第64回 株式会社ワイ・ジー・ケー 山崎正弘

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第64回
株式会社ワイ・ジー・ケー 代表取締役
山崎正弘 Masahiro Yamazaki

1951年、山形県生まれ。父親の影響で、無類の自動車マニアに。小学校の卒業文集の作文に書いた夢は「大きくなったら自動車をつくる人になる」。その 後、都内私立大学英文科に進学し、運送会社を立ち上げる。かなりの成功を収めるも、5年後に事業を売却し、山形へUターン。1980年、山形市で学習教材 販売会社「山形学習企画」を起業。アイデアが当たり、事業は順調に成長する。1990年、株式会社ワイ・ジー・ケーに組織変更。独自エンジンの研究・開発 を始め、開発結果の検証として自動車レースへの参入もスタート。2000年、競技車両用の高性能エンジン「YR40」を、2004年、一般車用の環境対応 型エンジン「YR20」の開発に成功。米国デイトナ24時間耐久レースをはじめ、欧州などにプライベートチーム「イエロー・マジック」として参戦し、同社 の実力を世界に知らしめた。現在も、ファブレスのエンジン開発メーカーの経営者として、商流の構築に奔走している。

ライフスタイル

好きな食べ物

好き嫌いはありません。
肉、魚、野菜、何でも大好きですね。山形の名物としては、川原で行なう芋煮会。里芋をじっくり煮込んで食べるんです。毎年、社内イベントとして開催していますよ。お酒はですね、あまり飲めないんで、たしなむ程度です。

趣味

カメラ。
昔からカメラが趣味だったのですが、ここ10年くらいは仕事に忙殺されてカメラもほこりをかぶっていました。最近、少しだけ余裕ができたのでオーバーホールして使っています。愛機は、ニコンFとF2、F3の3台。散歩しながら何気ない風景を撮影するのが好きですね。

行ってみたい場所

ドイツです。
今度、ドイツのケルンで、大型ガスエンジンの展示会が行なわれるんです。で、それと同じ時期に、「フォトキナ」というカメラ関連の見本市も開催されると。趣味と実益を兼ねて行きたいんですが、誘った経営パートナーに断れたので、思案中です(苦笑)。

最近感動したこと

藤沢周平の小説。
同郷である藤沢周平さんの小説『蝉しぐれ』など数冊を久しぶりに読んだんです。50歳を過ぎて、涙腺がゆるんだんでしょうか。思わずホロリとしてしまった。やっと読書できる時間ができたんだなあと、そのことにも少し感動してしまった。

学習教材販売会社からエンジン開発メーカーに転身。
少年の頃からの夢を愚直の一念で追いかけてきました

 ヨーロッパでエンジンが誕生して125年。その生産方法はそれほど進化していないという。大資本が独占しているエンジン関連市場の中、新しいエンジンのあ り方を研究・開発しているベンチャー企業の本社が山形市にある。大手企業にはできない柔軟な発想、協力者をひきつける志と行動力で、世界が振り向く高性能エンジンを本当に開発してしまった男。それが、株式会社ワイ・ジー・ケーの山崎正弘氏である。夢の始まりは、小学校の卒業文集に見て取れる。「大きくなったら自動車をつくる人になる」。幼心で抱いた小さな夢が、40年という長い道のりをかけて、この時代に叶えられようとしている。気高くも美しい蝶「オオムラサキ」が同社のエンジンに付けられたエンブレムだ。このエンブレムが世界中に羽ばたく日は近い。今回は、そんな山崎氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<山崎正弘をつくったルーツ1>
車好きな父の影響で自分も自動車マニアに。「大きくなったら自動車をつくる人になる」

 私が山形市立第一小学校に入学したのが1958年。昭和でいえば33年です。当時の山形市内を走っている自動車といえば、路線バスか、運送会社の三輪自動車くらいのもの。あとは、米軍払い下げの県庁の車で、大型のパッカードとかビュイックだったでしょうか。いずれにせよ、まだまだ自家用車が家庭に行き届いていない時代でした。家族構成は県庁に勤める父と母、その間に生まれた私と弟の4人家族。母の実家が裕福だったんでしょうね。納屋に黒塗りの自動車があって、いつもエンジンルームとかをのぞいて遊んでいました。その頃からこれまで、ずっと私は自動車が大好きなんですよね。

 あれは小学校高学年の頃。父が手先の器用な人で、噴霧器のエンジン部分を使って小さなバイクをつくってくれたんです。嬉しかったですね。私も工具を手渡したりと手伝ったりして。当時のエンジンはほとんどが、欧米の移転ものでしたから、工具のメモリも全部インチだったことを覚えています。その後、初めて新車がうちにやってきました。日野のコンテッサクーペという車種です。その頃ちょうど山形市では道路拡張工事を行なっており、まだ開通していない道路がけっこうありまして。まだ公道になっていない場所で、そのコンテッサを運転させてもらったり(笑)。小学生が、オートマではなくギアのミッション車を操っていたと(笑)。

 そうそう。うちの家族は4人全員左利きだったんですよ。私は父から右利きに矯正させられましてね。本当は野球をやりたかったんですが、みんな仲間に入れてくれないんですよ。おぼつかない右腕でボールを投げるので、暴投ばかり。ちなみに弟はなぜか矯正されることなく、のびのびとサウスポーで野球、やってましたね(笑)。そんなですから、私はどんどん自動車にのめりこんでいくんです。学校から帰ってきたら、自家用車をなでまわしたり、工具を磨いたり。小学校の卒業文集の作文でも、「大きくなったら自動車をつくる人になる」って書いていましたからね。

<山崎正弘をつくったルーツ2>
父親の急逝をきっかけに方向転換。東京に出て自動車ビジネスの夢を追う

 中学は、山形市立第二中学校へ。バスケット部に所属しましたが、足が速かったので陸上の大会がある時は陸上部員として借り出されていました。あ、逃 げ足も速かったですねぇ(笑)。当時、勉強は文系科目が得意で、理科系は苦手でした。今では逆にそっちばっかり勉強しているんですけど。嫌いな科目の授業中は、エンジンの絵ばかり描いていました。自動車の絵を描いている同級生はたくさんいたと思うのですが、私の場合、エンジンというところがかなりマニアックですよね(笑)。

 高校は、県立山形南高校へ進学しました。ちなみに、第一回高校生クイズの優勝チームを輩出している高校なんですよ。高校でも陸上部に入部し、短距離で1年から県大会に出場するなど好成績を残しています。でも、反復練習というものが性に合わなくて、練習をさぼってばかり。あと、今では考えられませんが、当時はバイク、自動車通学が許されていましてね。私も16歳で軽自動車の運転免許を取得し、自動車通学していましたよ。学帽もかぶらなくて良いなど、けっこう斬新な校風の高校でした。そして高校3年の時には親友の朝倉君と一緒に、彼が買ってもらったカローラ1100で日本一周の旅に出かけています。

 実は父親の意向で、高校卒業後、順天堂大学の医学部に進学し、県内の病院に勤務するという筋書きができていました。ですが高校2年くらいの時に父が大きな病気にかかり、高校3年で亡くなってしまうんですよ。それで急遽、「大学に行かせられなくなったので、県庁に就職せよ」と生前の父から指示されて、公務員試験を受験。合格し、10月には県庁の文書課への配属も決まりました。でも、それがだんだん嫌になってきた。やっぱり自動車関連の仕事をしたいという気持ちが強くなってきて。どうせなら東京の大学に行って、いろんな人間と出会いたいと。学費を自分で稼ぐことを条件に母を説き伏せました。

 高校が男子校だったので、できれば女性が多い華やかな大学がいいなと(笑)。で、英文科を受験することに決めてミッション系を中心にいくつかの大 学を受験し、港区の私立大学にすべりこみました。ここに進学することになるんですが、当時は2年前に安田講堂事件があった頃で、学生運動もまだまだ盛ん。授業もロックアウトで行なわれないことが多く、勉強するために上京したというよりは、仕事をするために大学に行ったようなものでしたね。

<大学生が立ち上げた運送会社>
5台のトラック、5人のスタッフを雇い入れ、毎月の収入200万円を超える成功を収める

 授業料を捻出するために働こうと、当時、東京・豊島区の駒込に森永乳業城北販売という会社があって、そこでお世話になりました。体育館くらいの冷蔵倉庫があって、そこに配達する牛乳が満載されていました。フォークリフトを使って当日配達する牛乳をトラックに積んで、契約事業者に配達するという。深夜3時から仕事を始めて朝の10時くらいまで、ドライバーとして働きました。そこに入ったのが良かったんですよ。後に、森永乳業の専務になられる方が出向されていまして。その方になぜかかわいがられましてね。「ここで雇われて仕事を続けるより、自分でトラックを購入して森永の仕事をしてみろ」とアドバイスしてくれたんですよ。

 トラックを購入する資金などなかったのですが、「1台目は援助してあげるから」と。それで中古の2tトラックを5万円で購入いただき、個人事業主として森永乳業の芝浦デポで牛乳配達を始めることになるんです。最初は牛乳配達だけでしたから、売り上げはしんどかったですよ。食事は牛乳とデポで支給される弁当だけでしのいでいましたから。でも、深夜3時から朝の10時で仕事は終わります。そこで、その後の時間を有効活用しようと、まず、当時創刊された「夕刊フジ」のキオスク配送の仕事を開始。それも15時には終わるので、その後の時間で新宿副都心開発に使用されるセメント配送も開始。そうやって徐々に仕事を増やしていった結果、トラック5台を保有し、従業員も5人雇うまでに。さらに、銀座のカメラショップの配送もライトバンを使って代行するようになりました。

 最終的にはけっこう稼ぎましたね。大卒の初任給が7、8万円だった当時、私の手取りが200万円くらい。さらに東京・田町の第一勧業銀行(現・みずほ銀行)に1000万円単位の定期預金が何本かありましたから。この頃、自分で最初に購入した自動車は、トヨタS800です。ほかにGTRとか、10台くらいは買い替えたんじゃないでしょうか。車の仕事で稼いで、趣味の車を買うわけです(笑)。それを自分でチューニングして、仲間と走りに行くと。パチンコや麻雀は大嫌いでしたしね。配達とトラックの整備で汗まみれ、油まみれの日々でしたが、とても充実していました。でも、この生活も5年で終わりを迎えることになるんですよ。

<山形へ~学習教材販売会社を起業>
教材販売ビジネスが予想を超える大ヒット!その利益を元に、エンジン開発活動を開始

 地元・山形に残してきた母の目が見えなくなりそうなので帰ってきてほしいと。それでこの事業を、高校時代一緒に日本一週旅行に出かけた朝倉君に譲って、山形に帰ることに。大学は5年在籍して、結局、中退しました。授業にもほとんど出ませんでしたし。帰省後、半年くらいはぼ~っとしていました。そんなある日、学習教材のテレビCMを見たんです。これは面白いかもしれないと思いつき、自分でその会社の教材を購入してみました。で、調べてみると、それらが山形県の授業内容に準拠してないんですよ。じゃあ、準拠した内容の教材を作成し、販売すればもっと売れるんじゃないかと。その方面の知識はありませんから、山形大学の先生や学生などに依頼して。で、1976年にオリジナル教材の販売を開始しました。

 小学4年から中3までの教材を制作し、予想以上に売れました。そして1980年に、有限会社山形学習企画として法人化。さらにアクセルがかかったのは、北日本信販(現・ジャックス)さんとの提携です。当時、松本常務という、まるで侍のような方がいましてね。松本さんが「集金の手間を省くために、教育ローンをやればどうだ。役務をしっかり提供し、空いた時間を顧客フォローに回せば、さらに成長できる」という提案をしてくださったんです。それが大当たり!週1回は親御さんに電話フォローするという徹底振りで、大手教材販売会社のリピート率が5%のところ、当社はなんと40%を超えていました。

 教材販売のコストは基本的に人件費と紙・印刷費だけでしょう。利益率がとても高かったんです。山形に帰ってきてからも、自動車愛好家ではあり続けましたが、だんだん昔の夢が頭をもたげてきまして。「自分たちでエンジンをつくりたい」と。1988年に、社内にエンジンの開発を研究する事業部を開設しました。まずは「イエロー・マジック」というFIA/JAF公認のレーシングチームを立ち上げて、フェラーリやポルシェを何台も購入し、自分たちでエンジンを改造して全国のレースに参戦。宮城県のSUGOサーキットなどで、何度もテストを繰り返しながら。そうすると、珍しさも手伝ってか、徐々に大手自動車メーカーのエンジニアやメカニックたちがアドバイスをしてくれるようになった。そして1996年、世界的なエンジン開発者として有名な林義正さんとタッグを組むことになるんですよ。

ビッグレースへの参戦で、知名度も広がった。
次世代エンジンを開発し、世界市場へ参入を目指す!

<林義正先生との出会い>
世界的なエンジンのプロを口説き落とし、独自のエンジン開発をスタート!

 教材販売事業は確かに高収益でしたが、エンジン開発には途方もなくお金がかかるんです。日本人って、遠くの神様にありがたみを感じますよね。当時の私も同じで、エンジン開発を手伝ってくれるエンジニアを求めて、ドイツやイギリスなどに出かけていきました。もちろん答えはことごとく「NO」……。でも、ひとりの外国人エンジニアが「日本なら元・日産でエンジンのプロと言われた林義正がいるじゃないか。彼に頼んでみてはどうか」とアドバイスしてくれた。当時、林先生は日産自動車を退社され、東海大学の教授に就任していました。確かに、林先生と一緒なら世界に通用する国産エンジンをつくれるかもしれない。絶対に口説き落とすことを決意し、林先生に最高技術顧問に就任いただくためのアプローチを開始したんです。

 林先生のご自宅は鎌倉にありまして、周辺にホテルがないので車に寝泊りしながら、20回以上はご自宅に押しかけました。「先生、ル・マンで勝てるような、高出力・低燃費の高効率エンジンをつくりたいのです。基本となるエンジンを設計いただけないでしょうか。ちなみに30万円しか顧問料をお支払いできませんが」(笑)と。最初、林先生は「東北の旦那、やめときなさい。いくらお金があっても足りませんよ」と断られました。「ですがイタリアのロストワックス工法であったり、ドイツのセラミック工法でいけるのではないでしょうか」と、何度も説得を続けるうちに根負けされたのでしょう。「そこまで言うのならしょうがない。お手伝いしましょう」と最終的に承諾いただけました。

 この数年前、山形学習企画を株式会社ワイ・ジー・ケー(以下:YGK)として組織変更し、教材販売事業をたたんでエンジン開発に特化する企業としています。そして、林先生とともに、「YR40」という高効率レーシングエンジンの基本設計に取り掛かったんです。研究に研究を重ね、YGKは「YR40」の基本となるエンジンを積んで、2001年の米国ディトナ24時間耐久レースに参戦しました。結果、予選では4位に当たるタイムを叩き出し、クラス17位、総合30位という快挙。大手自動車メーカーから出場するのではなく、初参加のプライベートチーム「イエロー・マジック」が上位を脅かしたわけです。フェラーリのシャーシを使ったのですが、本家のフェラーリにも勝ってしまった(笑)。やはりレースは最高のPRができる場所。それからいっきに、YGKの名前が自動車業界に知れ渡っていったんですよ。

<ル・マンへの挑戦>
学生チームとしては初のル・マン出場を実現。結果は決勝リタイヤも、実力は誇示できた

 現在まで、約22億円ほどの開発費を投入していますが、そのほとんどが自腹(笑)。家や自動車もどんどん処分しました。資金的には本当にぎりぎりでやってきましたね。でも、ありがたかったのは山形県および経済産業省から、「中小企業創造法」「新事業創出促進法」の認定を受けられたこと。これにより私募債の発行が可能になったり、県の信用保証で融資を受けられるようになったりと助けられました。そうやって資金を集めて車載用のエンジンを開発しながら、環境に配慮したエンジン開発もスタート。2004年には、環境適応型エンジン「YR20」を、その翌年には、さらに環境負荷の低い汎用タイプの「YL08」を完成させています。その間の37カ月は無給。さらに資金を稼ぐために、深夜、神奈川県の大黒ふ頭でトラックを船に積み込む運転手のアルバイトも2年近く続けました。高い運転技術が求められますが、日給5万円と高給だったので(笑)。

 また、全国のフェラーリオーナーから「YGKのエンジンを積んでほしい」というオーダーもけっこうありまして、改造して積み替えてあげるというサービスも。さらに輸入車販売事業を始めるなど、私たちにできることをできる限り手がけて、YGKという企業の糊口を凌いできたんですね。さらに、YGKの事業に魅力を感じてくれた、ホンダ、東芝、日立、マクラーレンなど、超大手企業のエンジニアが当社の門を叩いてくれるように。「給料が半分になってもかまいませんから」と、実際にその待遇で来てくれたスタッフもいるんですよ。現在、技術職が24名、本社スタッフが10名くらいの布陣となりました。でも、社員の給与を下げたりとか、そういう迷惑はいっさいかけていません。

 そして今年の6月、YGKは東海大学との産学連携により、大学生チームとしては初となる、ル・マン24時間耐久レースに参戦しました。結果は、残念ながら決勝でリタイヤ……。エンジンとミッションをつなぐシャフトが折れてしまったんですね。しかし、エンジン自体はまったく問題なし。東海大学の学生たちも、「ぜひ、またチャレンジしたい」と燃えています。これからもYGKの名前を世界中のエンジン関連企業に知らしめるため、ビッグなレースにチャレンジしていきたいと思っています。

<未来へ~ワイ・ジー・ケーが目指すもの>
高性能エンジンのファブレスメーカーとして、世界から求められるポジションを固めたい

 今から125年前のヨーロッパでエンジンが産声を上げましたが、その頃からエンジンの生産法はそれほど進化していません。ひとつの金型をつくって、それに対応するラインをつくり、できるだけ長く量産を続けていくという。20年ほど前、ホンダのシティという自動車がヒットしましたが、現在のフィットのエンジンも同じラインを使っているそうです。ひとつのエンジンを量産するためには、数百億の投資が必要となりますから、当然といえば当然です。ですから、今後も当社はファブレスメーカーのポジションをとっていきます。高性能のエンジンを開発・試作し、実用化できた時点で、エンジンを必要とするさまざまな企業に知的財産として使用許諾をしていくというビジネスモデルになります。

 化石燃料を燃やすことによって発生する、二酸化炭素、窒素酸化物(NOx)の削減が叫ばれていることはご存じですよね。YGKのエンジンは、熱効率が35%以上と高い効率を示す事から燃料電池に準じた環境に配慮できる高性能を誇ります。昨年、大手某ガス機器会社と、コジェネレーション用のガスエンジンの使用許諾契約を締結しました。さらに、自己責任で運転飛行する小型キットプレーン用として採用したい、特殊船舶用として採用したいなどなど、複数の企業・団体からオーダーをいただいています。これらの商流をしっかりビジネスとして結びつけていくことが、今、社長である私に課せられた使命だと思っています。

 自動車メーカーになりたいのか? もちろんその夢はありますが、もっと先のことになるでしょうね。優秀な人材も増え、若い人材もたくさん育ってきています。今年の秋の人事では、新しい発想ができる若い層を首脳陣に据えていく予定なんです。そうやってしっかり人材のリレーをしていくことができれば、夢はいつか必ず叶うと信じています。あと目標は、イギリス・エンジン技術誌主催の「インターナショナル・エンジン・オブ・ザ・イヤー」を受賞すること。3年連続でBMWがグランプリを獲得していて、日本の大手自動車メーカーは5位以内に入っていないんです。じゃあ、自動車メーカーではない当社がグランプリを狙ってやろうと。勝算ですか? もちろん多いにありますよ(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業はひとりで成し遂げられるものでない。社員、支援者を思い、絶対にあきらめない覚悟で

 起業という世界に飛び出していきたいと思っていながら、じゃあいったいどんな事業をすればいいのか、迷っている人が多いんでしょう。私は小さな頃からずっと自動車に関わる仕事をしたいと考えていました。それと同じように、純粋だった少年・少女時代に思い描いた夢って、誰でもひとつくらいはあるのではないでしょうか。まずはそれを探し始めてみることもひとつの方法だと思います。そして、その夢をビジネスにするとして、どうすればかたちになるか、どうすれば食っていけるか、考えていけばいいのです。

 当社のエンジンには、天然記念物である蝶「オオムラサキ」をデザインした三角形のエンブレムが付けられています。今の私の夢は、できるだけ多くの国々の自動車に、このエンブレムが着いた環境負荷削減エンジンを搭載するというもの。当社はエンジンメーカーではありませんから、ライセンス供与企業を世界中に広げていきたいということ。その夢を実現するために、現在も一歩ずつ計画をかたちにするための活動を続けているわけです。そしてイメージとしては、いつか世界の5大陸を旅行しながら、そのエンブレムを探してみたい。ブラジルやアルゼンチンから、その旅を始めてみようかなと(笑)。

 やりたいビジネスが見つかったなら、大きな志をもって、それを貫きとおすことです。たとえば歯を食いしばって、奥歯が擦り切れてなくなってしまったとしても。起業はひとりでできるものではありません。社員がいて、支援してくれる人がいて、そして、その人たちには家族だっているわけでしょう。そこまで考えれば、失敗なんて死んでもできないと思えるはず。自分だけで始めて終わらせることができる世界ではないんですよ。問題にぶつかったとしても、あきらめずに考え抜き、行動し続ければ、必ず突破口が見つかります。だから、私のような「あきらめの悪さ」は大事です(笑)。頑張ってください。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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