第132回 ジオ・サーチ株式会社 代表取締役社長  冨田 洋

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第132回
ジオ・サーチ株式会社/
代表取締役社長

冨田 洋 Hiroshi Tomita

1953年、兵庫県生まれ。慶應義塾大学工学部卒業後、三井海洋開発入社。同社の米国駐在員時代、電波による構造物の非破壊検査を社内ベンチャーとして提案する。会社の解散に伴う事業譲渡により、1989年1月1日、ジオ・サーチ株式会社を設立。1990年、世界初となる「路面下空洞探査システム」(1993年、ニュービジネス大賞優秀賞受賞)を開発、実用化。1994年、残留地雷除去の新技術を模索していた国連からの要請を受け、新型対人地雷探知装置「マイン・アイ」を開発、実用化。1998年、日本の有力企業を集結させNPO法人「人道目的の地雷除去支援の会(JAHDS=ジャッズ)」を設立。資金・機材提供の後方支援をマネジメントし、2002年より直接支援を開始。タイ・カンボジア国境にまたがる大クメール遺跡周辺での地雷除去プロジェクトに成功し、2006年に現地へ活動を継承した。慶應義塾大学理工学部研究奨励賞、日本文化デザイン賞など、受賞多数。2004年には、NHKの人気番組だった『プロジェクトX』でも活動が紹介された。

ライフスタイル

好きな食べ物

やっぱり、肉系が好きです。
好き嫌いはほとんどありません。中でも好きなのはやっぱり、肉系です。ステーキとかね。お酒は何でも飲みます。少し前まではビールを好んで飲みましたが、最近はやけに暖かいから氷を入れて飲みたくなるんです。だから、今はたくさん氷とレモンを入れたハイボールに凝っています。ハイボールはいろんなウィスキーで試しましたが、なぜか角瓶が一番うまい。不思議な飲み物ですねえ(笑)。

趣味

ゴルフです。
昔は、テニスにヨット、サーフィンといろいろやりましたが、今はゴルフです。私の師匠でもある、セコムの創業者(現在は最高顧問)の飯田亮さんに教わりました。ゴルフはプレー中にたくさんコミュニケーションができるのが良いですね。ちなみに飯田さんとは18ホールを2時間で回ったこともあります。カートでの移動は、まるで暴走族でした(笑)。私のほうがスコア良かった時は、飯田さんは機嫌が悪くて口をきいてくれなくなるんですよ(笑)。

行ってみたい場所

プレア・ヴィヒア寺院です。
2006年に、地雷除去活動を現地の人々へ引き継ぎ卒業して以来、敢えて現地には訪れないようにしているんです。でも、タイ・カンボジア両国の国境にまたがる幻のクメール遺跡「プレア・ヴィヒア寺院」が世界遺産になってからは、経済的な復興が目覚ましいと聞いています。あそこは私の人生にとって、特別の思い入れがある場所ですからね。来年あたり、ふらりと行ってみようと考えています。

お勧めの本

『正しさを貫く』(PHP研究所)
著者 飯田 亮
アンカー
セコムの創業者であり現在は最高顧問の飯田亮さんが書かれた本です。「人はよく妥協を求められる。しかし、100あっても絶対に妥協しない」「会社は公共性の高い存在。一度ぬるさを知ると、どこまでも落ちていく。常に公正さを忘れないこと」「困難という泥水をたくさん飲んでこそ人は成長する」「おもねず、おごらず、卑しくしない」――。などなど、飯田さんの信念から生まれた金言の数々が、私の人生の指針となりました。きっと、皆さんにとっても、人生や仕事で感じる疑問や難問への解答やヒントがぎっしり詰まっているはずです。

見えない危険を探知する独自の技術で、
カンボジア国境の地雷除去にも貢献!

 道路の陥没を防止するため、世界初の「路面下空洞探査システム」を実用化。さらに、対人地雷探知装置「マイン・アイ」を開発し、タイ・カンボジア国境周辺の地雷除去にも貢献。冨田洋氏が代表を務める、インフラ・セキュリティ・サービス企業、ジオ・サーチは、今日も、地中や構造物に生じた見えない危険を探索し、世の中の人々に安全を提供し続けている。社会起業家の一面も併せ持つ冨田氏は、創業以来、常に“世の中に存在する困り事”を見渡しながら、社会に役立てる新たな技術を開発してきた。「誰だって本当は人の役に立ちたい。それも、自分の得意技を通じて。これこそが、生き方と働き方のベストマッチングです。その時ほど、脳が喜ぶことはないんですよ。結局、儲かった・儲からないだけでは本気で脳は喜んでくれないんです」。今回はそんな冨田氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<冨田 洋をつくったルーツ1>
小学生時代の遊び場はいつも海。
野球遊びの一塁ベースも海の中

 父方の祖父は長野県知事を務めた後、近衛内閣の官房長官を務め、母方の祖父は40歳で海運会社を起業し、中堅規模の企業に育てた人でした。そして祖祖父は、世界のマーケットで活躍した美術商で、実業家アルフレッド・バウアー氏と一緒に東洋美術のコレクション「バウアー・コレクション」を創立した人だったそうです。それぞれ道は異なりますが、私のご先祖さまは、ひとつの仕事をとことん極める人たちだったみたいですね。ちなみに父は文学青年で、学徒動員後は松竹に勤め、歌舞伎の演出を手がけていました。幼い時には楽屋に連れていってもらい、お化粧の白さと香りに驚いた思い出があります。そして私が中学まで過ごしたのは、目の前に海が広がる神戸市垂水区の漁師町で、遊び場といえばもっぱら海。学校が終わるとみんなで集まって野球をやるんですが、一塁ベースが海の中にあったりしました(笑)。仕事を終えた漁師が帰ってくると、磯上げを手伝ったお駄賃にわかめをもらって食べていたから、みんな歯がピカピカでしたよ。

 あとは引き潮の日の夕方に堤防に行って、つかまえた魚を母に天ぷらにしてもらってよく食べました。本当に海を満喫した少年時代でしたね。仲間はみんな50mくらい息継ぎなしでも平気なくらい泳ぎが得意でしたから、小学校の水泳大会では僕らの独壇場でした。私も含めて全学年で近所の仲間がいつも優勝していましたよ。父は仕事柄、夜は遅いし、土日も仕事することが多かったんです。なので、父よりも海運会社を興した祖父とよく過ごしていました。祖父の晩酌の相手をしながら、話を聞くこともこの頃の楽しみのひとつでしたね。「人間は貧しい時でも卑しいことをしてはダメだ。常に誇りをもって生きよ」など、子ども心にもずしんと響くような言葉をたくさんもらいました。あと、「おまえは性格的にクセがあるから、普通の会社に勤めるのは難しいだろうな。海外のほうが向いているぞ」、とも言われていましたね(笑)。

 父の仕事の関係で、中学3年の時に東京に引っ越すことになりました。最初は世田谷暮らしでしたが、少ししてから父方の祖父が住む平塚に移りました。何だか海から離れられないんですよね。高校は慶應高校で、所属したのは空手部です。ここはものすごいスパルタの部活でして、毎日腕立て伏せ500回に、腹筋1000回は当たり前。今であれば大問題になるような、あり得ないしごきで、先輩たちから虫けらのように扱われていました。でも、理不尽に耐える精神と頑強な体をつくってくれたのは、間違いなく空手部での日々でしょうねえ。大学進学を控え、病気がちな父のために医学部に進学したいと先生に相談したら、1年留年すれば行けると言われたのですが、それは少々アンフェアだなと思いまして。それで、家電が壊れるとお手上げだった機械音痴の父を母が嘆いたこともあり、工学部へ進むことにしたんですよ。

<冨田 洋をつくったルーツ2>
祖父から手渡された船員手帳が、
新しいワクワク・ドキドキを演出

 高校から大学までエスカレーター式で、周囲の仲間も変わらない。何だか敷かれたレールに乗っかっていることに嫌悪感を抱くようになりましてね。大学に顔を出すのは、興味のある授業と実験だけ。雨の日は雀荘や映画館に行って晴れた日は湘南の海へ、といった生活を送っていました。そんな私を見かねたのか、19歳の時に祖父から突然、「船員手帳」を渡されたんですよ。「洋、海外に行ってもっと視野を広げてこい」と言われました。それで、祖父の会社のオンボロ貨物船に乗り込んで、甲板清掃をしたりペンキ塗りをしたりと下働きをしながら、東南アジアやオーストラリア航路を何度か往復しました。下っ端ではありましたけど、船長から指示された航路のチェックや測量など、何でもやりました。若く多感な年代に異国を渡り歩いた日々は、私にとって本当に得難い経験となりました。

 外国の港から港へ貨物船は移動していきます。たとえば、ある港に着きますよね。そこで降ろしてもらうと、次の貨物船の移動ポイントまで2週間ほど、今度は陸路を旅するのです。船長からは「期日にその港に着いてなければ置き去りにするぞ」なんて怖いこと言われて(笑)。いやはや、初めて訪れる街で英語も下手くそ。ゴールだけはわかるけど、明日のことは全くわからない。最初はとても不安でしたけど、ある意味、冒険です。しだいに「俺は今、生きてるなあ」と、ものすごくドキドキ、ワクワクする日々でね。いろんな人に会って、必死でコミュニケーションしました。そんな旅を続けていると「うちに泊りなよ」なんて声をかけてもらって、自宅に泊めてもらったことも何度もあります。オーストラリアのスキー場でコーチのアルバイトをした時は、飯と宿は無料にしてもらいました。異国の地で初めて出会った人たちが、ありのままの私を受け容れてくれたことが何よりも嬉しかったです。

 日本に戻ると大学3年目で、いよいよ就職を考える時期になっていました。当時は不況でしたけど、私にはどうしても行きたい会社がありました。それは、子どもの頃からずっと大好きだったテレビ番組、「兼高かおるの世界の旅」のスポンサー企業に名前を連ねていた「三井海洋開発」です。単純に、海に縁がありそうだし、海外で仕事ができそうだというのが希望動機だったんですけどね(笑)。ただ、石油開発のプラントエンジニアリング会社である同社には、本来、私が学んでいた応用化学専攻の学生枠はありませんでした。それでも何とかして入社したくて、あらゆる伝手をたどってチャンスを探し、人事部にも3カ月くらい通って交渉を続けました。そんな熱意が通じたのか、人事の担当者が「応用化学の枠だけは用意した。しかし、試験をパスすることが条件だ」と、ついに入社のチャンスを貰う事ができました。それからは必死で勉強して、何とか就職が叶いました。自分で面白いと信じたことには、いつもに増して知恵が回るし、実現するまであきらめない。これが昔から私の性分です。

<会社員時代>
オイルショックの不況時にアメリカで、
未来に育つビジネスの芽を探し出す

 晴れて入社した三井海洋開発は、思ったとおり、とても面白い会社でした。ただ、最初に与えられた製図の仕事が苦手でしてね。早く現場へ行かせてほしいと上司に言い続けていたんです。すると、現場のエンジニアリング部門へ異動になり、石油を掘削する掘削リグという機械を製造委託している、九州や四国の造船所を回る生活が始まりました。まだ24歳の若造でしたが、掘削リグの製造工程から海上で機器をプラントにセットアップする方法まで、重要な仕事を任せてもらいました。その後の数年間は、セットアップ・オペレーションをマネジメントするために、中東を中心に16カ国ほどを渡り歩きました。1つのプラントで最大3カ月ほどの仕事でしたが、さまざまな国々の人と交流し、異文化に触れる経験はものすごく刺激的だった。時には、海が荒れてリグが届かないこともある。エジプトにリグが届かなかった時は、1カ月ほどカイロ美術館に通い詰めました(笑)。

 中でも重要な仕事は、海底油田の掘削リグを現場でテストすること。アメリカ製の部品を多用していたのですが、今ほど品質管理が徹底していない時代ですから、何かと故障などのトラブルが多発していました。当然ながら、アメリカのメーカーはできるだけ補償や賠償をしたくないので、なかなか非を認めない。そこで私は、トラブル状況を克明に記録し傍証もしっかり固めて、クレームのネゴシエーションのためアメリカへ乗り込んで、メーカー側のお歴々を前にして必死で喧々諤々やりました。その結果、私たちの主張がとおり、ほぼ満額の賠償を引き出すことに成功したんです。そこからが面白いのですが、翌年、三井海洋開発のアメリカ支社の駐在員交代の時期になったのですが、そうしたら意外なことに、くだんのアメリカのメーカーが「トミタを次の駐在員としてよこせ」と言ってきたそうです。あれだけ激しくやりあったのに指名されるとは思っていなかったので、アメリカのビジネスマンのフェア精神に感銘しました。そんな経緯でアメリカに赴任したのが入社6年目、私は28歳になっていました。

 アメリカに駐在し始めたのは1979年。第二次オイルショックの不況真っただ中で、朝、本社への定時連絡を入れた後はもうやることがないんですよ。現場に戻してほしいと上司に訴えたのですが、「せっかくの機会だから、アメリカで視野を広げろ」と言われました。それで、何とか少しでも会社の利益に貢献できるよう、秘書と一緒に新規事業構築のためのリサーチを始めたんです。取り組んだことは、構造的な不況のアメリカでどんな企業が生き残っているのか、新聞や雑誌などから情報をピックアップして徹底して調べることです。1年ほどかけて1300社は調べて、これはと思えるものは資料を取り寄せたり、直接インタビューに出かけたりしてわかってきたのは、石油関連事業は巨額の先行投資が必要で、不況時は新設するより既存設備の寿命を長くしてコスト削減を実施していました。その分野の中でメンテナンス(維持)、リペア(補修)、インスペクション(検査)という“MRI”の分野が伸びているということでした。そんな中、「これは!」という可能性を感じたのが、構造物や設備の非破壊検査サービス事業だったのです。

<起業>
三井海洋開発が債務超過により解散……。
社内ベンチャーの事業譲渡を受け起業する

 目指したい検査サービス事業分野で、誰もが実現していない新技術をもとに進化させれば、この分野のパイオニアになれそうだとひらめきました。そこで新技術のリサーチを開始。当時の独身仲間だったNASAのエンジニアから紹介を受け、ジョージア工科大が軍用目的で開発した地中を電波で探査するテクノロジーをベンチャー起業家と事業化を進めていた会社にアプローチ。そうしたら、その会社のCEOが私のことを気にいってくれて、お互いの趣味がヨットということもあって、すぐに意気投合したんです。ここでも、やっぱり海が私を助けてくれたと感じました(笑)。そこからは、電波で地中を探査する事業という事で、電磁気学を猛烈に勉強しました。元々この分野は苦手でしたが、必死に勉強しましたね。ちなみに、ファラデーの法則なんかはいまだに苦手です(笑)。そして、事業化のために日本のマーケットもしっかり調べて、最終的には技術供与と日本での事業許可の契約を取り付けました。

 そうして、本社に提案した新規事業の企画は承認され、社内ベンチャーとして事業化することが決定しました。言いだしっぺがリーダーということで、帰国の辞令が届き、29歳の後半から国内でのフィージビリティをスタートさせました。そして2年後には、東京電力の水力発電所でダムから水を通す導水路の「導水路トンネル診断システム」を実用化。導水路トンネルはコンクリート製なのですが、背面に空洞が生じると、崩壊などの大事故につながる危険性が高まります。そこで、センサーを搭載した台車をトラクターで牽引しながら、トンネル内から背面の空洞の有無とコンクリートの厚さを非破壊で探査するわけです。湿気だらけの狭い空間での検査なので、検査装置の小型化、防水化にも苦慮しました。でも、東京電力や官公庁などの発注を多く受け、この新規事業は順調に推移。年間売上高4億円ほどを稼ぐまでに成長しました。しかし、この事業の継続を阻む大きな問題が生じました。

 当時の三井海洋開発がついに債務超過に陥り、解散することが決定しました。解散期日は1988年12月末、昭和最後の年です。でも、トンネル調査の仕事の契約は、年度末の3月まで残っています。途中で無責任に放り出すことは絶対にできません。三井のグループ会社に事業を吸収するという話も出ましたが、何とか自分でこの事業を引き継ぐことはできないか考えました。すると、ある先輩が「俺の尊敬する人を紹介してやる」と動いてくれて、佐々木硝子の会長・佐々木秀一さんと出会いました。佐々木さんは「会社経営はいばらの道だが、死ぬ気で継続させる覚悟があるか?」「その仕事は本当に人の役に立つものか?」の2点だけを私に確かめ、資本金の半分の出資と、銀行の個人保証1億円を快諾してくれました。そうして、三井海洋開発からの技術および営業権譲渡に要した資金は、佐々木さんの援助と私の退職金で賄いました。こうした経緯を経て1989年1月1日、ジオ・サーチが誕生するのです。

●次週、「地中に潜む見えない危険を探索し、大きな国際貢献を実現!」の後編へ続く→

世の中に役立つ技術を追究し、
公共空間の安全を守り続ける

<メンターとの出会い>
経営者としての未熟さに気付いてから、
ジオ・サーチの方向性が固まっていく

  35歳で、初めて会社の経営者となり、私の起業家人生の幕が開けました。当初はまだ「導水路トンネル診断システム」の仕事があったのですが、トンネルの数には限りがあるし、一度探査すればその需要は消えてしまいます。事業が先細りして危機感を募らせていた頃のこと、当時、銀座で道路が陥没する事故が頻発していて、建設省が空洞探査技術の緊急開発計画を検討していました。時速30㎞で走りながら空洞発見の的中率80%以上で探査する仕様は難問でしたが、社運を賭け1年がかりの開発に取り組み、1990年10月、世界初の自走式路面下空洞探査車による「路面下空洞探査システム」の実用化に成功しました。できたてほやほやのシステムでしたが、同年11月、「即位の礼」の2日前にパレードコースを試運転し空洞個所を発見! ジオ・サーチが注目される大きなきっかけとなりました。

 新たなビジネスチャンスを得て、私は事業経営に傾注していきました。ただ、当時は損益ばかりに目がいき、人材育成やチームワークの醸成をないがしろにしていたようです。創業メンバーが次々に会社を退職して、初めて経営者としての未熟さに気付きました……。「ニュービジネス大賞優秀賞」を受賞したのはちょうどその頃です。この受賞が縁で、京セラの稲盛和夫会長の知己を得て、「盛和塾」に入塾しました。稲盛さんからは、会社は社会の役に立つために存在し、社員を幸せにするためにあるという真理を学びました。そのためには私心を排除し、大義を立ててそれを追究するしかない。こうした考えを基盤に、ジオ・サーチの企業理念を定めたのが1994年です。さらに、穴ぼこ探しだけではなく、もっと幅広い社会貢献を可能とする「インフラ・セキュリティ・サービス」事業の具体的なプランニングに迷っていた時、ある経営者に手紙を書いてお送りしました。それが、全くのゼロから新たな大市場を創出したセキュリティ・サービス業界の雄、セコムの創業者・最高顧問である飯田亮さんです。

  飯田さんの著書を読むと、私の悩みに対する解答やヒントが詰まっていました。それで、どうしても飯田さんにお会いしたくて、思いをしたためた手紙をお送りしたんです。そうしたら、発送してから11日目に、秘書の方を通じて飯田さんからの面会許可の報せが届きました。初めてお会いした飯田さんは、「俺は忙しいんだよ」と言いながらも、熱心に私の考えていた事業の企画書を見せながらジオ・サーチのお話をすると、真剣に耳を傾けてくれ、最後には「おまえ、面白いな。ちょくちょく会いに来ていいぞ」との言葉を頂きました(笑)。それ以来、弊社の社外役員にもなっていただき、今も天才的な伯父とできの悪い甥っ子のような関係が続いています。ゴルフを教わり始めた頃は、朝の6時にいきなり電話が鳴って、「8時に○△ゴルフ場で待ってるぞ」ですから。もちろん、大量のボールを持って馳せ参じましたよ(笑)。計算して人脈をつくっているつもりはないのですが、幸運にも私は必要な折々に、素晴らしい方々に巡り合えているんですね。

<地雷を除去せよ!>
地雷除去はあくまで手段に過ぎない。
現地の経済を復興させることが一番重要

  1992年に、「路面下空洞探査システム」の論文を海外に発信していたんです。すると、国連の初代地雷除去責任者である、ブラグデン将軍が当社に興味を持ち、突然同年の11月に彼の訪問を受け、プラスチック製対人地雷の探査ができないかという相談を受けました。簡易なテストを行うと、改良の必要はありましたが、地中のプラスチック地雷を検知できることが判明しました。その時は、うちの技術が平和活動のお役に立てれば程度の思いでしたが、1994年にスウェーデンで開催された国連支援の「地雷除去専門者会議」に招かれてから、俄然やる気になりました。ここで、初めてオモチャ型地雷の存在を知ったのですが、これは鮮やかな色や形で目を引かせ、拾った子どもの殺傷を狙った地雷です。悪魔の兵器ですよ……。これに強い憤りを感じて、帰国後すぐに地雷探知機のコンセプトを寝ても覚めてもずっと考え抜きました。そして、電波を利用して地中の埋設物の深さと形状がビジュアルに表示できれば、地雷除去員の安全性が高まり効率化できるのではと思いついた。このコンセプトは1995年ジュネーブで国連が主催した地雷・不発弾除去会議に外務省の要請で5カ国代表の一人として発表し、高く評価されました。

 それから、本格的にそのコンセプトを証明するための開発に取り組みました。1997年「マイン・アイ」と名付けた試作機を持ってカンボジア入りし、現地テストにて、埋設されている対人地雷の可視化になんとか成功します。一方、訪れたカンボジアではすさまじい現状を体感しました。電気、水道、道路、病院などのインフラがなく、多くの地雷が残留しているタイ・カンボジアの国境付近では、ほとんどの住民が極貧に喘いでいました。その様を目の当たりにして、私は考えました。地雷に汚染された地域だから、土地が使えない、経済活動ができない。これは環境問題でもある。地雷除去はあくまで手段に過ぎず、現地の経済を復興させることが一番重要なのではないか、と。そして、地雷除去には、機材の輸送、通信、医療を含めたトータルな支援が必要なこともわかりました。そこで、飯田亮さんはじめ多くの有力者の協力を仰ぎながら、1998年3月、NPO法人「人道目的の地雷除去支援の会(JAHDS=ジャッズ)」を発足。トヨタやホンダ、ソニーなど、最終的には250社ほどの錚々たる企業にも参加いただき、資金だけではなく、人材や技術を含め、各企業の得意分野を惜しみなく提供いただきました。

 2001年からは、タイ王国の農民を育成して50名の地雷除去チームを結成しています。そんな私たちの活動と現地の人々の熱意が通じたのでしょうか、タイ・カンボジア両政府が互いにいがみ合うのはやめ、両国の国境にまたがる幻の大クメール遺跡「プレア・ヴィヒア寺院」周辺を共同復興させ、世界遺産登録を目指そうという歴史的合意が2004年に実現したんですよ。しかしそんな頃、私は現地での過酷な活動で体を壊して、一時は歩行困難な状態にまで陥っていました……。でも、世界遺産でもある高野山で、私たちの活動を支援するコンサートが開催されることになり、痛みをこらえながらも参加しました。そのコンサートの翌朝に訪れた高野山の、「奥の院」にある山道2㎞の両側に、20万を超える墓標が静かに眠っている光景を目にしました。中には互いに戦い、憎しみ合った人も同じ場所に祭られています。私はこの事実に大きな感銘を受けたんです。そして、「プレア・ヴィヒア寺院」周辺に亡くなった方々の鎮魂の意を込めて、また現地の人も含めた一般の方々にもわかりやすいプロジェクトの総称として、「ピース・ロード」という名前を付けることを決めました。

<未来へ~ジオ・サーチが目指すもの>
危険を事前に察知する技術を進化させ、
さまざまなインフラの長寿命化に貢献し続ける

  結果、「プレア・ヴィヒア寺院」周辺の甲子園球場17個分の地域に残留していた地雷と不発弾を2年がかりで除去し、2006年11月27日、関係者700名が参集する中、完工式と現地への活動引き継ぎ式を行いました。その時をもって、足かけ15年間にわたる地雷除去支援活動から無事に卒業させていただきました。また、当地にはすでに30万人以上の観光客が訪れるなど復興が加速し、現地から感謝と尊敬を受けることができました。2008年7月7日の七夕の日、さらに嬉しい報せが届きました。カナダ・ケベックのユネスコ会議にて、除去地「プレア・ヴィヒア寺院」が世界遺産として登録されたのです。世界遺産に登録されれば、いずれの国にも属すことなく、その保管と保全は世界の人々の手にゆだねられます。しかし、タイのタクシン元首相の追放に端を発した、タイ・カンボジア間の新たな国際紛争により、「プレア・ヴィヒア寺院」も紛争に巻き込まれてしまいました……。

 この問題は、今年1月に国連安保理の議題となり、また、ASEAN、ユネスコも解決に動き出しています。私たちが託した「ピース・ロード」への思いが両国に伝わることを、私を含め関係者一同、心から祈っているところです。一方、当社の総力を集結して開発した地雷探知システム「マイン・アイ」も進化を遂げています。近年、地中の埋設物や埋設管が設計図と異なる場合が多く、掘削工事中の切断・破損などの事故が多発しています。そこで、「マイン・アイ」の技術を応用進化させ、埋設管を三次元で可視化できるシステムを2008年に実現し、皆さまに活用いただいています。さらに2011年11月には、時速60㎞ものスピードで走りながら、橋の床板などコンクリート構造物内部の劣化や損傷カ所を精密に“透ける化”できる技術を発明して、「スケルカ」と名付けました。この走るCTスキャン「スケルカ」はすでに稼働しており、橋梁を中心としたさまざまなインフラの長寿命化に貢献しています。

 そして今年3月11日、東日本大震災が発生しました。震度5を超える地震が起こると、道路下などの地中に空洞が生まれやすいことがわかっています。実際に、私たちジオ・サーチは、阪神淡路大震災以降、鳥取西部地震、新潟中越地震、福岡県西方沖地震など、大型地震が起こるたびに、港湾などから続く緊急輸送路確保のための空洞探索活動を続けてきました。今回は、地震の2日後から復興支援プロジェクトチームを立ち上げ、液状化や沈下した各地へ休みなく緊急出動し、輸送路や各種施設の安全確保の支援調査を続けています。特に厄介な現象は、地震により下水管周辺の砂が締め固まって、舗装直下に空洞が多発すること。復興のための輸送車両がそこを通過すると陥没を誘引し、風呂、トイレなど生活用水に必須の下水管を破損することにもなります。それを未然に防止するためにも、当社の得意技が大いに役立ちます。今後、復興が本格化してくる段階で、東北地区へオペレーションセンターを設けて、現地の方々にも参加してもらい、腰を据えて当社の得意技で復興支援を続けていこうと考えています。未曾有の国難の時に、得意技でお役に立てる機会を与えられたという使命感を持って全力を挙げて取り組むつもりです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
人に役立ちたいというのが人間の本能。
自分の得意技で何ができるか考えよう

 先ほども申し上げた、人間の本能と仕事が完全に一致する喜びは、なかなか得ることができないものだと思います。たとえばですが、ラーメン屋さんであれば、美味しいものを食べてもらうことで、お客に喜んでもらえます。ただ、私たちのように人命に直接関係する調査サービスを提供し、その結果、事故の防止に役立てるやりがいは、とてつもなく大きいです。それと、私たちはプロですから、絶対に危険を見逃してはいけない。その重い責任感と結果が、密接に交わる仕事をできている自分は本当に幸せだと思います。

 前々から地震のたびに私たちは出動していますが、今回の東日本大震災はこれまで以上に自分たちの出番が来たと覚悟しています。想定外の事態とはいえ、陥没事故が生じないように事前に危険箇所を発見し、予防するしかない。もっともっと、私たちが世の中のお役に立てることが増えていくと思っているんです。それから、“頑張れ”ニッポンという他人事ではなく、“頑張ろう”ニッポンで、全員がこの困難に立ち向かっていかないといけないと思います。日本人全員で一致団結して頑張っていかないと。誰が悪いとか足を引っ張っている場合じゃないんです。被災地の惨状ばかりが報道されていますが、実際、道路や堤防などの復旧はどんどん進んでいます。悲観的なことばかりに目を向けずに、今日よりも明日を少しでも良くしようと全員が立ち上がれば、いっきに復興も進むはずです。日本人の力はすごいんだ、ということを一人一人が信じ、今こそ行動すべき時だと思います。

 誰だって本当は人の役に立ちたい。それも、自分の得意技を通じて。これこそが、生き方と働き方のベストマッチングです。その時ほど、脳が喜ぶことはないんですよ。結局、儲かった・儲からないだけでは、脳は喜んでくれないんです。「あなたのおかげ」とか、「そこまでしてくれたから」と人から言われた時、自分の働き方に大きな誇りを持つことができるでしょう。そして、夢をかなえるための根底には、ワクワク・ドキドキするような、できるだけ大きな目標が必要です。また、目標達成までには、人の役に立ちたいという本能のように変わらない不易と時代と共に変化する流行のふたつがついて回ります。だからこそ、目指す目標は自分への見返りではなく、社会へのインパクト、効果が大きなもの、誰もやったことのないことへの挑戦やロマンを選ぶこと。そのうえで、不条理や不公正に出遭っても、それに負けない得意技とあきらめない心を社会人の一人一人が持つことで、必ず素晴らしい世の中が生まれると思います。ぜひ、人の役に立ちたいという人間の本能を大切にして、それに応えられるあなたの得意技を探してみてください。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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