第130回 シブヤ経済新聞 編集長/株式会社花形商品研究所 代表取締役社長  西 樹

起業家インタビュー

執筆者: ドリームゲート事務局

目次

第130回
シブヤ経済新聞 編集長/
株式会社花形商品研究所 代表取締役社長

西 樹 Tateki Nishi

1960年、兵庫県生まれ。尼崎の下町で、多様性に包まれながら幼少年期を過ごす。青山学院大学経済学部在学中、インターカレッジのイベント・ネットワークの発起人のひとりになる。大学卒業後に大手PR代理店・株式会社オズマピーアールに入社。3年で退職し、1988年、株式会社花形商品研究所を設立した。各種企業や新商品・サービスのコミュニケーション戦略の立案・代行を、パブリシティー戦略とプロモーション戦略を駆使しながら多数手掛ける。2000年4月、広域渋谷圏のビジネス&カルチャーニュースを配信する情報サイト「シブヤ経済新聞」を開設、同年7月にはデパ地下をテーマにした情報サイト「デパチカドットコム」を開設。「シブヤ経済新聞」は全国各地に広がりをみせ、個性的な街や繁華街など国内58エリア、海外4エリアに街メディアのニュースネットワークを拡大中。

ライフスタイル

好きな食べ物

ソースものです。
根が関西人ですから、たこ焼き、お好み焼き、焼きそばなど、ソースものが好きです。確実に、もんじゃ派ではないです(笑)。子どもの頃、近所で4個10円のたこ焼き屋がありました。100円玉を握って店に行き、40個も食べた思い出もあります。当時は平気で食べられましたね。お酒はワインが好きです。最近はビオワインにちょっとハマっています。産地やブドウの種類とかで味が違うでしょう。知識欲を満たしてくれるのも醍醐味ですね。

趣味

街歩きです。
今は会社も自宅も東京の恵比寿にあります。渋谷エリアには、果てしなくお店が続いてあるので、歩くたびに発見があります。NHKでやっている散歩の番組「ブラタモリ」ではありませんが、デジカメ片手に街をぶらぶら散歩するのが好きですね。知らない店を見つけたら店に入って、「これ何ですか?」とか「何でこのお店を始めたのですか?」とか、お店の人といろいろ会話する。「シブヤ経済新聞」編集長としての仕事でもありますが、それが趣味になっちゃった(笑)。

行ってみたい場所

海外の「みん経」展開都市です。
「みんなの経済新聞ネットワーク」は現在、国内58エリア、海外4エリアで展開しています。日々更新される各地のニュースを見ていますから、自分がその街にすでに行ったことがあるような気になっちゃうんですよ(笑)。国内は結構訪れましたが、海外はまだニューヨークだけ。バンコク、シンガポール、バンクーバーにはぜひ行ってみたいですね。自分が思っているイメージとのギャップを確かめるって面白いじゃないですか。

お勧めの本

『日本凡人伝』(弓立社)
著者 猪瀬直樹
アンカー
若いころに読んだ一冊。月刊誌『STUDIOVOICE』の人気連載だった、猪瀬直樹さんの「日本凡人伝」をまとめた一冊。物議を醸し出す男・猪瀬さんが、有名人でも何でもない普通のサラリーマンを直撃インタビューするという内容です。登場するのは、電車の運行表をつくるスジ屋、出版社でトラブルを一手に引き受ける男など。彼らを時に本気で怒らせながら、巧みに本音を引き出すインタビュー術はさすがです。解説を挟みながら進める対談形式の編集構成も読み手をぐいぐい引き込みます。内容の面白さももちろんですが、様々なコンテンツづくりの際、参考にできる良書です。

「シブヤ経済新聞」から始まった活動は今、
国内58エリア、海外4エリアでニュースを配信中

 渋谷から始まった活動が全国、そして海外へ。「シブヤ経済新聞」とは、PR会社・花形商品研究所の代表を務める西樹氏が2000年4月に立ち上げた、広域渋谷圏と呼ぶ「渋谷」「青山」「原宿」「代官山」「恵比寿」の街ネタを提供しているニュースサイトである。ためしに一度アクセスすると、そのニュースの狙いの確かさからリピーターになる人が多いという。そして2011年3月現在、同サイトは国内58エリア、海外4エリアの「みんなの経済新聞ネットワーク」に広がった。「最近、僕らは『街の記録係』と呼ばれているんです。事実を記録してひたすらニュースを書き、それを蓄積していく。シブヤ経済新聞はもう10年を過ぎまして、シブヤに関する情報が一番集まっている自負があります」。今回はそんな西氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<西 樹をつくったルーツ1>
小学4年生の時に開催された大阪万博に
強烈なインパクトを受けた少年時代

 生まれは兵庫県の尼崎です。路地や商店街のある昔ながらの下町で、ご近所さんが家に勝手に上がってくるようなところです。一人っ子だったのですが、毎日わさわさとにぎやかで、まったく寂しくなかったですね。僕が子どもの頃は、ネットやテレビゲームなどありませんでしたから、外でサッカーやったり、野球やったり、公園に行って遊んだり。友だちには商店街の子もいれば、お父さんが恐い職業の子がいたり……。友だちだけじゃなく、近所のおじさんやおばさん、いろんな人たちと関わり合いながら過ごしていました。そうしたこともあり、ごちゃごちゃした多様性を感じられる環境にいると居心地がいいんですよね。でも、昭和30年代生まれで、商業地のそばで育った人ってみんな、けっこう同じ感覚なんじゃないでしょうか。

 小学4年生の時、大阪万国博覧会が開催されました。おそらく日本で初めての大がかりな博覧会。何にもなかった千里の丘に、パビリオンの施設がどんどん出来上がっていく。万博って、世の中のニーズからすると別になくてもいいものですよね。でも、こんな巨大なものができること自体にものすごいインパクトを受けました。そして6000万人以上もの人々がこのイベントに訪れたわけです。子ども心ながら強烈に、大人になったらこんなイベントに関わる仕事をしたいと思いました。この頃は、まだ広告代理店やイベント会社の存在を知らないですから、当時は建築家をイメージしましたが、残念ながら理系の才能は乏しかった(笑)。そういえば今年は、太陽の塔の作者である岡本太郎さんの生誕100周年ですね。

 高校は大阪の私立に進学しました。大阪万博跡地のちょうど真北にあって、学校の窓から太陽の塔の背中が見える。だから、3年間ずっと太陽の塔を見続けながら、高校生活を送っていたんですよ。ここはちょっと変わった校風で、部活動は男子がサッカー、女子がバレーボールしかない。体育も自ずと男子はサッカー。そういえば小学校時代も少年サッカーチームに所属していました。当時は野球に比べ目立っていませんでしたが、サッカーには親しんでいました。どの家のお父さんも新聞を読むと思いますが、うちの父は特に新聞をじっくり読むタイプでして。その影響か、僕もよく新聞を読んでいました。そんな理由から、某大学の新聞学科に行きたいと思っていたんですね。もちろん受験したのですが、その大学からは2度も振られてしまいました(笑)。

<西 樹をつくったルーツ2>
青学への進学がきっかけとなり、
長く続く渋谷との関係が始まっていく

 結局、青山学院大学の経済学部に進学したのですが、当時は4年間ずっと青山キャンパスでした。渋谷駅から歩いて大学に通い、飲み会も渋谷や原宿、当時は大学の周りに雀荘もありましたね。そういえば、5年くらい前から毎年1時限だけ、青山学院大の2年生に向けた講座を持たせてもらっています。内容は主に、3年から始まる青山キャンパスでの生活に向けて渋谷の街を解説する内容。渋谷はたくさんの店や様々なカルチャーが集積した多様性・ダイバーシティの街。大学だけじゃなく、街全体をキャンパスと考えて過ごせばいろんな経験ができる。300人くらいを前にそんな話をしているのですが、かならず数名は居眠りしている学生がいます。ものすごく頭にきますが、僕も学生時代は同じでしたから、因果応報というのは本当ですね(笑)。

 大学時代はアルバイトと学生イベントなどのプロデュース活動に没頭していました。昔からラジオの深夜放送が好きだったんですね。最初はラジオ関東(現ラジオ日本)に潜り込み、プロ野球実況放送用のスコアシート書きのバイトなんかをしてました。だから、今でも野球のスコア書けますよ(笑)。その後、文化放送で「ミスDJリクエストパレード」という深夜番組のADをやっていました。当時、こうした業界の学生バイトは日芸(日本大学芸術学部)の学生がほとんどで、最初は「何で(普通の大学の君が)ここにいるの?」と怪訝な顔をされたのを覚えています。深夜放送が終わって「走れ歌謡曲」という番組で演歌のレコードを何曲かかけて、やっと終了。それからバイト仲間と四谷・荒木町あたりへ飲みに出かけて夜明けを迎える……。バイト代は大体それで消えていました(笑)。

 大学1年生の時、広告研究会(広研)というサークルに所属していました。2年になる前、ある雑誌の創刊イベントの話が持ち上がり、いろんな大学の広告研究会やプロデュース研究会の学生たちが集められました。ところが、そのイベント自体がいろいろな事情で中止になってしまったんです。その時に声をかけられて集まっていた他大学の学生たちと意気投合して、7大学の学生で学生の企画ネットワークを結成。そっちの活動がどんどん忙しくなって広研を抜けました。各大学のミスコンテストの協賛コーディネートをしたり、学生対象のいろいろなプロモーションを仕掛けたり……。異なる大学の仲間たちと夜を徹してアイデアをぶつけ合うのは、今思えばとても楽しい時間でしたね。

<PRとの出会い>
古本屋でやっと見つけたPRの専門書。
読み込んで面接受け、見事内定ゲット

 学生時代の活動拠点は、最初は知り合いの会社の空きスペースを借りたりしてミーティングをしていましたが、「自分たちだけの場所が欲しいよね」という話になって、渋谷・道玄坂のマンションの一室を借りました。それからは、大学に行くより事務所に行く日のほうが多くなりました(笑)。僕はアイデアを考えることも好きですが、それを企画書に落とし込むこともよくしていました。当時はワープロもまだない時代。だから、方眼紙に製図用の定規で線を引きながら、手書きで企画書をまとめていました。あの頃は景気も良かったし、大学生は消費ターゲットとして一番注目されていた時代でしたから、いろんな仕事がありましたね。それで、企画書を手に広告代理店にプレゼンに行っては仕事めいたものをもらう。担当者の方々からはけっこう重宝がられていたと思います。

 ただ、学生ですからお金儲けの点では、なかなか気が回らない点が多いんですね。今の学生起業家の皆さんは、その辺はすごくうまくやっていると思いますが、僕らは金儲けよりもとにかく面白いことを、という感じでした。あるアーティストのライブを開いたのですが、イベントのつくり込みに一生懸命になりすぎて集客がさっぱりで大赤字。支払うギャランティが足りなくて、数カ月活動を休止して、スタッフ総出でアルバイトしてお金を用意したり(笑)。今思えば、仲間と面白いことを企てたり、そのアイデアをかたちにしたりすることが好きなやつばかりでした。彼らと一緒に頭を捻って知恵を出し、アイデアをつくり続けた時間は本当に得難い経験となりました。

 そんな生活を送っていると、やっぱり広告代理店に就職したいと思うんですね。でも、僕が大学生の頃は広告代理店の就職人気が絶頂期で、相当なコネがないと採用されない状況。そんな頃、学生イベントの活動を通じて「広報」という仕事があることを知りました。ただ、その仕事を調べようと思っても、まだ日本には専門書がほとんどなかった。やっと神保町の古本屋で見つけたのが、『PRハンドブック』という分厚い和約本でした。その本には、アメリカの会社にはPR担当のバイスプレジデントが存在するなど、広告よりもPRのほうが上位概念に置かれている、と書かれていました。日本でも未来のポテンシャルを感じて、就職先はPR会社に的を絞りました。

<起業>
新卒で入社したPR会社を3年で退職。
起業2年目に念願の博覧会企画に参加

 当時は、広告とPRの違いを面接で説明するだけでも採用が有利になる時代でした。それで、大手のPR会社数社から内定をいただき、結果、オズマピーアールにお世話になることを決めました。会社の車庫に、ほこりをかぶった古い原付バイクがあるのを見つけ、それを足にして東京中の新聞社や出版社を回っていました。電話をもらったら「今から30分で行きますので」とか言って(笑)。とにかく、いろんな媒体の編集者の方々とコンタクトを取ってコミュニケーションするのが楽しくて仕方ありませんでした。

 ただ、PR会社では、クライアントから投げられたお題を、媒体にいかに載せるかという役割が中心になります。自分としてはもう少しさかのぼって企画立案の段階から関わりたくなりました。そうした思いや、当時バブル期のただ中ということもあり会社を退職することにしました。退社後、1年ほどはフリーのプランナーとして動いていましたが、口座の問題などもあり、1988年に会社をつくったというわけです。当時は広告代理店やPR会社を辞めて独立するプランナーが結構多く、「○○プランニング」など、英語横文字の社名が多かった。でも、自分の会社の社名はもうちょっとこだわりたいじゃないですか。

 それで、社名の中に縦書きを織り込もうと考え、「商品研究所」というくくりを先に考えました。じゃ、その上に何を置くか。そんな話を飲みながら知り合いとしていた時に、「花形商品」という言葉がパっと浮かんだ。それを組み合わせて「花形商品研究所」に決めました。「お客様の商品を花形商品にして差し上げます」がコンセプト……後付けです。何をやっている会社かすぐにはわからない怪しげなところもいいでしょう(笑)。幸いなことに、時代の勢いもあって仕事はそこそこありました。最初の1年は、大手代理店の下で、横浜博覧会の某空間の企画・運営にどっぷり携わっていました。少年時代、大阪万博に憧れた思いをひとつ成就できたという意味で、因果を感じましたね。

●次週、「趣味で立ち上げた『シブヤ経済新聞』が全国ネットワークへ!」の後編へ続く→

「街の記録係」として、いつまでもどこまでも。
消費経済のニュースで街を盛り立てていく

<「シブ経」誕生>
渋谷のリアルな変化を伝えるメディア。
ラジオとのコラボで足腰を鍛える

  もちろん、会社を経営していると当然浮き沈みはあります。バブル崩壊後のサバイバル、手形による資金繰りの苦労、銀行の貸し渋り、過剰な貸し付けなど、多くの中小企業経営者が経験するであろうピンチも一通り経験してきました。例えば、起業後に初めて手形を受け取り、それをどうやってキャッシュにするのか。のんきに銀行に持って行って初めて「手形割引」という制度があることを知りました。よく考えてみれば、勤め人の間は手形なんかに一度も出合っていないので、全くの予備知識なく手形を受け取ってしまったわけです。これから起業を目指す分野が手形での支払いがある業界だとしたら、手形のことはよくよく勉強しておくことをおすすめします。起業後のフィールドは、知識がないからといって許してもらえる世界ではありませんから。

 青学に入学したことで、渋谷と縁ができて、最初に入社した会社も外苑前、当時の自宅は自由が丘でしたから、渋谷が常に起点というか、僕にとっては基地みたいなもの。そんな大好きな街、渋谷の変化が気になり始めたのが、2000年の前くらいですね。ビットバレーと呼ばれてITベンチャーが集まり始め、マークシティの建設が始まると更に街がぐちゃぐちゃになって……。そんな渋谷の変化をリアルタイムで知りたいと思ってもメディアがない。だったら自分でつくろうと単純に考え始めました。ビジネスモデルとかいうレベルでなく、自分が欲しいと思ったメディアですね。僕の場合、頭の中のフォルダーに、うまいネーミングがつくと、そこに少しずつアイデアが蓄積されていくタイプです。そのフォルダーの名前の一つが「シブヤ経済新聞(シブ経)」でした。そうはいっても、紙の新聞を出すほどの資金はない。当時は本業のPRとSPの仕事にWeb制作が加わって、Web専門のスタッフもいましたので、「だったらWebサイトで」ということになったんです。

  そんな話をしていたところに、渋谷をテーマにした番組を考えていたJ-WAVEとタイアップが決まり、毎週1回30分枠の番組で渋谷の今を伝える番組で話をさせていただくことになりました。1回目の放送は2000年の4月7日。この日に合わせて「シブ経」のサイトも立ち上がりました。この放送は足かけ5年続いたのですが、オンエアに合わせて毎週1本の特集をつくっていました。本業の仕事をこなしつつ、渋谷界隈を歩いてネタを見つけ特集記事をつくり、ラジオで話をしなければならないので非常に大変でした。でも、今思えば、これが「シブ経」の足腰を鍛えてくれました。言ってみればペースメーカーのようなもの。言い方を変えれば、途中で勝手にやめられなくなりましたからね(笑)。

<街の記録係として>
一つの街を取材し続けていくのは面白い。
街との関係の広がりが新しい価値を生む

  僕は広域渋谷圏というように呼んでいるのですが、渋谷と青山、原宿、代官山、恵比寿あたりまでは街同士がゆるくつながって動いている、日本でも珍しい商圏だと思っています。だから、「渋谷」ではなく片仮名の「シブヤ」としてエリアを意識しています。経済新聞ですが、僕らが対象とするのは、渋谷にある飲食店やギャラリーなどで動く消費経済のネタがメインです。そんな街ネタをニュースに仕立てて発信していく。メディアを世に発信すると決めた以上、継続させることは絶対です。なので、無理はせず、できることしかやらない。取材先を持ち上げない代わりに、記事への対価としてお金はもらいません。事実を伝え残していくのが「シブ経」の役目ですから。ところが、取材依頼をすると、「じゃあ、お前たちはどうやって稼ぐんだ?」って、ずっと怪しまれていましたね(笑)。

 ほとんど利益を生まない取り組みでしたから、スタート当時にいたスタッフからはよく怒られました。「社長、もっと本業の仕事に注力しください」って。でも、まぁ、社長の趣味の盆栽みたいなものだから許してよってね(笑)。なので、確かに大変なんですけど、街を取材し続けていくのは、これがものすごく面白いんです。地域のいろんな方々との関係が広がって、情報を吸収しながら発信していくと、更に新しい価値が生まれていく。例えば記事で紹介した店に「シブ経」を見た読者が来店し、いくばくかのお金を落としていく。そうやって店側からも喜ばれ、街の発展に微力ながら密接に関係していく。街で活動している方々との出会いと、その関係の広がりが大きな価値なのだと思っています。

 最近、僕らのことを「街の記録係」と呼ぶ人もいます。事実を記録してひたすらニュースを書き、それを蓄積していく。どんどんシブヤの情報を記録し、未来に残し続けていきたいと思っています。テキストと静止画という情報の構成はとてもシンプルですが、データとして軽いじゃないですか。だからこそ、かなり先まで残していくことができるんじゃないかと思うんです。100年後、シブヤに興味を持つ人が、「シブ経」のアーカイブを見たらどう思うだろうと考えると、ちょっとワクワクしますよね。

<未来へ~シブヤ経済新聞が目指すもの>
取材の腕に磨きをかけながらコツコツと、
文殊の知恵で「みん経」を進化させていく

  2004年、渋谷の知人が横浜に拠点を移すというので、「試しにやってみようか」ということになり、「ヨコハマ経済新聞」が立ち上がりました。その後、J-WAVEが六本木ヒルズに移転した2005年に「六本木経済新聞」が生まれ、現在までに、国内59地区、海外4地区に広がり、「シブ経」をフラッグシップサイトとした「みんなの経済新聞ネットワーク(みん経)」に成長しました。既存のサイトや興味を持たれた方からの問い合わせがありますが、必ず最初にお会いしてじっくりコンセプトについてお話しをさせていただきます。Web制作会社、印刷会社など、やはり情報産業関連が中心です。大きなキャッシュは生みませんが、ブランディングや信用につながること。また、続けていくことで価値が広がっていくこと。「始めたけど儲からないのでやめた」では困りますから。そこをしっかり理解していただいた方とご一緒させていただくようにしています。

 ちなみに、デパ地下をテーマとした情報サイト「デパチカドットコム」も2000年7月から運営しています。ドメイン取得が流行っていた頃、「deapchika.com」を検索してみたら、たまたま空いていたからというのが始めた理由です(笑)。こちらも無理せず続けていますが、今では「デパ地下」で検索すると常に一番に表示されるサイトになりました。話を「シブ経」に戻しますが、無理しちゃいけないけど、やはり情報を掘り下げていく必要はあります。リリースもたくさんいただくようになりましたが、やはりこちらがハンターになって情報を取りに行かないと面白くなりませんからね。「シブ経」の読者は全国にいます。シブヤの街には流行の元になるアイデアも多いので、ほかの場所でも使える情報が見つかると思います。

 渋谷のキャットストリートに、「オンリー・フリーペーパー」という店ができたのをご存じですか。全国から選りすぐったフリーペーパーを展示配布しているユニークな店ですが、まだ収益モデルが明確じゃない。僕らと同じで、そのオーナーは走りながら次の一手を考えるタイプ。渋谷で新しい挑戦をする、彼らのような若者は多いんです。そんな活動をニュースの力で応援したいですね。「みん経」は今、月間700~800万PVのサイトですが、まだまだ取材の腕に磨きをかけながら、コツコツと続けていくことが大事ですね。「みん経」の運営社には、いろんな業種の方々がそろっていますから、ある種の異業種ネットワークにもなっています。年に1回、日本のどこかで「みん経」の関係者が一堂に集まるオフ会も開いています。そんな仲間たちと、「文殊の知恵」で「みん経」を進化させていく。Webの中では正解は一つではないので、こうして進化し続けていくことが大事ですね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
誰にも負けないテーマを見つけたら、道半ばでも旗を上げてみましょう

  インターネットビジネスを想定しているなら、どこまでも深堀りしてみることですね。徹底的に専門特化して、線は細くても絶対に誰にも負けないようなもの。ゼネラリストのままではダメだと思います。ネット時代の宿命ですが、検索結果で一番を取れるようなキーワードがないと続いていかないでしょうね。起業は継続を前提として始めるものでしょうから、やっぱり自分が好きなものを選んだほうがいい。お金儲けに走ると、儲からないと判断した瞬間に終わってしまいます。僕も「シブ経」を始める前は全方位型で新しい情報を探し、集めることが好きでした。でも、今では渋谷以外の場所で大きな話題があっても、あまり食いつきません(笑)。それよりも、渋谷エリアをぶらぶら歩いて、気になるネタをワクワクしながら探していたい。そんな、自然と自分が対象に向かい合えるようなテーマを探してみてはいかがでしょうか。

 渋谷に以前、映画「スター・ウォーズ」をテーマにしたカフェを開いた人がいたのですが、その人は実はファン歴がそれほど長くなかったんです。でも、その店にはスター・ウォーズマニアのオーソリティたちが集うようになった。そうしたら、そのオーナーもどんどん詳しくなっていって、徐々に店も人気を集めるようになっていった。ついには、映画出演していた俳優が来日した際に、ふらっと立ち寄る店になってしまったという事例もあります。完璧に準備して始めるのではなく、何かイケそうなテーマを思い立ったら、勇気を出して自分の旗を上げてみることも時には大切です。そのカフェのオーナーのように、道半ばでも、好循環が生まれるやり方だってあると思います。

 渋谷には飲食店や物販店がひしめき合っています。宇田川町辺りにも個人オーナーが運営するいい店が多くあったのですが、ビルの建て替えなどの影響でどんどん少なくなっています。でも、コンセプトが明確な店は生き残っています。例えば、トイカメラ専門店とか。地方の街では難しいもしれませんが、東京は専門特化した店でも何とかやっていける可能性のある巨大なマーケットです。かつて渋谷にあったブルース・リー・グッズ専門店の主人が「全国には10万人のマニアがいる。うちはその半分を押さえている」とおっしゃっていました。つまり、マーケットは小さくてもシェアをとれれば成立する分野はまだ残されているはずです。もちろんマーケットの見極めは必要ですが。あとは、1店舗だけコツコツ続けるか、マネージに徹して多店舗化を目指すのか。この辺りは店だけでなく、どんなビジネスでも同じだと思いますので、自分のキャラクターをしっかり把握しておかないといけません。何をするにせよ、自分が続けられるテーマを見つけること。そして自分のキャラをじっくり見つめ直すこと。その二つがそろったら、ぜひ旗を上げてみましょう。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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