協力してもらったりとかですね。この頃は、日芸とか、三田文学に憧れていましたから、慶應の文学部に行きたいなと思ったりもしたんですけど、結果的に1浪して早稲田の文学部に進学しています。

 文学少年だったので、読書三昧だったりとか、お金にもならない文学の研究とかですね、およそ実社会と縁遠いような、大学ではそんな生活をしてみたいと考えていたんです。と同時に、起業家チックな親の姿を見ていて、まったく間逆なんですけど何かビジネスをやりたいという気持ちもあった。大学に進んですぐ『ぴあ』のアルバイト試験を受けて、当時って手書きで版下をつくる時代でしたから、そんな編集アシスタントを1年間続けています。大学に入学したのは、闘争の70年代の雰囲気が終わって、ワンダーランド化し始めた80年代でした。ほぼ大学には、行かなかったですね。今も鮮明に覚えているんですけど、大学の語学の担任が開口一番、僕にこう言ったんです。「大学の授業は重要だが、もっと君たちに重要だと思うことがあったら授業は休んでもらって結構です」と。か、かっこいいと。それを真に受けて、本当にほとんど行かなくなりました(笑)。

<大学時代に事業に参加>
父と兄が始めた中古車販売ビジネスに参加。遅れた業界を一新すればチャンスあり!

 あと、非常にナンパなサークルをやっていました。僕らの時代は、夏はテニス、冬はスキーっていうのが典型だったんですけど。元からある組織に入るのがいやだったので、自分でつくろうってことで。それはずっと続けていました。人の言うこと聞くのが嫌いなんですよ。思いっきり背伸びしていましたから。ハスに構えて。すごくいやな奴だったと思います。『ぴあ』のバイトは、インタビュー記事のミスが原因で辞めた。「シンガーソングライター」を「シンガーソングライダー」って誤表記してしまって。「仮面ライダーか!」みたいなこと言われて、頭にきまして。あと、面白かったのは自分で企画した学園祭のイベントの「ミス人妻コンテスト」(笑)。早稲田祭に人妻呼んで、誰が一番色っぽいかっていうのを競うわけです。それで面白いことやっているやつがいると評判になって、その後、早稲田の「万歳同盟」っていうのがあるんですけど、そこを出た有名な放送作家から声をかけられて、テレビやラジオの脚本つくるアシスタントを始めた。1年くらい続けましたね。

 1983年の2月に、兄貴が親父とふたりで中古車屋を始めるって言い出しまして。ふたりともクルマ好きでしたから。飲食からいきなりの方向転換ですし、面食らったんですけど。「どうぞおやりください」と。最初は、僕には僕の道があるんで、という感じだったんですけど。始めたその年の6月に、親父が亡くなっちゃうんです。前から具合悪かったんですけどね。それで結果的に僕も手伝わざるを得ない状況になった。放送作家のアシスタントをやっていた時です。それからはずっと、クルマ業界にいると。社名はオートフリーク、国産の中古車販売です。完全に街中にある中古車屋さんって感じでスタートしてますね。そんな話をすると僕が犠牲になっちゃったっぽくみえるんですけど、実際にかかわってみるとすごく面白かった。一番驚いたのは、中古車業界がすごく遅れていた業界だったことですね。

 規模の小さな、パパママストアみたいな店舗が多いんですね。また、消費者に対して、グレーな販売をしていた。事故歴を隠して売っていたり、あと走行距離の巻き戻しをしていたりとか。当時は、けっこうダーティーなことが平気で行われていたので、きちっとディスクローズすれば他店との差別化が図れて、けっこうイケるんじゃないかと。僕自身もメラメラと意欲がわいてきた。もともとクルマに興味もありましたし、挑戦しがいのある業界だと思って。中古車のオークションがあるんですよ。会場はすごくスリリングな雰囲気。23歳の小僧が、300万だ500万ってセリに参加するのは、かなりエキサイティングでしたね。プラザ合意前でバブル景気に突入する寸前。今思うと、誰が何やってもうまくいく時代だったんですけど、「けっこう俺たちイケてるなあ」って勘違いするくらい、売れに売れました。そうやってクルマビジネスにのめりこんでいくわけです。変わり身の速さと、のめりこむ早さは人一倍。文学青年だったのに(笑)。

<バブル景気に乗じて大儲け>
中古車販売ビジネスにかげりが見え始めた頃、中古カー用品という新たな商材の可能性に着眼

 兄貴が事実上社長でしたが、彼はクルマをいじったりとか接客をしたりするのが好きで、僕はやんちゃなところがあって、企画や計画の仕事を引き受けたり、広告戦略をやったり、そういう舵取りを引き受けていました。あとは管理部門などのバックアップ系の仕事も。今考えると、そうとうお粗末な状態でしたけど。10年ぐらいは右肩上がりで事業も拡大していって。80年後半はバブルのピークでしたから、高額の車両ががんがん売れていったりしましたし、途中から一部新車の販売をしたりとか、あとは輸入車のディーラー業も手がけて。店舗は7店舗まで増やして、従業員が約30人、年商が約60億円。何とかうまく経営が回っていて、怖いのは税務署くらいでした。ただ、1995年くらいから、だんだんと景気が怪しくなって、徐々に当社の売り上げにもかげりが見え始めます。

 いくつか理由はあるんですけど、ひとつはトヨタさんや日産さんなどのメーカーが、中古車販売に本腰を入れ始めたこと。景気の悪化とともに、中古車がけっこう儲かるって話が広がっていって、ファーストエントリーで自社ブランドの中古車を買ってもらい、そのあと新車に乗り換えてもらうというストーリーをメーカーさんが描き始めたんです。これが本格化すると、太刀打ちできないと正直思っていました。それと、97年の山一證券の倒産で、銀行さんのスタンスがガラリと変わった。世の中がいっきにきな臭くなってきて、新業態をつくらないと厳しいと思い始めたんです。でも、まったくクルマと関係のないビジネスはリスキー。クルマにまつわる業態で、新業態をと。それでふと気づいたのが、中古カー用品の存在でした。廃車になるクルマの部品を取り外したりして、中古車を買ってくれたお客さまにサービスで付けてあげてたんです。その後、余った中古カー用品を小さなスペースに並べていたら、これ目当てで来店されるお客さまが増えてきた。

 「中古カー用品ってけっこう盛り上がってるんだな」と。それまでは、1台300万円とか、500万円の商売をやっていたので、中古カー用品なんて僕たち見向きもしなかったんですよ。だけど、ほぼ原価ゼロの商材が1000円や2000円で売れていく。さらに、お客さまが非常に喜んでくれる。買っていただいた方が喜んでくれるっていうのは、やはり商売人冥利に尽きるわけです。これはビジネスになるんじゃないかと。1998年当時、今もお付き合いのあるコンサルティング会社の自動車専門の方に、「中古カー用品の販売で新業態を立ち上げようと思っている。どうでしょう?」と相談してみました。すると「これは面白そうですよ」と。当時で、新品のカー用品市場が2兆円。で、中古のカー用品が、約200億円。でも、プレイヤーがいない状態なので、潜在的には、2兆円の10%、2000億円くらいありそうだと。そして、1998年9月、オートフリークの町田店に場所を確保して、単体のビジネスとしてトライしてみた。初日から、ものすごい反響でしたよ。

●次週、「計画どおり5年後に上場! クルマ、バイクを愛するユーザーの欠けがいのない店に!」の後編へ続く→

注力度合いは、1に出店、2にWeb、3番目が海外展開。
カー&バイクユーザーにとって、欠けがいのない店に!

<宝島に一番乗り!>
第二創業としてアップガレージを立ち上げる。じっくり準備をし、1年後にFC展開を開始

 オープン初日は、駐車場待ちのクルマの列ができる状態でした。正直、これほどか!と、びっくりしました。この様子を見て、僕はイケると即断。急ピッチで出店をしていかないと、競合他社も参入もしてくるだろうし、早いもの勝ちだなと。そして1999年4月、オートフリークから事業をスピンアウトさせるかたちで、アップガレージを設立。スタートを切るんですけど、その前に、伊豆で設立総会を開いています。根拠はないんですけど、「47都道府県に出店して全国制覇する。そして5年以内に上場する」。このふたつのことを、設立メンバーに宣言してですね。「上場するから金があるやつは出資しろ」って(笑)。1号店、2号店を直営で出店して、フランチャイズも2000年にスタートしています。1年かけてシステムの開発をやったんですよ。基幹システムとポスレジです。

 アナログチックにやっている限り、多店舗展開できないと思っていましたから。大きな理由はふたつあって、ひとつは計数管理しないと収益が確定できない。上場に耐え得るだけの財務処理が必要でした。当時の中古業界は、どんぶり勘定の世界。最近は違いますが、「だいたいこのぐらい在庫がある」とか大雑把ではダメ。それともうひとつは、買取がキモ。中古ビジネスって、職人芸になっちゃうんですね。その業界に精通した人間が、何年も経験をつんで、価格を導き出したり。それでは人を育てるのに何年もかかってしまいます。このままでは短期間で急ピッチに出店することが事実上難しくなるので、そこを何とかシステムで補えないかと。ある商品の型番とか入れていくと、買取価格が出てくる査定システム。それらのシステムを、1年間かけて完成させたわけです。

 その当時はまだ1店舗でしょう。年商レベルで2億円くらい。まだ決算が出たか出ないかの頃ですね。実は、システムの開発に1億円もかけています。付き合いがあった銀行さんを何とか説得しまして。かなり、みなさんに反対というか心配されました。でも、そのシステムがあれば、スピーディに多店舗展開できると僕自身は確信していました。結果的数行に分けて借り入れを起こして、システム開発を実行。結果的にこのシステムが、その後のフランチャイズ展開にも生きましたし、今もうちが優位性を保てている大きな源泉になっています。あとは、店舗運営マニュアル。フランチャイズ用の研修マニュアルとか。コンサルティング会社に手伝ってもらいながら完成させました。5年後に上場するために逆算して、このタイミングですべきことを、いっきに進めていったと。この1年間は、僕は現場に出ることなく、システムとマニュアルづくりに明け暮れている状態でした。

<アクセルとブレーキ>
店舗の急拡大と業界を巻き込んだ戦略で窮地に。
3年間の立て直し期間を設定してV字回復!

 その後は、おかげ様で中古カー用品の黎明期・成長期っていうんですかね。多少お店のクオリティが低かろうが、店長のクオリティが低かろうが、業態の力強さに助けられた。出店する店舗がどんどん当たって、予定より1カ月早い2004年、東証マザーズに上場。いわば戦後の闇市状態ですよ。片一方しかない靴とかを売っても、お客さまが並んでくれる。これは需要と供給がミスマッチしていますから、供給側であるうちのほうが強かったということ。ただ、2005年、2006年くらいから競合他社が増えてきて、だんだんお客さまの目が厳しくなった。外部に約束した出店計画もあって、ちょっと無理しすぎたんですね。その頃から、しっかりマネジメントができる店長をつくっていかないといけないと反省……。もうひとつ、ネットのショッピングモールに、我々小売業者が出店してマージンを取られることが面白くなかった。それで、ちょっと手痛い失敗をしてしまうんですよ。

 このままだと我々中古業界も、楽天やヤフーなど、いわゆるポータルサイトに従属的になってしまうという勝手な危機感があった。だったら中古品を扱う企業が団結して、ポータルサイトを運営しようと。名だたるリユース・リサイクル企業に僕が説明しに上がって、みなさんに出資いただいて、「リーワンネット」という中古関連のポータルサイトの会社を立ち上げて、始めたんですね。ブックオフさん、ハードオフさん、トレジャー・ファクトリーさん、そのほかにもシステム・マーケティング会社、コンサル会社などの50社に協力いただいて。ただ、素人の悲しさか、時期尚早だったというか、赤字を垂れ流したまま1年半でその会社は頓挫……。結果的にうちが60数%出資する完全子会社でしたから、2007年の3月期、初めての赤字を出すんですよ。そこで僕ははたと夢から覚めて、参加いただいたみなさんにご説明して、その会社を清算。アップガレージの社長は続けたものの、責任を取って僕は自ら営業本部長となり、収入も減らして社業の立て直しに専念することに。

 気分的には降格になったつもりで、既存店舗の建て直しをやるからと社内に宣言して。そこからの3年間は、組織替えをしたり、社員教育に力いれたり。2009年3月までその立場でやって、いろんなことを大きくドラスティックに変えて、既存店舗も非常に活性化して、翌2008年には収益面でV字回復を果たし、復活。この4月にやっと営業本部長を外れました。採用、研修、システム、サイトなど、気になる部分がまだ社内を見渡すといくつかあるので、会社全体をメンテナンスというかコントロールする仕事に注力しています。今、全国に店舗が94店。上場の約束は守りましたが、まだ全国制覇ができていないんです。残りは鹿児島とか、5、6県ですか。早急にこれは実現したいと思っています。

<未来へ~アップガレージが目指すもの>
クルマ、バイクに人生を投影しているような。
そんなお客さまのお手伝いをし続けたい

 参入前に200億といわれていたマーケット規模は、今、800億くらいに育っていて、僕らは1500億までは伸びると考えています。当社には業態が3つあるんです。「アップガレージ」「アップガレージライダース」「アップガレージホイールズ」という。この3業態で300店舗をなるべく早く達成したい。それと昨年からWebサイトにも注力しています。Web上で店舗が扱っている20万点ほどの商品を紹介して、クロージングまでできます。携帯からもアクセス可能で、非常に好評なんですね。うちの今のテーマは、クルマ、バイク好きの方にとって、欠けがいのないお店づくり。「アップガレージがなくなると困る」と言っていただけるような。そもそも、すべてのカー・バイクユーザーが、うちのお客さまではないと思っています。人よりかっこいいクルマ、バイクに乗りたいとか、スピードを速くしたいとか、車内をさらに居心地良くしたいとか。ごく一部の方々が、僕らのメインターゲットで、そんな方々に支持されるポータルサイトをつくっていこうと。

 海外への展開は、プライオリティとしては3番目でしょうか。実店舗があって、Webがあって、3番目に海外。すでに日本車が多く走っているエリアから多数オファーをいただいているんですよ。アメリカの西海岸、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、マレーシア、タイなど、各エリアからバイヤーさんが直接お見えになるケースもあるし、アップガレージをやらせてくれとか、商品をコンテナで送ってくれとか。ちなみにタイへ行くと、トヨタ車のエンジンがそのまま渡し舟に積んであったり、漁船でカーナビが使われていたりします。間違いなく、日本から商品を持ち込めば、ビジネス的には成立するでしょう。ただ、今はまだいろいろ調査をしている段階です。ただ、1番目の実店舗、2番目のWebを終えてから3番目の海外というわけではなく、当然重なる部分はあるでしょうし、パラレルで動いていくことになると思っています。

 僕は、嘘が嫌いですし、かっこつけるのもいやなので、エコとか環境とかいっさい言ってこなかったんです。周囲からは、リユースビジネスは環境に貢献していると言われますけど。正直、あまりそんな気持ちはなくてですね。単なる移動手段ではなく、クルマやバイクをもっと楽しみたいお客さまのカーライフ、バイクライフ、ある意味、クルマやバイクに人生を投影しちゃうような方々のお手伝いをしたいというか……。そこがやっぱり僕らの基本。ですから、たまたま中古商材を中心として扱っているカー用品店というだけで、リサイクルショップという言い方も一度もしたことがない。そういう位置づけです。エコ、環境問題を前提にしてビジネスをしているという気持ちは、まったくないですね。それよりも、お客さまが必要なものをなんとか安く届けたい。同じ10万円を使っても、新品専門店に行くと買えるものが限定されてしまいますが、「アップガレージに行ったら2倍、3倍のものが手に入って、すごく充実した」っておっしゃっていただけるような。そうやって喜んでいただけるお客さまをひとりでも増やすこと。それがすべてなんです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
始める前に明確な存在理由をしっかり定める。
そしてアクセルとブレーキを使い分けて継続を!

 どんな製品、サービスを提供するのか明確でない人が意外と多いですね。起業したいって僕のところに相談にくる人の中には。ただ何となく「今の環境を変えたい」というような。それはあり得ない。なぜなら、既存のサービスとの違いが明確になって、初めて事業の存在理由が生まれるわけで。そんな存在理由がないまま会社つくっても、意味がないと思うんですよ。だから今ある製品・サービスでは実現できない何かがあって、それがマーケットに受け入れられるかどうか挑戦してみたい。その思いが最初にないと。起業ブームとか、周りが起業するからとか、何歳までに独立みたいな理由にとらわれて起業するのは非常に危険です。やりたい事業の明確化と存在理由。それさえあれば、何歳になっても、どんな環境でも僕はやれると思う。松下幸之助さんじゃないですけど、決断さえすれば条件はそろってくると思いますしね。

 勘違いでもいいから、存在理由がないと。最初は勘違いでもいんですよ。僕も勘違いが突き進む原動力なので(笑)。あとから見たら、えらい思い違いしてたなぁってこともある。ただ、起業は継続が前提です。僕は、アクセルとブレーキの使い分けが必要と思っています。僕の勝手な解釈なんですけど、J・F・ケネディはアクセル。高い志を掲げてぐいぐい進んでいく。ガンジーは、僕の中ではブレーキ。何かを成し遂げるにも、超えていけはいけない一線がある。非暴力主義ですね。デスクにはふたりの写真が置いてあります。「今はアクセルなのかな? ブレーキなのかな?」と、常に自問自答していますね。起業したてとか20代の血気盛んな頃って、ブレーキがないでしょう。常にアクセル全開の勢いも大切なんですけど。まあ、たくさん失敗して恥をかいて、痛い思いをしたほうがいいと思うんですけど。ただ、僕らぐらいの世代になってくると、そんな時間もなくなってくるんで、自分の中でコントロールできるバランス基準が必要なのかなと。あと、どちらかができなければ、いい相棒を見つけることですよね。

 これから有望なビジネスですか? わかんないですね、まったく(笑)。教えてほしいくらいですよ。でもね、昨日、西麻布のけっこう値が張るレストランに伺ったのですが、平日の火曜日なのにすごく混んでいる。その時つくづく思ったのは、不景気で財布のひもをみんな締めていても、繁盛店は必ず存在するということ。ニトリのお値段以上ってやつ。出した価格より、価値があると感じるところをみんな慎重に選ぶから、結果的にいい店に集中する。だからどの業界も等しくチャンスがあって、こういう時代だからこそ、ブラッシュアップしていったら、逆にいうとチャンス。業界とか関係なく、自分のいる場所の中で、ブラッシュアップしたり、差別化が図れる製品やサービスを提供できるという明確な自信があるなら、絶対起業したほうがいい。多くの人が守りに入っている今、逆張りの発想って、大事だと思いますよ。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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