第60回 South Pacific Free Bird 株式会社 谷口 浩

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

第60回
South Pacific Free Bird 株式会社 代表取締役社長
谷口 浩 Hiroshi Taniguchi

1972年、福井県生まれ。できるだけ早く実家を離れひとり立ちしたいと、大学は中国政府のスカラシップを活用し、中国・上海の同済大学物理学部へ進学。 1年後に建築学部に転部。4年目に自主退学し、香港へ渡る。大手ディベロッパーに採用され、富裕層相手に高級アパートを売りまくが、お金に興味がなくなり 退職する。その後、タイ・バンコクで施工管理技術者に。アジア金融危機に直面し、極貧生活に突入。帰国の航空券購入費用を、家業を継ぐことを条件に父に無 心。帰国後、父が経営する建設会社に入社するも、1年半後に父と衝突。財産放棄の書類に判を押し、実家との一切の縁を切りバイク1台で家出する。バイクの ガソリンが切れた金沢市で起業を決意、中国ビジネスに特化した、北陸対外事業協同組合を設立し、初代理事長に就任する。4年間で3億円を売り上げる組織に 育てたが、2002年、結果的に誤診ではあったが、白血病余命6カ月の宣告を受けたことで、人生観が変わる。「人生は有限である」同年末、ある事情で訪れ たフィジーに一目ぼれし、フィジーでの起業を決意する。すぐに理事長職を辞し、事業開始の準備に奔走。2002年3月、South Pacific Free Bird 株式会社を設立。格安英語留学のサービスが人気となり、今年は5000人の留学生を受け入れる予定。

ライフスタイル

好きな食べ物

フルーツが好きです。
何でも食べますし、好き嫌いもありません。特に好きなのは、フルーツですね。フィジーでは今の時期、サワーソップというフルーツが美味しいんですよ。カタ チはドリアンみたいで、味はジャックフルーツに似てるかな。ちなみにお酒も大好きで、飲む時はとことん、浴びるくらい飲みますね。

趣味

物理学です。 
大学1年で物理学部から、建築学部に転部していますが、いまだに物理学に関する本を読むのが好きですね。ちなみに、自分と友人とか部下との人間関係も、数 式化してエクセルで管理しています。僕の恋愛に関するエクセルシートを社員に見られちゃった時はかなり恥ずかしかったですが(苦笑)。物理学はこの世の森 羅万象すべてに関係している大切な学問だと思っています。

断食

自分への約束です。
ちょっと体がたるんできたなと思ったら、すぐに断食を始めます。たとえば仕事をしながら、1週間断食。その間は水しか飲みません。だいたい7、8kgほど 体重が減りますね。痩せるのが目的でなく、達成感を味わうのが目的なのですが、コミットしたことは必ずやり遂げます。過去には10日間牛乳だけで過ごした り、3カ月間生野菜だけしか食べなかったりしました。IPOするまで1日も会社を休まないっていうルールもそれに近いです。おかげ様で、土日どころか、お 盆も正月も働いてます。39度の熱出しても働いてますよ。今がそうです(笑)!●後日談「このインタビューの次の日、肺炎になりました」(谷口氏)

最近、感動したこと。

自分のスピーチに感動。
来年1月を目処に、フィジーのある島に高校をつくるんです。その説明をするために、島民200人に集まってもらって、英語でスピーチしたんですよ。「教育 をいつでも飲める水のように提供したいんです」と。もう拍手喝采で、スピーチを聴いてくれた島民の方々以上に、僕のほうが感動してしまいました(笑)。

欧米諸国の3分の1の価格で格安英語留学を実現!
南太平洋に浮かぶ島フィジーとの出逢いが始まりでした

 渡航費用を除き、2週間、たったの8万9800円で行ける英語留学があると聞いたらどうだろう。入学金、授業料は当然だが、なんと滞在費、食事なども含まれているのだ。このサービスが人気を呼び、今年は5000人もの留学生受け入れを予定している。元・英国領のフィジー諸島共和国で、そんな格安留学が実現する語学学校を運営しているのが、South Pacific Free Bird 株式会社。同社代表の谷口浩氏は、あるきっかけで訪れたフィジーで、深刻な少子化問題を目の当たりにした。学校には空き教室が拡大し、先生の雇用もままならない…。空き学校を有効活用でき、先生を雇用し、ホームステイ受け入れ先の家庭には対価を支払える。フィジー経済に貢献しながら、しかも欧米諸国の3分の1程度の費用で、英語留学を実現できる。この三方も四方も潤うビジネスが成功しないはずがないと考え、二度目の起業を果たしたのだという。谷口氏は言う。「将来的には、高等学校、大学の設立も視野に入れています」(高校設立についてはフィジー政府に申請済み)。今回は、そんな谷口氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<谷口暢宏をつくったルーツ1>
幼少期から強烈な反抗精神の持ち主。裕福な家庭に嫌悪感を抱く日々が続く

  父が福井県の小浜市で手広く事業を展開していましてね。その家の長男として生まれ育ったんです。正直、とても裕福な家庭だったと思います。でも、物 心ついた時からそのことがとてもイヤでしたね。勉強やスポーツができても、あの家の子ならできて当然と思われる。すべて父の手柄になっている気がして……。そのことも影響しているのかも知れませんが、親であろうが先生であろうが、人の言うことをまったく聞かない子どもでした。いまだにそうなんですけど(笑)。宿題もいっさいしませんでしたよ。だからいつも授業中に廊下に出されて宿題をやらされて。教室から漏れ伝わってくる先生の声を聞きながら、勉強していました。

 あまりに僕が人の言うことを聞かないので、小学校3年の時、担任の教師の勧めで母は僕を精神病院に連れて行きました。息子はどこかおかしいかもしれないので検査してくれと(笑)。もちろん大丈夫でしたけど! それから小学校5年まで、お寺に出されたんです。毎朝6時に起きて、お寺で座禅して学校に通うという。あと、父がラグビースクールの理事をやっていた関係で、そこにも放り込まれました。それでも僕の性格はまったく変わることはありませんでしたね。自分でもこの強烈な反骨精神がいつの間に培われたのかわからないんですよ。頭でもぶつけて脳の一部が圧迫されたんでしょうかね(笑)。

 高校までは公立です。中高では、ずっとサッカー部に所属していました。勉強はそれほど集中しなくても、なぜかできるほう。高校では生徒会長に選ばれています。で、何か改革をしようと考え、体育祭を廃止するための提案をしてみた。「学校は勉強する場なのだから、文化的でないことをする必要はない」という持論を掲げて。この時はかなりの反発を受け、生徒会長をリコールされそうになりました(笑)。言葉を使ったケンカも、拳を使ったケンカも大好き。自分の考えや力を認めさせたい。勝ち負けをはっきりさせたい。いつも人と衝突するための理由を探していたような気がします。

<谷口暢宏をつくったルーツ2>
スカラシップを獲得し、上海の大学へ。1年で物理学部から建築学部へ転部する

  親の世話になるのがイヤでイヤで、できるだけ早くひとり立ちしたいと考えていたんです。大学からは自分の力だけで生きていこうと決めていました。日 本国内のいろいろなスカラシップを調べたのですが、いくら成績が良くても親の収入が一定額あると奨学金が出ないことがわかった。親の納税証明書を提出しなければいけないと。じゃあ、海外はどうかと調べてみたら、そんなハードルはない。成績さえ良ければOKなんです。それで、日本で受験できる、いくつかのスカラシップに応募して、4つの大学から合格を得ることができました。その中から僕が選んだのは、中国・上海の同済大学物理学部。学費、宿舎費、食費が無料でお小遣いまでもらえる。一番条件が良かったんですね。ちなみに英語はできましたが、当時、中国語はまったく話すことができませんでした。

 同済大学の1年次にクルト・ゲーテルの「不完全性定理」を読んだ時、ものすごい気持ち悪さを感じて嘔吐しました。僕は世の中の事象をすべて数式で表すことができると考え、物理学を学んでいたのですが、ゲーテルの定理では仮に数式はできても代入が不可能であることを証明していました。こんな気持ちの悪い世界には生きてたくないとさえ感じました。自分が決めた目的が達成できないのであれば、これ以上物理学を追求する意味がない。それで友人のアフリカ人留学生から誘われて、2年次からは建築学部に転部しました。でも、結局は4年次に、また気持ちの悪い事実が発覚し、大学をドロップアウトします(笑)。たとえばA、B、Cという3つのアルファベットがあって、僕はBが一番デザイン的に美しいと思うんです。でも、選ぶ人によって感性というか、その基準はそれぞれでしょう。それと同じように建物をつくる以上、完璧なものをつくりたいじゃないですか。完璧なルールを探せない学問(何が美しいのかのルールすらなしに、美とは何かを学ぶ愚行)なら、建築をこれ以上学んでも意味がないなと……。で、知り合いのつてをたどって香港に行くんですよ。

 最初に居候させてもらったのは、アフリカ人6、7人が生活している8畳くらいのアパート。生活費を稼がないといけないので、新聞の求人欄を調べて不動産ディベロッパーの面接を受けに行きました。スーツは持っていませんでしたので、アフリカ人からド派手な紫色のジャケットを借りて(笑)。僕は英語、中国語、日本語ができて、建築も学んでいたので、それが評価されてイギリス本社の大手ディベロッパーに入社することになるんです。最初は設計業務を任されたのですが、語学が堪能だったので、すぐに営業部への異動を言い渡されました。

<香港からバンコクへ>
バンコクでアジア金融危機に見舞われ、 所持金の価値はいっきに4分の1に暴落

  富裕層を相手に高級アパートを販売するわけです。基本的に香港の新築アパートはスケルトン状態で売りに出されます。まっさらな室内をどうデザインす ればいいか、イメージを提案しながら営業するんですよ。しゃべりも得意でしたから、売れに売れましたね。営業を開始して、ずっとトップの成績を維持してい ましたから。成績が上がれば上がるほど、インセンティブも増えていきます。当時は毎月の手取りが日本円で200万円を越えていました。でも、お金が増える と、何だか満たされない気持ちがふくらんでいった。徐々にこの仕事がつまらなくなってしまって……。入社8カ月目に、退職届を出しました。人事部長からは 「辞めないでくれ」と泣きながら諭されましたが、「もう次の転職先が決まっているので」と嘘を伝えてその会社を後にしたんです。

 そして再びつてをたどって、今度はタイのバンコクへ。建設会社の施工管理技術者として働くことになりました。ちなみに給料は、日本円で月25万円という条件。でも、ここの社長がひどい人でして。彼が運転している車に一緒に乗っていた時、バイクをはねたんですよ。そのライダーはバイクごと横転して息も絶え絶えになっている。すると社長は車の窓を開けて、自分の名刺をポンと投げつけただけで、車から降りることもなく発進。「ああ、こんな人の下で働くのはゴメンだな」と。1カ月で退職したんですよ。それから数カ月、いろいろな仕事をしながら、バンコクに滞在していました。そろそろ帰国しようかと考えていたある日、アジア金融危機がタイを襲い、タイバーツが大暴落。なけなしの手持ち資金の価値が、1日で4分の1になってしまった。それで日本へ帰国するための航空券すら買えない状態に……。

 とりあえず換金できるものは何でも売ろうと、バンコクの質屋に駆け込みました。ニコンのカメラを売る時なんか、店で土下座して買ってもらいましたから。たったの50バーツでしたが……。それでも、まったくお金が足りなくて、ついに父に電話するんですよ。「航空券を買うために送金してほしい」「家業を継ぐなら送金してやる」「……わかりました」と。忸怩たる思いではありましたが、背に腹は替えられません。それで帰国して、父の会社に入社することになるんですね。

<フィジーとの出逢い>
スピード違反が重なり免許失効。運転免許を取得するためフィジーへ      

 父が経営する建設会社に入社して、設計をしたり、商談をまとめたり。でも、昔から家を離れたかったでしょう。だんだん我慢できなくなって、1年半後 に父と衝突。「どういうつもりだ」「もう続けられない」「だったら出て行け!」と。父からいっさいの財産放棄を認める書類を渡され、ハンコを押しました。これでもう親子の縁は切れたも同然です。当時乗っていたバイクにまたがり、荷物をまとめて実家を飛び出しました。行くあてもなく行ける所まで行ってみようと、高速に乗って。で、ガソリンがなくなりそうになったのが、石川県・金沢市近くのインターだったんです。

 高速を下りて、何かの縁だしこの街で起業しようと。もう誰かに雇われて働くつもりはいっさいありませんでしたからね。所持金は約100万円。その夜はサウナに泊まり、翌日早速マンションを契約して家財道具を購入。手持ちの残額はいっきに50万円を切りました。それなのに株式会社をつくろうと思ってたんですよ。でも図書館で調べたら、当時は1000万円の資本金規制があったため断念。まったく知識がなかったんです。で、さらに調べていくと、協同組合という組織の存在がわかった。資本金300万円くらい(実際は資本金に下限値なし)をすべて外部から調達しても良いと。それで、金沢の製造業の対中国ビジネスを支援する事業企画書を作成し、出資を募る営業を始めました。この街につてなどありませんから、すべて飛び込みで。30件弱を回って、そのうちの20社から承諾を得ました。その結果300万円の出資金を集めることに成功。北陸対外事業協同組合という組織を立ち上げ、初代理事長に就任したのです。

 主な事業としては中国の労働者に日本語や技術的な教育を施し、国内企業に労働力として提供していくというもの。これが非常に受けまして、4年後には3億円の売り上げを挙げるまでになりました。そんなある日、車のスピードを出しすぎてオービスに引っかかってしまった。それが同じ月に2度重なって、運転免許を失効……。車を運転できないのは事業を進めるうえで致命的。その上、組合はうまくいっていましたが、僕は相当組合員には嫌われていたので、それを理由に理事長リコールもあるかと(笑)。それで何かうまい方法はないか調べてみたのです。道路交通法107条の2項によれば、ある条件の元、海外で免許を取得すれば、その免許で国内の運転が可能だと。当時の話ですけどね。弁護士に確認したら、「確かに可能だ」と太鼓判ももらった。それで、長期間の滞在証明がなくても免許が取れる国を探したら、一番適しているのがフィジー諸島共和国だったんです。忘れもしない、2002年のクリスマスイブ。僕はフィジーに向かったのです。この旅が、新しい事業に結びつくとは思いもしませんでした。

今年度の目標は留学生5000人の受け入れ。
来年1月には高等学校の設立を実現させます!

<語学学校の設立へ>
余命6カ月の宣告を受けたことで、 本当にやりたいことが何かを探し始める

 フィジーはとても居心地の良い場所でした。気候は良いし、自然もふんだんにある。さらに人々がとてもフレンドリーなんです。ホテルを予約していたのですが、ほとんど毎日、村人の家に寝泊りさせてもらいましたから。そして無事にフィジーの運転免許を取得し、日本国内での運転も可能になりました。すると知り合いの弁護士が、「君と同じように困っている人はたくさんいる。この免許取得サービスを事業化したら絶対に成功する」と。それからその会社の設立準備を始めるんです。が、そんなある日、体調不良を起こし診察に訪れた病院で検査をしてもらったら、なんと白血病で余命6カ月と宣告されてしまった。当時付き合っていた彼女に、「もう俺は死ぬみたい……」と電話したことは覚えています。でも、その後の記憶はあまりないんですよ。

 それから大学病院で14日間の検査入院を受けました。そしたらですね、なんと白血病ではなく、サイトメガロウィルス感染症という病気だったことがわかったんです。結局は最初の病院の誤診でしたが、それに怒りを感じるよりも、この時は心底ほっとしましたよ。でも、死に直面したことで考えたんです。人生には限りがある。これまで自分は、自分にできることばかりをやってきたけれど、これからは本当に自分がやりたいことをするべきなんじゃないかって。フィジーは元・英国領で、人々はみな流暢なクイーンズイングリッシュを話します。また、2000年を期に人口減少が続き、学校が空き、先生たちも職を失っている。フィジーで語学学校を始めれば面白そうだと。教育事業を手がけてみたいという自分の思いにも合致します。それで早速試算してみたら、欧米諸国への留学費用の3分の1ほどの料金で経営が成り立つことがわかりました。

 すぐに行動に移しました。まず、免許取得サービス立ち上げに出資してくれていた仲間たちに事業内容の変更を伝え、ほぼ全員から許諾を得ることに成功。実は、サウスパシフィックライセンスという社名も決まり、定款やホームページまでつくっていたんですけどね。(笑)それから語学学校運営事業の提案書を作成し、フィジーの内務省、外務省、教育省、旅行省などに送付し、各省の事務次官に直接お会いしてプレゼンテーションしました。フィジーは観光事業以外の収益の柱となるビジネスを模索していたため、僕の提案はかなりの大絶賛でした。おまけに空き教室の有効利用、先生たちの雇用もついてきますから。事業許可を取得し、2004年の3月、まずは現地の専門学校と提携することでフィジー初の英語専門学校をスタートさせたのです。

<集客力強化への挑戦>
0歳の新生児から87歳のお年寄りまで、 今年は5000人の留学生受け入れを目指す

 ホームステイの受け入れ先確保、学校の整備、先生へのレクチャーなど、現地体制の構築は比較的順調に進んだのですが、反対に生徒募集は苦労しました。サイトを立ち上げさえすれば、申し込みが殺到するだろうとタカをくくっていたんです。フィジーへの渡航費用を除き、4カ月の長期留学で31万5000円(当時)。これは入学金、授業料、ホームステイなどの料金を含んだ価格です。これまでの常識では考えられないくらいの格安設定でしたからものすごい反響だろうと。最初の1学期の目標は60人。が、申し込みはたったの3人のみ……。これはまずいと広告を打ったり、チラシを配ったり。少しずつ反応が増えていったのですが、一番効果があったのはサイトのSEM対策ですね。リスティング広告を研究し、必死でサイトを調整しましたよ。ほぼゼロアクセスだった当社のサイトが、数カ月で10万を超えるアクセス数を集めるまでになりました。

 ちなみに、1年目の成約は70人でした。それでも利益が出たんですよ。この事業は確実にイケると確信しました。そしてその後、集客力強化のために、国内大手旅行代理店、ニュージーランド、オーストラリアの現地旅行代理店との提携。また、中国、韓国、モンゴル、タイ、インドネシア、バングラディシュ、パキスタン、ほか中東数カ国でのエージェント体制を確立していきました。これにより国内だけでなく海外からの留学生も増え始め、4年目の昨年は、3000件の成約、今年は5000件を越える勢いです。現在、現地には2校の語学学校があり、44教室を確保しています。先生の数は70人くらいですね。それでも時期によって、お断りせざるを得ないケースも出てきたので、この7月にあと12教室増やすんです。これで常時600人の生徒を受け入れることができますが、できるだけ早く1000人対応まで持っていきたいですね。

 フィジー経済への貢献も強まっています。学校があるナンディという町は3000世帯。ホームステイの受け入れや、先生の雇用などにより、この地域のGDPの3%ほどを当社事業でまかなっているようです。また、うちの生徒さんは0歳の新生児から87歳のお年寄りまで多種多様。子連れ留学など様々なプランをご用意していますからね。また、人生の転機として活用いただいているケースもたくさんあるんです。ネットカフェ難民に近い男性が、虎の子の貯蓄を使って短期留学してくれたんです。彼は留学を終え、なんと某一流企業に就職。その報告をしに来てくれた時は、本当に嬉しかったですよ。フィジーでの留学は普通の留学と比べると物質的に最低ですが、精神的には最高です。そんな環境が彼らに良い影響として出ているのは日々感じます。失恋からの立ち直りなんてのもフィジーならすぐですよ(笑)。そんな人たちのためにも、より格安で質の高いサービスを提供し続けていきたいですね。

<未来へ~“SPFB”が目指すもの>
来年の1月を目処に、高等学校を開校。そして5年後の目標は大学の設立

 来年1月を目処に、本島から船で1時間ほどのワヤライライ島で全寮制の高等学校を開校することになりました。目標としては、日本にたくさんいるアトピー性皮膚炎などで高校に通学できない子どもたちに教育を与えること。高校がないワヤライライ島の子どもたちに高等教育を与えること。ちなみに厚生労働省が確認できているだけでアトピー性皮膚炎患者が国内に100万人以上おり、その中でも症状が重く、学校に通えない、または通いたくない子どもたち約2万人以上がニート化しているのが現状だそうです。環境汚染のまったくない島に自然素材のみを使った学校を建設し、フィジーの子どもたちと、アトピーで悩み苦しむ子どもたちが一緒に教育を受けられる場ができればと考えたのです。

 日本人皮膚科医師によると、2、3週間くらいの滞在でアトピー改善の効果が目で確認できるそうです。またフィジー諸島共和国は、日本の文部科学省との取り決めがあり、在学中は日本の高校在籍と同様の待遇を帰国後に得られます。さらに、2年間以上の在籍者には文部科学省より「帰国子女」の認定を受けることができ、大学受験の際、帰国子女枠での受験が可能となります。人気のSNSサイトなどでも、アトピーに関するコミュニティがいくつもあり、本人や親御さんの悩みはそうとう深刻です。アトピーで苦しんでいる、ひとりでも多くの悩みを解決できれば嬉しいですよね。

 今は英語留学のサービスに専念していますが、将来は中国語留学も手がけていきたい。中国もフィジーと同じように少子化で悩んでいますし、ビジネスモデルやカリキュラムはそのまま使えます。先日、北京近郊の町をモデルに試算してみたんですよ。1月の留学費用、13万6000円。どうです、安いでしょう。1年間なら100万円を切ることも可能です。たとえば畑を借りて、みんなで農作業して、料理もつくる。そうすればみんな楽しいですし、さらにコストを削減できますよね。もうひとつの目標としては、5年後を目処にフィジーに大学をつくりたい。言ったことは必ず実現させますから、ぜひとも期待していてください。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業に向いている人、いない人なんていません。一番大切なのは、現状を捨てられる勇気です

 起業しようと思っている人って、ほとんどの人が起業しないんじゃないですか? そもそも、このような記事を読んでいる人ほど、起業しないって気がします。すみません(笑)。でも、人生は必ずいつか終わります。それが何十年も先なのかもしれないけれど、もしかしたら明日かも知れません。みんなそのことを気づいているのに、なかなか動こうとしませんよね。やりたいことがあるなら、今すぐに一歩でも前に進もう、少しだけでも動こうと言いたいです。まず起業前の訓練として、いろんな仕事をやってみて、合わなかったらすぐ止めてほかにいく。石の上にも3年とかいいますが、1週間やってみれば自分にとって合うのか合わないのかがわかりますよ(笑)。

 人から言われて、自分ができること、得意なことはみんな知っていると思います。でも、やりたいことって自分の内側にあるものですから、見つけることはたやすくありません。そういった意味でも、いろんな経験をどんどんしてみないといけないでしょうね。起業に向いている人、いない人なんていませんよ。頭の良し悪し、男女の差なんてまったく関係ない世界です。やりたいことが明確で、そこにモチベーションを維持することができれば、誰だって起業を楽しめるんじゃないでしょうか。僕は本当にそう思っています。

 起業してみてわかったことがあります。主観ではありますが、起業家と経営者は別物だということです。僕は確実に起業家タイプですから、全体をまとめる経営者は信頼できる別の人間に任せています。経営者はやはりしっかり勉強をして知識を蓄積していかないといけません。そして起業家である僕は、いってみれば切り込み隊長のようなものですね。やりたいことをどんどん見つけて、運、不運にさらされながら前へ進んでいくという。そのタイプの差は、考えておいたほうがいいかもしれません。あとは、現状を捨てられる勇気を持つことです。思いはあってもなかなか起業できない人って、現状を捨てることが難しいんでしょうね。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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