第152回 株式会社ピーカチ 代表取締役 CEO 船橋 憲敏

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第152回 

株式会社ピーカチ

代表取締役 CEO

船橋 憲敏 Noritoshi Funahashi

1974年、広島県生まれ。高校3年で任されたコンビニエンスストアの店長で、経営の面白さに開眼。広島県立広島観音高校卒業後、電気の専門学校へ進学。1994年、親戚が経営する電気工事店(株式会社金本電業社)に入社し、電気工事の職人となる。1997年、人生の恩師からの勧めを受け、スーパー銭湯「湯楽里」の経営者に(株式会社アクア)。率先垂範、職住接近を徹底し、大繁盛店に仕立て上げた。2002年、とあるITベンチャーの経営者と出会い、携帯販促サービスの開発に参加。同年、現副社長の西林厳史との邂逅を果たす。)2002年より、最強の相棒・西林と共同で、P+KACHIシステムの開発・営業をスタート。2006年、株式会社ピーカチを起業。自身が代表取締役に、西林が取締役副社長に就任した。2012年8月末現在、東京、大阪、広島、福岡の4拠点にオフィスを構え、P+KACHIシステムの導入社数750社、導入店舗数1500店、利用ユーザー数240万人強へと成長。最短での株式上場を目指し、携帯販促マーケットを拡大し続けている。

ライフスタイル

好きな食べ物
赤いウィンナー。

昔から、好きなんですよ。昔、大阪で定食屋に入ったら、メニューにウィンナー定食があって、それが赤い魚肉のウィンナーだったんですよ。感動しました(笑)。この間、久しぶりにその店に行って、ウィンナー定食を注文したら、シャウエッセンみたいなソーセージに変わってて、がっかりしました(笑)。

趣味
飲みに行くことです。

仕事仲間や友人と、飲みにいくことです。ただし、僕の一番の趣味はやっぱり仕事でしょう。明日以降、僕がつくっていく歴史のなかに登場する人物となら、と限定しています。酔っぱらったり、単に盛り上がっただけの飲み会は時間の無駄。ドライと思われるかもしれませんが、それが僕のルールです。

行ってみたい場所
海外のどこか。

今すぐというわけじゃないですが、仕事をリタイヤした後は、3年に1度くらいのペースで、移り住みながら、いろんな国で生活をしてみたい。僕はこれまでの人生で、1日たりとも、後悔した日はないですが、ただ一つ、留学できなかったことだけが心残りなんですよ。

広島発! 店舗向けケータイ販促のパイオニア。
全国1億3000人をターゲットに頂点を目指す!

独自で開発したケータイ販促サービスP+KACHIシステムを進化させながら、クライアントとユーザーの笑顔を想像し続ける――。株式会社ピーカチの代表を務める船橋憲敏氏は、最強の相棒であり副社長の西林厳史氏とともに、ピーカチを歴史に名を残す商品として育てたいと本気で考えている。2002年、二人は出会い、2006年、株式会社ピーカチの歴史は本格的に幕を開けた。あれから10年経った2012年現在、ピーカチはどのような進化を遂げたのか――。「今、導入社数は750社、導入店舗数が1500店、利用ユーザー数は250万人を超えました。僕たちにやれること、求められていること、お客さまの声にしっかりと応えながら、これからも、ピーカチの名前を歴史に残すため、事業の進化を継続させるだけです」。今回はそんな船橋氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<船橋憲敏をつくったルーツ1>
広島に生まれ、両親の愛あふれる家庭で育つ。
中学からは不良の道と、バンド活動に突入

 僕は、ひとりっこなんです。「そんなふうには見えない!」とよく言われますが(笑)。建設会社に勤める厳格な父と、自宅でお好み焼屋を開いてしまうような明るい母、そんなふたりの両親を持ち、広島県で育ちました。小さな頃からずっと、やんちゃなガキ大将ですね。中学に上がってタバコは当然、バイクも乗り回すようになり、高校では金髪のアフロヘア。そんな私でしたが、両親は買い物でも、食事でも、外出する時はいつも一緒に出かけてくれました。今思っても、家族に愛されていたんだなあと。ちなみに、憲敏という名前は、おじいちゃんが付けてくれたもの。僕が1歳になる前に亡くなってしまったのですが、おじいちゃんから両親への遺言は、「憲敏は周りを幸せにする人間になる。だから、おまえたちはこの子を大事に育ててくれ」だったそうです。

 小学校4年まで成績は、体育の「良い」以外はだいたい「普通」。それががらりと変わるのは、5年の担任の先生のおかげです。「あなたは知能指数が高いのだから」など、上手にほめてくれた。それから勉強が楽しくなって、すぐに全教科が「良い」に変った――。知能指数云々は置いておいて、自分で言うのも何ですが、要領もよかったし、テストの一夜漬けもかなり得意でしたから。何にせよ、あの担任の先生は僕に素敵な魔法をかけてくれた、素晴らしい先生でした。そのまま学区内の公立中学に行くつもりだった6年の時、クラスの一人が私立を受験すると聞いて、僕もなぜだか行きたくなった。夏休みから勉強を始めて、広島のトップ2校を受けたのですが、これはさすがに不合格。で、中学からは不良の道へ(笑)。

 進んだ公立中学は、けっこう風紀が乱れた学校で、自分自身、当時は「ワルいのがかっこいい」と思い込んでましたから、すぐに馴染みました(笑)。自由な時間がほしかったので、部活には入らず、放課後はだいたい学校近くのハンバーガーショップで、友だちとタバコふかしながら、つるんでた。他校とのケンカもよくやりましたね。ただ、生活指導の先生が鬼のように恐ろしい人で、一度捕まったら「そこまでやるか」というくらいボコボコにされる。だから、ワルもそこそこ、見つからない程度のすれすれで(笑)。そして、中3からはまったのが、ギターです。BOØWYが大好きで、ギターの布袋寅泰さんのプレイに引き込まれました。当時は仲間と集まって、遊び程度の練習でしたが、高校に入ってからバンド活動は本格化し始めます。

<船橋憲敏をつくったルーツ2>
バンドリーダーとして、本気でプロを目指す。
夢破れた後に差しだされたカードは、コンビニ店長

 高校は、当時「市内六校」と言われていた、県立広島観音高校へ進学。実は、遊びながらも中学時代、塾にだけは通ってたんです。ただ、先ほども話しましたが、高校生活は、金髪のアフロヘアです(笑)。毎朝、中学からの連れと、喫茶店でモーニングか、スロットで運だめしして、学校へはほとんど足を向けませんでしたね。あとは、月、水、金曜のバンドの練習に明け暮れました。担任の先生がすごくいい人だったんです。「おまえは、やればできる奴だ。周りに迷惑をかけなければ、大目に見てやる」と。そこまで目立っていたのは、校内で自分一人だけでしたから。僕がリーダーを務めていたバンドは、自分で言うのも何ですが、オリジナルの曲、プレイスタイルもけっこうイケていて、200人ほどのファンもついていました。この頃は、本気でプロを目指していたんですよ。

 定期的に月に一度は、地元でワンマンライブもやってました。ライブハウスでスポットライトを浴びて演奏すると、ファンの子たちが、僕らの歌を口ずさんでくれる。それがすごく、気持ちよかった。フィードバックというバンドを組んでからは、コンテストにも出始めて、何度か全国大会にも駒を進めました。全国に行くと、やはりすごいやつがいます。県内の高校レベルなら、一番になれる。しかし、これからプロも含め、全国レベルのバンドと競って、一番になれるのか? ある程度はいける、が、突き抜けるパンチに欠ける……。バンド活動はすごく楽しかったし、リーダーとして仲間を仕切り、ビジョンを示す役割にもやりがいを感じていました。でも、僕が出した結論は、「負けレースは続けられない。ここで解散」でした。その後は、みんな別々の道に進みましたが、松ヶ下宏之(Bluem of Youth)という天才が、今も音楽の第一線で活躍しています。

 中学時代の同級生の父親が、広島で手広くビジネスをやっていましてね。辻さんという人生の恩師となる方なのですが、「新しくコンビニをやることになったので、経営の勉強をしてみないか」と声をかけてくれたんです。僕が学校にも行かず、ふらふらしていることを伝え聞いたらしい(笑)。「経営の勉強」という言葉に、感銘を受けた僕は、その申し出を快諾。それから高校3年生の僕は、24時間営業のコンビニで店長を任され、働き始めました。夕方6時から0時頃まで店に立ち、深夜に発注業務をこなし、その後、学校へ行くのですが、1時間目から6時間目までずっと睡眠を確保する時間(笑)。ただ、頑張れば頑張るほど、売り上げが上がる。昨日の努力の結果が今日わかる。僕が経営の面白さに開眼したのは18歳でした。

<コンビニからの脱出>
「電気工事職人を得て、スーパー銭湯の経営者に。
率先垂範でスタッフを束ね、大人気施設に導く

 ただ、お盆休みも、正月休みもなし。土日もほとんど休めません。お金は貯まるけどなかなか遊びに行けないわけです。友だちが彼女を連れて弁当を買いに来た時は、いつもむかっ腹を立ててました(笑)。24時間営業の店をマネジメントする、この生活をいつまで続けるのか……。そんな不安を感じていた僕は、ひとつ逃げの手を打ちました。親戚の電気工事店に跡取りがおらず、僕に「どうだ?」と勧めてくれていたのです。そこで高校卒業後は、電気の専門学校へ進学することに。専門学校へ通いながらも、コンビニの仕事は続けました。途中、今度は7時から23時営業の2号店を出すことになり、そちらも見るようになったのですが、これがなかなか大変で。僕の勤務態度もよろしくなく、売り上げもいまひとつ。すると恩師は、契約期間の途中で、その店を本部に売却するのです。損失を出しても撤退すべき時がある。当時の僕には考えられない経営決断でした。

 結局、専門学校を修了した僕は、親戚の電気工事店で職人として働くことになりました。最初に就いた親方は、昼から日本酒を食らう、深酒した翌日は出てこないという、ある意味すごい人。彼のせいで、何でも自分でやるしかなく、おかげで半年後には棟梁になってました。ここで学んだのは、“段取り八分、仕事二分”という事前準備の大切さ。あとは、気配り一つで周りのスタッフの動きががらりと変わるということ。また、電気だけではなく、材料さえあれば簡単な家を建てられるくらいの技術も習得できました。手先を動かすことが好きな僕には、楽しい仕事でしたが、コンビニで経験した頑張った分だけ売り上げが上がるような仕事ではありません。3年が過ぎた頃、デベロッパーの仕事に興味を覚え、自分を試してみることにしました。3カ月後の宅建試験に合格したら、職人をやめようと。

 結果、必死の勉強の成果が実り、何と一発で合格。コンビニをやめて3年経ったこともあり、コンビニ時代に世話になった恩師に、今後の自分の進路を報告に行くことにしたんです。すると恩師は、「スーパー銭湯を始めることにした。5億円を投資するビジネス、この貴重すぎるチャンスをおまえにあげよう。月1回の報告以外は、すべて自由にやっていい」と言うわけです。デベロッパーへの道は、僕の頭の中からあっさり消えました。当時の広島には、まだスーパー銭湯なんてありません。癒しブームにも乗っかって、スーパー銭湯「湯楽里」には、オープンから大勢のお客さまが詰めかけました。経営者としてまず徹底したことは、最適な人員配置と、館内を清潔に保ち続けること。率先垂範で掃除する姿を見せ続けましたね。確実に、全スタッフの中で、掃除がうまかったのは僕です。何事も経営者が人を動かすためには、スタッフよりも、その実力が上でなくてはならないのです。

<経営を最も学んだ時期>
仕事は次の日に持ち越ししない。
経営をしていく上でとても大切なこと

 今もそうですが、職住接近がモットーです。当時は、施設の1階に寝床を確保して、24時間、いつでも出張れる状態で生活していました。仮眠していても、隣のボイラー室の音で、トラブルの予兆がわかるくらいでしたよ。2年間は、ほとんど睡眠時間がなかったように思います。3年目からは少し余裕ができて、休日を使って、全国のスーパー銭湯巡りを開始。300軒は回ったんじゃないでしょうか。もうひとつ、銭湯の近くの人気の飲食店にも顔を出しました。当時、スーパー銭湯は、まだ始まったばかりの業態で、別市場の集客戦略を真似れば、ほぼ成功していたんです。単純ですが、ポイントカードをつくる、イベントを開催する、アイドルタイムに特典をつける、などなど。この時、「自分は模倣が得意」ということを再発見しましたよ(笑)。

 ほかにも、ホームページを立ち上げたり、メルマガを発行してみたり、できることは何でもやりました。結果、年間で50万人ものお客さまが入る、大繁盛のスーパー銭湯に。集客に成功したら、今度は客単価アップへの挑戦です。最初は、簡単な飲食スペースを設置していましたが、ここを何とかしたかった。そこで参考にしたのは、定食チェーンの「大戸屋」さん。知り合いの日本料理職人をスカウトし、見よう見まねで、定食づくりを依頼。これが、僕の予想を超える大当たりで、月300万円だった飲食売り上げが、何と800万円に。身の丈であれば、給料をいくら取っても問題なかったですし、何でも自由に決裁でき、挑戦もできた。スーパー銭湯は僕にとって、経営を学ぶための最高のステージでしたね。

 こんなこともありました。ある時、浴室入り口のドアの故障を発見。でも、その時は不眠不休続きで、「明日、直そう」と思って、寝てしまったんですよ。すると、恩師から連絡があり、「当日に直しておけば、翌日のお客さま1000人は、嫌な思いをしなくて済んだ。なぜすぐに直さなかった?」と。きっと、恩師の知り合いが来湯し、そのことを伝えたのでしょう。確かに、大きなチャンスロスです。仕事は次の日に持ち越ししない。経営をしていく上でとても大切なことだと思い知らされました。その後、隣の敷地に家族風呂をつくることで、売り上げを拡大する提案を、恩師にした時のこと。「この会社はびしょびしょにぬれた雑巾だ。しぼれば水はいくらでも出てくる」と言われたんですよ。新規の売り上げより、経費削減で利益を捻出せよということ。僕の教科書にはなかった発想です。今でも、辻さんは僕の人生の恩師。いまだに頭が上がりません。しかし、この頃から、僕は自分自身で新たなビジネスを立ち上げることを考え始めていました。

●次週、「ケータイ販促ならお任せ! “P+KACHIシステム”が大躍進!」の後編へ続く→→


導入店舗数1500店、利用ユーザー数250万人強!
IPOを目指し突っ走る、プロフェッショナル集団

<奇蹟の出会い>
最強の相棒との出会いは、知り合いの飲み会。
歴史に名を残すビジネスアイデアが生まれる

 2002年の夏の日、ある方の紹介で、D社のKさんに出会いました。Kさん曰く、「携帯電話を使ったサービスの特許を持っており、全国1億3000万人を相手に商売をしている」と豪語します。僕は広島の限られたエリアで、スーパー銭湯という箱ビジネスをしている身。Kさんの話が、とても魅力的に聞こえました。そして、その後、僕は運命的な出会いを経験します。それが、今の当社の副社長、西林厳史です。お互いの知り合いの飲み会が初対面で、カラオケで一緒にある曲を歌ったんですよ。驚くほど、息がぴったり合って、すぐに意気投合。西林は、元・大手グルメサイトの立ち上げメンバーで、独立して、地元の広島で販路開拓をしていた人間。彼は彼で、飲食店の集客ニーズを熟知していたし、僕は僕で、スーパー銭湯の経営で、集客する側の苦労を熟知していた。「一緒にビジネスをしよう」という話になるまでに、長い時間は必要ありませんでした。

 目指すビジネスは、携帯電話を使った飲食店向け、リピーター獲得販促システムの全国展開です。当初は、D社との共同事業というかたちでスタートしました。ブランドネームは「P+KACHI」(ピーカチ)。POINT(ポイント)、PROMOTION(プロモーション)、PRESENT(プレゼント)、PROFILE(顧客属性)、PRODUCT(製品・サービス)、PLEASURE(喜び・楽しみ)、PRINT(印刷物=P+KACHIカード)という7つのPに、KACHI=付加価値をプラスするという意味があります。飲食店のお客さまは、リピート狙いで配られた各店舗のポイントカードを持っているけれど、それが有効活用されていません。だったら、ピーカチ・システムで、個々人の携帯電話をポイントカードに変え、ここにポイントを集約してもらおうというもの。それから3年間、僕と西林はお互いの仕事で得た収入を投入しながら、ピーカチ・システムの開発を継続していくことになります。
 
 2003年の5月頃、大阪のD社に机を借りていた西林から電話がありました。「この会社はやばいと思う……」。彼は僕との話し合いを求め、広島に帰ってきました。詳しく話すと長くなるので端折りますが、結局は、D社と僕たちの進むべき道に大きな溝ができていたのです。すぐにD社と交渉し、共同開発の契約を解除。その後、広島のシステム会社に開発を委託することになりましたが、いずれにせよ、自力でピーカチ・システムの開発と営業をせざるを得なくなった……。ただ、夢だけは絶対に捨てませんでしたね。いくつかの飲食店にピーカチのベータ版を導入していただき、結果も出せていましたから。初年度の年商はわずか60万円程度でしたが(笑)。ただ、不思議なんですが、僕にはその当時から確信があったんですよ。ピーカチは、歴史に名を残す商品・サービスになることは間違いないんだと。

<夜明け前>
お客さまの「効果が出ているよ」の声だけを励みに、
さらなるシステムの改善と、愚直な営業を継続

 2006年に株式会社ピーカチを設立するまで、広島にある自動車販売会社に協力をあおぎ、席を置かせてもらっていました。その会社の新規事業として、開発、営業を続けていたんですよ。大阪で開催された販促展示会「関西ホテルレストランショー」に出展したことで、手応えを感じ、大阪事務所を開設したのが2003年。その頃すでに従業員3人を雇っていましたから、毎月、事業の維持経費で90万円ほどの出費が必要でした。これを、僕と西林の個人収入で賄いながら。ちなみにピーカチからは、まったくの無給。当時は、「まだ携帯電話は販促には向かない」と言われていました。それでも、最初のベータ版をリリースしてから3年間、必死でピーカチの開発と営業を続けました。西林という最強の相棒が一緒だという心強さ、そして、「ピーカチは必ず世の中から必要とされる商品になる」という強い信念だけが、僕を支えてくれていました。

ピーカチ・システムは、現場で働くスタッフの負担を限りなく軽減しながら、お客さまに最大限のPR、アプローチを提供することができる、携帯販促システムです。世界でたった一つしかない12ケタのシリアルナンバーが記載されたカードをお客さまに配るだけで、メール配信によるメール販促はもちろん、ポイント、クーポン発行やレスポンス率の高いアンケート収集、さらには、顧客管理まで様々な機能を基本料金内で全てご利用いただけ、「売上げUPの仕組みづくり」を忙しい現場レベルでも簡単に構築できる優れもの。リアルタイムな販促効果と即効性の高いマーケティング効果が期待でき、話題のスマートフォンにも完全対応のマルチ携帯販促サービスなのです。

 お客さまの「効果が出ているよ」の声だけを励みに、さらなるシステムの改善と、愚直な営業を継続していった結果、2007年6月、ピーカチ・システムの利用ユーザー数が50万人を突破。IT業界の世界は成長して当然。昨日よりも数値が落ちていたなんて、しゃれにもなりません。導入店舗の形態は、スタート時の飲食店から始まって、アパレル、雑貨店、スーパーなどの物販系店舗、美容室、ネイルなどのサロン系店舗へと、大きく広がっています。おかげさまで、“ピーカチの価値”はしっかり、導入していただいた店舗、その店を使われるお客さまに届いているようです。今、導入社数は750社、導入店舗数が1500店、利用ユーザー数は250万人を超えました。僕たちにやれること、求められていること、お客さまの声にしっかりと応えながら、これからも、ピーカチの名前を歴史に残すため、事業の進化を継続させるだけです。

<未来へ~ピーカチが目指すもの>
ピーカチ会員ネットワークをメディアに進化させ、
常に新しいマネタイズの仕組みを世に出していく

 やっとここまで来たかといった感じですね。競合も多少出てきてはいますが、このビジネスモデルが、すでに広く認知されたとは言えませんから。ただ、大手企業が100億円投資して、このマーケットに参入してきてもうまくいかないでしょう。何にせよ、店舗の協力なくしては、効果が出ないんです。結局、ピーカチ・システムに携わるのはアルバイトとお客さま。そこをしっかり理解していただき、店舗へ携帯販促の必要性を伝え続けていかなくてはならない。当社はかなり先駆けでありますし、これまでの累積データと、弊社の持つノウハウを得るのはかなり難しいと思います。それゆえに、僕たちは今後もどんどん利用店舗という面を拡大し続ける必要がある。前月より、利用店舗数が減っているなんてあり得ません。「座布団ビジネスはおいしいね」なんて言われることもありますが、右肩上がりは当たり前。事業が立ち上がる3年くらいは辛抱強く続けないといけない、意外としんどいビジネスモデルなんですよ。

 ピーカチ・システムは基本的にリピート顧客を増やすための仕組みです。普通の携帯でもスマホでも、PHSでも、メール受信するだけでポイントが貯まりますから、迷惑メールと受け取られることはありません。だから、退会者がほとんど出ない。店舗側も情報提供すればするほどリピート顧客の来店が増えるので、やめることができなくなる。そんな店舗への帰属意識が高いお客さまに、新しいビジネスを仕かけることを、ずっと考えてきました。そして、お得なクーポンが100円で買える「ピーカチクーポン」、割引特典15万件以上の「ピーカチプレミアムメンバー」、ソーシャルメディアとの連動で、時間と場所と業態を限定させて効率的な販促を実現する「ツイッピィ」など、お客さまと店舗が喜ぶ周辺ビジネスをどんどん追加投入しています。社内で検討していけると踏んだサービスは、とりあえずプレスリリースを出して始めてしまう。(笑)。そんなスピード感も大切にしています。

 今後の構想として、ピーカチを利用してくれている店舗自体のメディア化、地域店舗をつなぐアフェリエイト化があります。ある地方都市の焼肉店が1500人の会員を獲得していたとします。その焼肉店を使うお客さまが、欲しがりそうな情報、例えば、近所のクリーニング店のクーポン情報とか。この情報を焼肉店側からお客さまへ提供することで、焼肉店はマージンを、クリーニング店は顧客を、会員はお得なサービスを得ることができるというわけです。これをピーカチを使って自動化して広げていけば、面白いでしょう。ほかにもまだまだ、ピーカチ・システムを主軸としたマネタイズのポイントはいくらでも考えられると思っています。そして目指すは、最短での上場です。上場で得た資金で、M&Aをしたい。ITの世界は、時間を買うことがスピード拡大への常道ですから。もうひとつ、うちのスタッフたちに上場会社で働いているという誇りを持ってほしいのです。そこまで行けば、一度も面と向かってほめてくれたことがない、人生の恩師・辻さんも、「よくやった」と言ってくれる気がしています(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
決めたことは、思って、願って、言い続ける。
そうすれば必ずかたちになるんです

 2008年に東京に出てきた頃、リーマンショックが起こり、会社のPLもえらいことになって、東京は物価も高いですから、ぎりぎりの生活を強いられました。それまで僕はお金に困ったことなんてなかったんです。ちなみに、明治の「おいしい牛乳」が好きなんですが、その頃、コンビニで生まれて初めて値段を見ました。ポケットのじゃら銭で、買えるかどうか心配で(笑)。そんな苦境を乗り越えて、事業をこれまで続けてこられたのは、夢やビジョンを常に言葉にして周りに伝え続けていたこと。そうすると、絶対に助けてくれる人が現れるんです。東京に出てきて1年くらいは、かなりすれすれの経営状態でした。でも、資金がショートしそうになると、数社のピーカチのクライアントさんが「お前らなら、頑張れる、やれる」って、出資してくれたんです。結果、彼らの支援で何とか耐えしのぎ、2社のVC(ベンチャーキャピタル)からの出資を得られることになったんですよ。

 会社がそんな状態だったなんて、スタッフの誰一人として気づいていないと思います(笑)。何にせよ、思ったことを口にしないと、何かの時に、誰も助けてくれない。口に出して、それを実現していけば、「こいつは有言実行の男だと」信頼してくれます。もちろん、僕が言ったことに対して、「それは違う」「こうしたほうがいい」と返してくる人もいます。その時は、もらった意見を吟味して、事業の軌道修正をしていけばいいんです。当社には社章があるのですが、裏側に「想えば叶う何事も」というメッセージを入れています。願い続ければ実現するということを、この10年で身を持って体験してきたので。とにかく、一度決めたことは、思って、願って、言い続ける。そうすれば必ずかたちになるということを、スタッフに伝えたいから。でも、成功の要点は、それがすべてだと思っています。

 僕は起業するなら、お金に執着するのではなく、自分のライフスタイルの充実をしっかり考えたほうがいいと思ってます。僕の場合、趣味が仕事なので、新しいことを考えて、世に出して、喜ばれることが一番のモチベーション。海外旅行も楽しいけど、新規事業が立ちあがるほうがもっと楽しい(笑)。でも、それがピーカチじゃないとだめってふうには限定していません。実はチャンスはどこにでも転がっていて、自分が取捨選択しているだけ。この世の中、誰しも、チャンスは平等だと思うんです。僕の場合、コンビニ、電気の職人、スーパー銭湯と、与えられた仕事を楽しみながらも必死で成功に導いてきました。会社員の方々も、仕事を選んでいないで、まずは目の前の仕事で成果を出さないと。起業云々の話はそれからじゃないでしょうか。最後に、もしもやりたいことがあるのなら、いますぐ始めたほうがいい。とりあえず思いをかたちにして、世の中に出してみることが大事。時間を巻き戻すことは、絶対にできないのですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン
撮影:内海明啓

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