第121回 株式会社ボルテージ 津谷祐司

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第121回
株式会社ボルテージ 代表取締役社長 クリエイティブ責任者
津谷祐司 Yuzi Tsutani

1963年、福井県生まれ。1985年、東京大学工学部都市工学科卒業後、博報堂に入社。以来11年間、主に企画・制作、空間プロデュースの仕事に従事する。在職期間中の1993年からの4年間、UCLA映画学部大学院に私費留学。監督コースで映画製作に携わる。1999年、博報堂を退職し、携帯コンテンツ会社・株式会社ボルテージを起業。代表取締役に就任。世界初の携帯ネット対戦ゲーム「バトル東京23」でMCFモバイルコンテンツ特別賞を受賞するも、4期連続の赤字に苦しむ。この間、UCLAの卒業作品を完成させ2002年に卒業。その後、ネットの特性と「映画」「広告」からの学びを生かし、電子書籍サイト「100シーンの恋」、音楽サイト「歌詞で胸キュン」、ゲームサイト「恋人ゲームシリーズ」などでヒットをとばす。監査法人トーマツが主催する企業成長率ランキング「日本テクノロジーFast50」を2006~2009年と4年連続受賞。2006年度の売上成長は国内16位。自らが監督した映画・DVDに『Wanna be FREE!東京ガール』『100シーンの恋』、著書に『なぜ、ネットでしかヒットは生まれないのか』(PHP研究所)、翻訳に『映画監督術』(フィルムアート社)などがある。一級建築士。

ライフスタイル

好きな食べ物

おろし蕎麦。
最近、全国的に有名になりつつある、生まれ故郷・福井の名物料理に、大根おろしをぶっかけた「おろし蕎麦」があります。美味しいですし、太らない。大好きですね。昔はかなり飲んでいましたが、1年ほど前にお酒はほぼやめました。頭の回転が鈍くなるので。この仕事、頭が勝負ですから。

趣味

サイクリング。
子どもが3人いまして、最近、家族で都内のあちこちをサイクリングして回っています。車の比較的少ない休日は、道路も空いていて快適です。代官山まで走ってランチをして帰ってきたり、代々木公園で遊んだり。電動自転車を購入してから、さらに楽しくなりましたね。

行ってみたい場所

ニューヨークとか。
子どもがふたりの時は、家族で海外旅行に行っていたんです。でも、3人目が生まれてから、2年くらい全く行っていない。なので、アメリカとかヨーロッパとか、行ってみたいなあと思っています。留学したUCLAがあるロスは、気が滅入る思い出もありますが、また訪れてみたいですね。

お勧めの本

『あなたが伸びれば、会社も伸びる!―起業経営者のための4段階成長術』(翔泳社)
著者 キャサリン・カトリン /ジェイナ・マシューズ

起業家が成長する過程においてぶつかるであろう悩みを、4段階で簡潔にまとめています。よちよち段階から成長段階まで、自分が置かれているタイミングで読むと、とても参考になると思います。これを基礎編として、あと読んでおくべきは『ビジョナリーカンパニー』でしょうね。

お勧めの映画

『ソーシャル・ネットワーク』
起業家志望の人に勧めるなら、SNS世界最大手「フェースブック」の創業者、マーク・ザッカーバーグの半生を描いた映画です。全米で公開されたばかりですが、「悪ガキ・億万長者・天才」という魅力的なキャッチコピーもいい。来年公開が予定されている、「グーグル」の創業者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジを題材にした映画も楽しみです。

携帯コンテンツに映画製作のノウハウを注入し、
女性向け恋愛ゲーム市場首位のポジションを獲得!

 2010年上期に国内の株式市場に上場した企業数はわずか12社。そのうちの1社、6月に東証マザーズ市場に上場したのが、「恋愛」と「戦い」をテーマに女性向け携帯コンテンツを提供しているボルテージだ。同社を起業した津谷祐司氏は、映画監督になる夢を実現するため、UCLA映画学部大学院で学んだ本格派。そんな津谷氏が、映画で培ったすべてのノウハウを注ぎ込んだ、オリジナル・携帯コンテンツには、簡単には真似できない共感を生み出すドラマがある。そんなボルテージが目指す未来とは……。「感覚として、すでに国内ターゲット層の半分くらいは獲得しているので、そのうち天井がきてしまう。なので、英語版、中国語版など、海外展開にも挑戦していきたいですね。映画は定期的につくっていきたい。長い歴史を持つ映画界には、ドラマのつくり方を始め、タレント事務所との交渉術、マスメディアへの活用方法など、学ぶことはまだまだありますから」。今回はそんな津谷氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<津谷祐司をつくったルーツ1>
福井県で繊維工場を営む家業の長男。
ものづくりにはまった少年時代

 福井県は、日本で一番たくさんの社長を輩出している県。僕自身の生まれ故郷は、福井県の北部にあった坂井郡です。今は市町村合併により、"あわら市"となっています。福井は戦前、絹織物をきっかけに繊維産業が発展した地域で、昔から小さな町工場がすごく多かった。うちもご多分にもれず、家業は繊維工場でした。明治生まれの祖父が丁稚奉公から始めて工場を立ち上げ、二代目の父と一緒に、最盛期は80人くらいの従業員を雇うほどだったようです。ただ、1970年代に入ると国の産業政策が軽工業から重厚長大産業にシフトし始め、福井の繊維業界はみるみる衰退。僕が物心ついた頃には、もう家業の業績も昔ほどではなくなっていて、従業員の人たちのストライキなども起こっていました。それでも、父は借金をしながら複雑な織りを実現するなど企業努力を続け、2000年過ぎまでは何とか経営を維持していましたが、最終的には整理解散の途を選んでいます。

 実家は2haほどの工場の敷地に隣接する場所にあり、祖父母に両親、姉と長男の僕、弟と妹の8人家族で暮らしていました。勉強ですか? まあ普通にできました。でも、両親から勉強しろと言われたことはあまりないです。ただ、祖父、父から、食事の食べ方、靴の並べ方、雑巾の絞り方まで、かなり厳しく躾けられたことを覚えています。家の前には田んぼが広がっていて、すぐそばに山も川もある田舎町です。春はタケノコ狩り、夏はカブト虫捕り、冬はスキーに雪合戦。自然の中で友だちと遊ぶことが多かった。あと、工場も僕の遊び場。機械をいつも見ていたからか、ものづくりに傾倒していくんですね。模型モーターやギアボックスなどいろんなパーツを買ってきて、設計図を描いて、動くクレーン車や天体望遠鏡をつくったり、マジンガーZや宇宙戦艦ヤマトの絵を描いたり。自転車がすごく欲しくて、1年間新聞配達を頑張って続けたことも、いい思い出です。

 中学の担任は熱血先生、楽しかった記憶が多いですね。歌が大好きで、「かぐや姫」や「チューリップ」とかのレコードを聞いては、家で姉と一緒に大きな声で歌ったり。ちなみにひとつ上の姉は、ピアノがうまく、合唱部のリーダー。その姉からは、いろんな意味でいい影響を受けています。きょうだいみんな漫画が大好きで、少年コミック誌や少女コミック誌を毎週3、4冊買っては回し読み。ものづくりの趣味は相変わらずで、中学時代も休みの日には、メカ模型を手づくりしたり、漫画を描いたりしていました。

<津谷祐司をつくったルーツ2>
中学時代とは真逆の、うっ屈した毎日……。
本郷のキャンパスに立ち、東大進学を決意

 高校は、福井県で2番目の進学校である県立高志高校へ。勉強は中学まではトップクラスだったんですが、成績のいい生徒が集まって来る進学校だったので、いきなり平均点以下のランクに落ちてしまい……。自己嫌悪というか、初めての経験にショックを受けて、勉強にもあまり身が入らず……。サッカー部へ入部するも、面白くなくて1年で退部。楽しかった中学時代とは真逆の、うっ屈した毎日の始まりです。そんな中、友人から小説の面白さを教えられて、読書にはまっていきました。星新一、小松左京、筒井康隆など、日本のSF小説が大好きでした。そこから始まって、夏目漱石などの古典にも範囲を広げ、高校時代だけでも300冊以上は読破しているのではないでしょうか。フィクションの世界が楽しくて楽しくて。本には救われたと思っています。

 さらに、この頃の僕は反抗期で、父とよくぶつかっていました。繊維業界の景気はどんどん悪くなって、「あの工場が潰れた」「あの会社は調子が悪い」とか、そんな話ばかり。おまけに、うちに3億円の借金があることを聞かされたり……。僕は長男でしたから。「家業を継げ」と直接言われたことはなかったですが、構造不況業種の跡取り息子という立場に子供ながら閉塞感を感じていました。成績はいまいちでしたが、中部圏の国立大学くらいには行きたいと思っていたんです。高3に上がる前の春休み、友人たちと東京に行き駿台予備校の春講習を受けたんですね。先に東京の美大に進学していた姉の下宿に泊まり込みました。その時に、早稲田、慶應、東工大のキャンパスを見学に行ったら、田舎の感覚ではあまりにも狭い。その後、本郷の東大に行くと、安田講堂や三四郎池がある広大なキャンパスなわけです。その瞬間、「自分は絶対に東大に行く」と決めました。ロボットや宇宙船を作ってやろうと、理科一類に照準を定めました。

 もとから福井を離れ、東京に行きたいと考えていましたが、中途半端な大学だと父から反対される恐れがありました。東大なら文句ないだろうと。じゃあ、どうすれば現役合格できるか。明確な目標が定まりましたが、成績はすでにお話ししたとおり。まずは合格体験記を読んで、勉強の仕方を研究し、現役合格するための1年間のカリキュラムを自分なりにつくりました。その後は、日々勉強し模試を受けて、結果を見て、改善を繰り返す。学校の授業を真面目に受けても無駄だと判断し、授業中も自分が作成したカリキュラムに没頭し続けました。先生方もそんな僕を応援してくれまして、いろんな質問に丁寧に答えてくれた。ありがたかったですね。睡眠時間は8時間しっかりとって、あとは電車の中も食事しながらもすべて受験勉強に当てる毎日。その甲斐あって、何とか東大に無事合格。高志高校が進学校とはいえ、現役で東大に合格したのは、僕が初めてだったようです。皆、無謀だと言いましたが、この時の成功体験が、今の僕の原動力となっています。

<雑草の東大生>
すでにレールが敷かれているものに乗っても
面白くない。既定路線が気に食わない性質

 東大に合格しましたが、僕は地方の高校出身でしょう。開成高校など有名高校から来た学生とは、何かが根本的に違うんですね。彼らはいってみれば、先が決められたベルトコンベアーに乗っかって真っ直ぐ合格してきたエリート。一方の僕たち地方出身者は、自分なりに必死でもがいて、何とか狭き門をくぐり抜けた、雑草のようなもの。自ずとそんな雑草同士が集まって、つるんでいました。当時は洋楽の流行りはじめでディスコブームでしたから、新宿や六本木のディスコによく遊びに行っていましたね。あとは、自分たちでテニスサークルを立ち上げてみたり。昔からそうなんですが、既定路線が気に食わない性質なんです。すでにレールが敷かれているものに乗っかったって、全く面白くないじゃないですか。大学での成績は、当然ながらエリートたちのほうが上で、僕らはできない組。

 将来はリーダーになりたいと考えたり、新たなビジネスを生み出す起業に挑戦したかったかと聞かれると、全くなかったです。自分がつくりたいものをつくりたい。それが興味の中心です。今だって、社長業よりは、ものづくりの現場仕事のほうが楽しいと感じていますし。

  やっぱり「アート」と「ビジネス」。大学でのさまざまな経験を経て、このふたつにかかわっていきたいと思うようになりました。「アート」は元々ものづくりが好きだったから、「ビジネス」は実家が事業を営んでいたから自然と発想できたのでしょうか。そして、どうせものづくりをするなら、できるだけ大きなものをつくりたい。それも、自分が好きなもので、みんなが面白いと感じられるものを。それがビジネスとして売れて、お金が入れば、さらに大きくて新しいものづくりに挑戦できる。そう思って就職活動をスタートし、最初は都市工学科で学んだことを生かそうと建築業界を狙いました。ただ、フジテレビのカルチャー路線など、メディアが加速的に発展している時期だったので、広告代理店も面白そうだと。最終的には、某設計会社と博報堂の2社から内定をいただきました。そして、空間プロデュースの仕事を希望し、博報堂への就職を決めました。

<博報堂へ>
ものづくりにハンズオンできないジレンマ。
このままプロデューサーを続けるのか……

 博報堂に入社した最初の2年間は、セールスプロモーション業務に携わることになります。その後、空間プロデュースを手がける部署に異動し、博覧会のパビリオンやテーマパーク、企業のPR館などを企画する仕事をするようになりました。この仕事は個人的に楽しかったですし、僕の性格に合致したものだったと思います。ただし自分は、企画し、プランに落とし、プレゼンするプロデューサーの立場。結局、図面をひいて実際に建築物をつくるのも、PR映像を演出するのも、外部のプロフェッショナルたちじゃないですか。彼らとしっかりコミュニケーションできるよう、建築や映像制作の基礎知識を一生懸命に勉強して積上げていくのですが、やっぱりハンズオンの実体験が伴わないので頭でっかち。そこがとても歯がゆくて、4カ月かけて必死で勉強し、一級建築士の資格を取得しました。その結果、専門的な話にもついていけるようになりましたが、自分がハンズオンでものづくりができないジレンマだけは、依然として残っていましたね。

 映像にも興味が広がって、会社員になってから「見るべき映画リスト」を作成し、年間100本を超える映画を観ていました。また、趣味が高じて、シナリオ学校にも通い始め、友人たちの結婚式のビデオを制作するなどして、ものづくりの欲求を満たしていたんです。空間プロデュースの仕事で、自分にとっての金字塔といえるプロジェクトがあります。博報堂はそれまで数々の企業PR館のコンペティション(企画競合)に参戦するものの、すべて電通に負け続けていました。博覧会のパビリオンのように期間限定のPR館はいくつか実績があったのですが。そんな中、地方に電力PR館のようなものを立ち上げるプロジェクトだったのですが、そのコンペを僕のチームが勝ち獲ることに成功しました。その後、建物の設計から始め、建築から展示の設置完了、映像の完成まで約4年がかかりました。コンペ当時の僕は24歳、完成時には27歳、総額約30億円のビッグプロジェクトで、おそらく会社としてもその年の一番大きな受注額だったと記憶しています。

 4年がかりで完成させた念願のビッグプロジェクト。でも、あと10回これをやったら、僕の人生は、ものづくりにハンズオンできない、プロデューサーのままで終わってしまう……。UCLA大学院の映画学部を知ったのはそんな時でした。スピルバーグやルーカスが大活躍していた時代で、知れば知るほど本格的に映画づくりを学びたいという思いが募り、出願を決断。しかし、2年連続不合格。監督コースは大人気で、600人中20人の狭き門。もうダメだと思ったのと同時に、学校に行かなくても映画は作れると、貯蓄やボーナスをかき集めた300万円をつぎ込んで、自主制作の映画をつくることにしました。7分間くらいの短編映画でしたが、監督として、プロのカメラマンと一緒に映画を完成させたことに、大きな満足を得ました。最後と思った3回目の出願で志望動機エッセーがとおり、面接で短編映画をつくった時の苦労話をしました。実際に一歩を踏み出した行動力と熱意が評価され、ついに合格。そんなプロセスを経て、英語もほとんど話せない僕は会社を休職し、映画製作を学ぶため留学することになるのです。29歳の時です。

●次週、「映画のノウハウをケータイ・コンテンツに注入し、オンリーワンのポジションを確立!」の後編へ続く→

現代人が求める幸せは「恋愛」と「戦い」のふたつ。
人々を応援する携帯コンテンツをつくり続ける

<映画監督になりたい>
自己をさらけ出すことで、得た他者との共感。
七転八倒したUCLAの4年間で得た宝物

 入学後は、言葉の壁に悩まされ、苦労の連続でしたね。シナリオを渡されて、「演出せよ」という課題が出るのですが、演出どころか内容がまず全く理解できず……。授業の初日がなんとか終わりアパートに帰ると、部屋の壁が目の前にどんどんと迫ってくる幻覚に襲われたほどでした。あるクラスメートの女性が課題としてつくった映画を見た時のことです。ストーリーは、主演の太めの女性が、ある朝目覚めたらものすごい美人に変身。そこから始まる葛藤を描いたものでした。この映画をつくった監督は、主人公と同じ太めの女性です。自分のコンプレックスをあっけらかんと題材とした、彼女の姿勢に感動を覚えたと同時に、自分の作品がなぜ人に受け入れられなかったのかがわかった。自分のシナリオは、ただ単に、表面上のかっこよさとか面白さを追いかけていただけ。彼女のように、いい部分も悪い部分も、自分の内面を深くしっかり見つめ、さらけ出すことを全くしていなかったんです。

 その後、英語を話せずノイローゼ寸前になった自分を題材とした、一本の映画をつくりました。ハリウッドに憧れる日系人の俳優が、いろんなオーディションを受け続けるもいっさい採用されない。彼はあるオーディションで追いつめられ、気が狂ったような切腹の演技をする。結果、そのオーディションに受かるのですが、気持ちが吹っ切れすぎて、モヒカン頭にローラーブレードの形相でハリウッドとおりを叫び疾走するのです。この作品を大学院の映画祭で発表した時、僕は一番後ろの席で膝を抱えて怖々観ていたのですが、観客300人がストーリーに引き込まれていったのでしょう。上映中、劇場中が息をのんで静まり返ったり、口笛を吹いたり。上映後には、全員が立ちあがってスタンディングオベーション。自分をさらけ出してつくった作品が、共感を生み、しっかり受け入れられた。あまりの感動に鳥肌が立ちました。これは病みつきになるなと。

 4年間の留学期間を終えて帰国した僕は、いったん博報堂に復職。デジタルマーケティング部に所属し、IT系の新規事業をプロデュースしていました。社内ベンチャーを立ち上げ、インターネット事業「おでかけナビ」を手がけるなどしましたが、早く劇場映画を作りたいと思っていたんです。そうこうしているうちに僕も36歳になり、映画の世界に挑戦するならラストチャンスかと悩んで、ついにその思いが抑えきれなくなり、博報堂を退職することを決意。1999年に映画製作を主な事業とする、ボルテージを起業します。すぐに自作のシナリオと企画書を手に、考えつく限りの映画関係者に提案して回りましたが、まったく相手にされません。「新しい人はいらないよ」と、市場から拒絶されてしまったわけです……。そんな時、声をかけてくれたのが、NTTドコモさんでした。「携帯ゲームの企画を考えてくれないか」。そしてボルテージは、携帯コンテンツの世界へ足を踏み入れることになるのです。運命、だったのだと思います。

<ターゲットをシフト>
恋愛ドラマ「100シーンの恋」が大ヒット!
選択と集中が、5期目の黒字化をもたらした

 映画界に後ろ髪を引かれつつも、チャンスが与えられないのだから仕方がありません。スクリーンと携帯画面のサイズの差はあれど、人の心を動かすものをつくるコンテンツ・ビジネスという点は同じです。映画のノウハウをすべて使って、共感と感動を生みだす携帯コンテンツをつくろう。では、そのテーマは? 現代を生きている人たちの幸せとは何か? UCLAで悪戦苦闘を続ける中で、現代人の幸せは、「恋愛」と「戦い(挑戦)」に要約されるという結論を得ていました。恋愛とは、男女間のものだけではなく、友だち、親子、同僚など、人と人が互いに認め合うこと。戦いとは、社会で自己実現するための努力、ライバルとの切磋琢磨、新しい価値を生み出すための挑戦など、個人と社会の発展を促進してくれるもの。主人公も現実の人間も、この二つを実現させるべく、日々生きているのだと。

 最初につくった作品は、「Side-K」というマルチエンディング・ストーリーゲームでした。映画「ブレードランナー」のサイバーパンクのテイストを取り入れたSF調のゲームです。これが受けたんですね。その後にリリースした、終末後の東京での生き残りバトルを題材にしたマルチ対戦ゲームの「バトル東京23」も話題となり、第1回MCFモバイルコンテンツ特別賞を受賞。次作のオファーや出資の申し出が少しずつ増えていくことになります。携帯業界が伸びゆく新しい市場ということはわかっていました。ただし、ゲーム業界は昔から競合が多いじゃないですか。男性向けのゲームでは、大手ゲームメーカーに勝つことは難しい。会社設立から4年間は、赤字が続きました。そこでユーザーをしっかり見つめ直したところ、ケータイ・コンテンツのユーザーは女性のほうが断然多いことがわかった。そしてボルテージは選択と集中を決断し、女性向けにシフトしていくことになるのです。

 実は、2年目にに制作した恋愛ドラマ「100シーンの恋」が徐々にユーザーの気持ちを掴みそこそこのヒットとなっていました。これをベースに女性向けへのシフトを本格化させ、5期目に黒字化を達成します。それまでは、自分で企画書を書き、自分でプロットを決めて画面遷移を切って、基本的にすべてをやっていたんです。いってみれば、スタッフは僕のアシスタントでした。でも、会社の規模が大きくなってきて、この状態のままではまずいと。自分も長く携帯コンテンツに携わって、いくつかヒット作を手がけたこともあり、企業として成長するには、ここらで現場から一歩引かないといけない。いわゆるディレクターの立場から、プロデューサーの立場に泣く泣く下がったと(笑)。まあ、会社を成長させることも、ある意味ものづくり。もちろん経営はしんどいですが、面白い部分もたくさんあります。ただし、経営者は組織づくりが主な仕事で、ユーザーのニーズをしっかり見ることができなくなる。なので、個人として定期的に映像系のコンテンツに挑戦することで、ものづくりの本質を磨いていくようにしています。

<未来へ~ボルテージが目指すもの>
これからもボルテージらしさを忘れず、
オリジナルのコンテンツにこだわり続ける

 女性ユーザーが共感してくれる接点を探る。僕は男性ですから、それがなかなか難しい。当社の副社長に東さんという人がいて、僕の配偶者でもあるんですが、彼女がドラマをよく見て、恋愛小説もよく読む人なので、彼女の意見を聞き、僕の意見をぶつけながら、コンテンツをつくってきました。もちろん、自分自身も女性誌に目を通したり、携帯アンケートやグループインタビューで得たヒントを用いたりしながら、その接点をさぐる努力は続けています。また、各人の引き出しを増やすために、社員全員に月2回ほど回ってくる、90秒のプレゼンをさせています。基本、担当業務の改善を課題とするのですが、時に、女性の共感を得るための男のしぐさ研究調査とかもあります(笑)。ネクタイを緩めるしぐさにドキッとくるなんて、男の僕にはわからないですから。90秒という長さがいいんです。企画をまとめて、切り捨て、本質を伝えるために構成する。コミュニケーション能力を高める、よい訓練になっています。

 黒字化して数年経って10億円の売り上げ規模になると、30億、50億が見えてきます。当社は今年の6月に東証マザーズに上場しましたが、10億規模になった時から、上場できるならしたほうが良いと考えていました。良いものをつくり、お金を得て、さらに良いものをつくる。その成長スピードが上場によって格段にアップしますから。スマートフォンがどんどん増えていくと、ソーシャル要素と呼んでいるんですが、ドラマを受け取るだけではなく、人との交流が新しい面白さとなります。まあ、漫画を回し読みして、自分の好きなキャラクターについて語るとか、それと同じようなこと。ドラマの本論は忘れずに、そういったソーシャル要素をコンテンツに加味していきたいですね。ソーシャル要素だけに注力している会社はほかにもたくさんありますが、そこに上質なコンテンツを合わせることができるのは、当社しかないですから。

 現時点(2010年10月1日)で、公式サイトの課金会員が約110万人といった感じです。今の主なターゲット層は20代、30代の女性です。当初は高校生も狙っていたのですが、人口的にもボリュームゾーンは必然的に上がっていきます。そろそろ40代もターゲットになりますね。感覚として、すでに国内ターゲット層の半分くらいは獲得しているので、そのうち天井がきてしまう。なので、英語版、中国語版など、海外展開にも挑戦していきたいですね。映画は定期的につくっていきたい。長い歴史を持つ映画界には、ドラマのつくり方を始め、タレント事務所との交渉術、マスメディアへの活用方法など、学ぶことはまだまだあります。ゲーム好きの社員が多いですが、映画の教育を受けてきた人はほとんどいません。だから、僕と社員の戦いというかコラボレーションでやっていくと。それを間接的にですが、コンテンツの充実に結び付けていきたいんです。今後もボルテージらしさを忘れず、オリジナルのコンテンツにこだわって、アートとビジネスをワールドワイドに展開して成功している、「PIXAR(ピクサー)」のような会社に育てていきたいですね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
一歩を踏み出さない人に、いい景色は見えない。
試しでいい、勉強しながらやってみるべき

 僕はもともと起業したかったわけでもないですし、いまだにプロデューサーよりディレクターのほうが好きですからね。メッセージになるかどうか……。ただ、独立したいなら、自分の強みをしっかりと積み上げるということですよね。あと、「これは!」と思ってもらえる実績が必要だと思います。僕の場合でいえば、30億円規模のPR館をつくった、UCLA映画学部大学院を出たということでしょうか。日本でも数人しかいないことを実際にやってきたわけですから。まずは、自分のやりたいことで、できる範囲の努力をして実績をつくる。クオリフィケーション(適格性評価)といいますが、それがないと誰も話を聞いてくれない。人が認めてくれないと、いくらやりたくても、扉は開きません。そして一言で伝えられるクオリフィケーションを手にするためには、やはり何年間もかけて小さく努力を続ける持続力が必要だと思います。

 会社員の人に伝えたいのは、まずは自分の仕事で金字塔を立てること。与えられた仕事でもいいんです。そこから逃げずに、金字塔を立てるための工夫をしなければいけない。どうやったら勝てるのか、頭を使ってしっかり考えること。頭を使わないと、せっかくの努力が無駄になる。努力しているだけで報われると勘違いしている人、意外と多いんじゃないですかね。そして、負けないためには勉強をしないとダメです。僕も会社員時代に家に帰ってから、建築士の勉強を1時間、英単語の勉強を1時間、で、シナリオのアイデアを1時間考えて、深夜1時に寝るとか。休みの日は、リストに挙げた映画を片っ端から観に行くとか。そんなことを5年とか10年続けてきた。20代の頃はごろごろしている休みなんかありませんでした。野心があるなら20代は休んでいる場合じゃない。40代は体がついていかなくなるので、休んだほうがいいですけど(笑)。

 仕事で金字塔を立てるための努力と同時に、もうひとつ、何かのめり込めるものをつくっておいたほうがいいと思います。掛け算になりますからね。僕はシナリオ学校に通ったり、短編映画つくったり、仕事に多少近いこともありましたので、相乗効果がありました。しんどかったですけどね。仕事だけに埋没していたら、掛け算のアイデアは生まれなかったでしょう。そういうことを続けていれば、自然と挑戦すべきマーケットも見つかってくる。やっぱりインターネットの世界はとっつきやすいですし、お金もそれほどかかりませんから、コンテンツでも通販でもとりあえずちょっと試しにやってみる。それをしなくて、偉そうなことを言っていても仕方ない。映画をつくりたいという人に、「つくったことあるの?」と聞いて、「ない」と答えられたら、「本気じゃないなら、あっち行け」、ですよね(笑)。いずれにせよ、真剣にやりたいことがあるのなら、試しでいいから、勉強しながらやってみるべき。口だけの人には何も起きませんよ。一歩を踏み出さない人に、いい景色は見えないんです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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