第129回 BEACH 葉山アウトドアフィットネスクラブ® (アウトドアフィットネス株式会社)  黒野 崇

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第129回
BEACH 葉山アウトドアフィットネスクラブ®(アウトドアフィットネス株式会社)
代表取締役

黒野 崇 Takashi Kurono

1970年、神奈川県で生まれ育つ。幼稚園から始めたサッカーにのめり込み、18歳まではサッカー漬けの日々を送る。小学生時代は、日本代表として韓国代表と対戦。高校2年時には、全国高校サッカー選手権に出場。ベスト16に食い込んだ。高校卒業後は日本体育大学の健康学科に進学。ライフセービング部に所属し、人命救助、安全管理を通じて「いのちの大切さ」を学ぶ。大学卒業後、病院経営のフィットネスクラブに勤務。「なるべく病院に頼らない、薬に頼らない身体づくり」を提案する予防医学の現場に長く携わった。そこで得た経験値と、サーフィンなどアウトドアスポーツをとおして知った「自然の中で身体を動かす心地よさ、楽しさ」の合致点を模索し、「アウトドアフィットネス」(商標登録)という新たなマーケットの開拓を決意する。2007年6月、法人登記。同年9月14日、「BEACH葉山アウトドアフィットネスクラブ®」をスタート。早期に事業経営を軌道に乗せ、さまざまな企業・個人事業主とのコラボレーションも実現。今もさまざまな業界・分野から注目を集めている。

ライフスタイル

好きな食べ物

地魚、地野菜など新鮮な食べ物。
好き嫌いはいっさいありません。やっぱり、地場で取れる野菜、魚など、フレッシュな食材が好きですね。コンビニのおにぎりではいい発想は生まれない。新鮮なものを食べると、ひらめきや発想が豊かになるように感じます。フレッシュなものをシンプルに食べることを心がけています。お酒も好きで飲みますが、二日酔いには要注意。翌日の仕事に出遅れるし、また「いい波」も逃してしまいますからね。(笑)。

趣味

「サーフィン」「アシュタンガヨガ」「読書」「パドリング」です。
サーフィンやパドリングなど、趣味がそのまま仕事になっていますから、趣味と聞かれれば仕事の一部でもあります。その中で最近行っているのが「アシュタンガヨガ」。これは深いです。繰り返し同じポーズを決めるのですが、昨日できなかったことが今日できる、今日できたことが翌日できない……。自分のメンタル面や体のコンディションが、ものすごく投影されるんです。毎週土曜日の朝、「アシュタンガヨガ」というルーティンワークに没頭して、自分自身の1週間を振り返ることを習慣にしています。時間がある時はいつも読書。この10年間テレビをもたない生活を続けています。

行ってみたい場所

世界中のビーチカルチャーを見てみたい。
カリフォルニアやオーストラリアなど、今でもサーファーやクライマー、ヨガを愛する人の集落があるんですよ。彼らは太陽の下で、自分たちの好きなことを思い切り楽しみながら、とてもシンプルに生きている。そんな場所に赴き、彼らのライフスタイルに触れることで、「本当に必要なこと」を再確認してみたいと思っています。

お勧めの本

歴史もの、戦国時代の本が好きでよく読みます。
中でも、千利休の話にとても共感を覚えます。戦いが繰り広げられた時代に、茶の湯の文化を創出した利休。日本を創り上げた偉大な人たちの中にも、利休から学ぶ人が多いと聞いています。アイデアが出ない時はいつも「昔」に戻ります。昔を尊重することにより新しい発想が生まれる。温故知新ですね。利休について書かれた本をまだ読まれていないなら、ぜひ一度読んでほしいと思います。

アンカー

「アウトドア」×「フィットネス」。
自然と対峙しながら楽しむ新・健康増進サービス

 アウトドアをこよなく愛する起業家、黒野崇氏。長年、フィットネスクラブや一次予防の現場で運営に携わり、いつも疑問に感じていたこと。「なぜインドアだけなのか?」。従来日本では非日常のレジャーとしての「アウトドアスポーツ」が、神奈川県・葉山町の住民の日常生活に取り入れることができるか? アウトドアとフィットネスを融合した考え方、その可能性を求めて、徒手空拳のテストマーケティングを開始。その2年後に誕生したのが、「BEACH葉山アウトドアフィットネスクラブ」である。黒野氏が創出した「アウトドアフィットネス」という新市場は、自身の予測を超えるスピードで世の中に浸透し続けている。「自分が考えるビジネスモデルは、40坪程度の場所を確保し、500人の会員が集まればOK。初期投資は通常のフィットネスクラブの10分の1、ランニングコストも3分の1以下で済む。利用するのは世界一大きなプールである海(笑)、また、公園や里山も自由に使えるという冗談みたいな提案です」。今回はそんな黒野氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<黒野 崇をつくったルーツ1>
横浜、鎌倉の自然と遊んだ少年時代。
サッカーにのめり込む日々が始まる

 横浜市の港南台で生まれ育ちました。ここは鎌倉市のほぼ隣に位置する街で、鎌倉の山がすぐそばにあって、少し行けば海だってある。山を駆け回って遊んたり、海でサーフィンのまねごとをしたり、横浜といえども自然が身近にある住環境だったんです。ちなみに父は建設会社で設計士をして働き、母は趣味の写真撮影が高じて、商業カメラマンのような仕事をしていました。きょうだいは、2つ下に妹がいます。そんないたって普通の4人家族です。というか、こんな話もするインタビューなんですね(笑)。どんなふうに普通だったか? 今、私が行っているアウトドアフィットネスの会員様には、本当にいろんな属性、職業の方がいらっしゃいます。中には大きな成功を収めている経営者の方も。そんな方々のお話を伺っていますと、私が育ったのは、まったくの普通の一般家庭だったんだなあと。

 私は昔からひとつの物事を深く追求していく性格だったようです。幼稚園でサッカークラブに入り、それからすぐ、サッカーに夢中になっていきます。漫画の「キャプテン翼」がリアルタイムで流行っていた頃ですね。クラブの練習を終えて家に帰ればサッカーのビデオを見たり、リフティングの練習をしたり。本当にいつもすぐそばにサッカーボールがあって、リフティングなら3時間ずっと一度も落とさず、5000回くらいは平気で蹴り続けていました。ポジションは、常に前へ向かって攻め込んでいくフォワードです。当然、友だちも同じようなサッカー好きが集まります。時にはポジションを争ったり、勝ち負けにこだわって戦術論を本音でぶつけあったり。つまりいつも本気だったと。今思えば、同年代の子どもたちより、かなり精神的にタフな小学生だった気がします。

 この頃の夢は、全国高校サッカー選手権の決勝で、元日に国立競技場のピッチに立つこと。そこまででしたね。まだJリーグなんてありませんでしたから。小学校卒業後は、学区内の公立中学に進学。もちろんサッカー部に入部しています。それほど強い学校ではなく、市予選を突破して県大会に出られる程度でした。でも、顧問の先生が素晴らしい人だったんです。昔のサッカー部って、後輩を鉄棒にぶら下がらせて、先輩たちがそれを的にサッカーボールをぶつけたり。そんなシゴキという名のイジメがけっこうあったんですよ。でも、その先生はシゴキを一切排除し、私たちにとてもフレンドリーに接しながらも、しっかりとテクニックや戦術も指導。もちろん、勝負へのこだわりも。この先生から、サッカーというスポーツの本当の楽しさ、魅力を教わったと思っています。

<黒野 崇をつくったルーツ2>
高校2年、全国大会に出場し活躍するも、
腰の怪我に泣かされサッカーの道を断念

 夢は全国高校サッカー選手権決勝の国立競技場。サッカーの強い強豪高校へ進むことを決めていました。当時、全国大会の常連校、名監督と言われた伊藤清春監督がサッカー部を指導する、神奈川県立旭高校への進学することに。学区外受験だったため、自宅から往復2時間をかけて高校へ通う日々が始まりました。伊藤監督の指導はまさに軍隊式です。旭区の林間コースを吐くまで走らされ、グランドを何周もうさぎ跳び、水は飲んではいけない……。朝練、放課後、土日や季節の休暇も毎日毎日、部員全員、必死で練習に明け暮れました。横浜市内の足に覚えのあるサッカー選手が100名も在籍するマンモス部でしたが、私は2年時からフォワードとして何度か試合にも出させてもらっていました。

 2年の時が一番体はキレていたと思います。1つ下の後輩とフォワードのポジションをしのぎ合いながら県大会を突破。そして全国大会に出場した頃から、私の腰が悲鳴を上げ始めます。全国の舞台では、控えでしたが、ベスト16まではたどり着くことができました。しかし、市立船橋高校にあと一息のところで国立への道を阻まれてしまった……。そして高校3年になった頃には、腰の怪我が悪化し、騙し騙し練習。結果、最後の年は全国大会への切符を逃し……。目標がなくなり、バーンアウトです。勝ち負けの世界で踏ん張る気力がいっきにしぼんで、何となく、燃え尽きてしまった。そういう指導でした。そして私は、競技としてのサッカー人生は18歳で卒業することを決めました。その後、自分探し、人生の進路をぼんやりと考え始めることになりました。まだ18歳の頃です。今では信じられないですよね。

  高校3年までずっと、私はサッカーを支えに生きてきました。スポーツ自体は好きだし、勝ち負けの世界以外で自分の得意分野を使って人に役立てることは何か? 怪我をしたことで、解剖学や運動生理学にも興味がわきました。当時は予防医学や生活習慣病といった言葉がまだ世の中に浸透していませんでしたが、スポーツを活用した健康増進を、より多くの人たちに提供していきたい。そんな考えが浮かび日本体育大学に入学。ここで、小峯力先生(現・日本ライフセービング協会理事長)に出会い人生が変わりました。今の私が形成され始めるわけです。「日体大ライフセービング部」に入部して、今まで勝負のために鍛えた身体を使い、「人の為に尽くす」というライフセービング活動に没頭しました。

<日本体育大学時代>
ライフセービング部の活動の一環として、
毎シーズン、新島での監視活動に参加する

 運動生理学やスポーツ医学などの勉強をこなしながら、それ以外は、ライフセービング部の活動に明け暮れました。世田谷・深沢のキャンパスでは、部活動として、人工呼吸などファーストエイド、さまざまなリスクマネジメントを学びながら、基礎体力を高めるために走る、泳ぐ。日体大のライフセービング部には全国各地の海水浴場から声がかかり、数人の部員がチームを組んで割り当てられた海水浴場に赴き、無事故の監視を目指すわけです。私の場合は、伊豆七島の新島でした。それから卒業までは毎年、6月から9月まで新島の合宿所で暮らし、日々、ビーチの監視を続けました。新島では、羽伏浦(はぶしうら)海岸というパワフルな波がやってくる世界的にも有名な海岸でライフセービング活動。強烈な波や強い流れの中で自由に動き回れないと、人を助けることなんてできない。そんな日々を過ごしていたら、自然と「サーフィン」が上手くなり、海が楽しくなってきたのです。

 日体大を卒業する頃から、10年近く藤沢の鵠沼海岸近くに住んでいたんです。やはり海が近くにあるのは気分的にとても気持ちいいですし、大好きなサーフィンのある生活ができますからね。周囲の同級生の多くは、教員か消防隊員志望でしたが、中高年の高血圧や糖尿病の運動療法など、スポーツを通じた健康増進を目指していた私は、鎌倉地区にフィットネスクラブを併設している小さな病院があることを知り、その病院の就職面接を受け、新入社員として入社することになります。プールとサウナがある病院経営のフィットネスクラブの現場インストラクターとして、私の社会人生活が始まりました。

 500人ほどの会員の方々に、スポーツを使った健康増進プログラムを提供していく。大学では人間の体や健康に関するさまざまな勉強をしてきましたが、現場で人に接するのは当然ですが初めての経験です。入社後は毎日毎日、順天堂大学出身の先輩社員にくっついて、ノートを片手にわからないことは本当にどんな細かなことでも聞きまくり教えてもらいました。なるほど、運動生理学、スポーツ生理学など大学で学んだことは、こうやって生かしていけばいいのか。ある意味、目からウロコの発見ばかりでしたね。そうやって身につけた知識を現場で試しながら、現場インストラクターの仕事を続けていました。勤務して3年が過ぎた頃、神奈川県・藤沢市の総合病院が大型のフィットネスクラブを建設するという話が私のもとに届きます。「その新しい大型施設の支配人候補を探している」。新たな機会がやってきました。

<新大型施設への転職>
新たなコンセプトのフィットネスクラブで、
支配人として地域住民の健康増進を提案

 2000年、藤沢湘南台病院が700坪もの広さを有する敷地に、「メディカルフィットネス」という新しいコンセプトのフィットネスクラブを建設しました。その初代支配人として採用され、さまざまな開業準備を進めることになります。この施設のコンセプトは、ありがちな病院付属のリハビリセンターではなく、すべての地域住民に向け開かれた「メディカルフィットネス」。医師、医学療法士と協力し合い、「安全で効果的な」フィットネスサービスを提供していく。それが私に与えられたミッションでした。

 ここは高齢者が多く住むエリアで、「メディカルフィットネス」に対するニーズが高かったこともあり、順調に会員数は伸びていきました。しかし私が一番注力していたのは「継続」して通ってもらうこと。前勤務先でもジレンマを感じていたのですが、会員の方がスポーツで健康になっても、やめた途端、体重や血圧、血糖値が元に戻ってしまう。ひとりひとりの健康的な「数値」を動機付けにするのはもちろんですが、「あのスタッフがいるから今日も行こう」など、「楽しさ」でファンをつくる。会員の方々に定期的に続けて来ていただけるために、自分たちにやれることは本当に何でもやりました。

 「なるべく病院に頼らない、薬に頼らない身体づくり」を提案する予防医学で、地域に健康で笑顔の人を増やすこと。それこそがこの仕事の社会的意義です。先ほどもお話ししたように、そのためには「継続」していただくことがとても大切なのです。インドアでの運動「継続」の限界を感じていた私は、病院で仕事を続けながら、アウトドアで行う「楽しい」フィットネスサービスの可能性を考えるようになりました。

●次週、「葉山発のアウトドアフィットネスが、新たな市場を切り開く!」の後編へ続く→

「アウトドアフィットネス」という新市場を
開拓したサーファーが夢見る社会貢献のかたち

<起業への決断!>
アウトドアフィットネスが
成功する可能性を確信!

  2003年頃、私は神奈川県の葉山町に引っ越しています。車で藤沢の病院に通いながら、葉山のビーチを走ったり、里山でトレイルランニングをしたり。海でサーフィンやカヤックを楽しんだり。海と山が隣接する葉山エリアを満喫する生活を送っていました。また、オーストラリアやカリフォルニアへ旅に出て、海外のビーチカルチャーにも触れていました。そんな日々を過ごしながら、「アウトドアフィットネス」の可能性を模索するための資料や企画書がどんどん増えていったのです。

 ここ葉山でなら、自分が思い描くクラブが実現できるかもしれない――。これまで頭の中に散らばっていたさまざまなアイデアのピースがパズルのようにまとまっていきました。2006年頃、社会背景の変化を感じました。総合フィットネスクラブの会員離れが増加し、大手フィットネス施設運営企業の経営危機が取り沙汰されるようになってきています。替わって「Wii Fit」や「パーソナルトレーニングジム」の出現。食べ放題よりも好きなシェフがつくる一品が好まれる。そんな感じでしょうか。

  またその頃、アクティブライフといわれる自転車通勤の増加、公園や皇居など都心を走るランナーの増加など、人が健康に配慮するライフスタイル全体に変化が起きました。私自身が温めていた「アウトドアフィットネス」を本格化的に開始するタイミングがついに来た。そう確信したのが、2006年の後半くらいだったと記憶しています。

<「BEACH」葉山に誕生!>
大正時代に建てられた古民家を改装し、
地域に根差した会員制事業をスタート

  アウトドアフィットネス株式会社の設立登記をしたのが、2007年の6月。今の当社の本店所在地であり、活動の拠点となる、葉山公園すぐそばにある大正時代の古民家を見つけたのもこの頃でした。新しい鉄筋の建物よりも、古民家の暖かい雰囲気が、会員の「第二の家になればよい」、そう考えました。でも、この古民家、仲間に見せたら「一歩も入りたくない」と言われるほど、かなりの廃屋で、まさにお化け屋敷みたいな雰囲気でした(笑)。それでも、友人のアーティストや大工さんに手伝ってもらい、2カ月くらいで一気にリノベーション。梁のある空間に、スタジオ、カフェ、シャワールームや更衣室、ボルダリングジム。夏ミカンの木が立つ庭もあります。

 そうして「BEACH葉山アウトドアフィットネスクラブ」をオープンしたのが、2007年9月14日のこと。小さな砂浜をイメージしたロゴマークもつくっています。そして事業を継続していくための社会的意義もしっかりと定めました。あくまでも「継続」していただくことがテーマですから、従来のアウトドアスポーツをレジャーではなく、日常のポジションにもっていきたかった。安全で効果的で、遊びながら継続していく。気が付いたら健康に。これがアウトドアフィットネスのコンセプトです。

 「BEACH」に来れば、ヨガでも、サーフィンでも、トレイルランニングでも、日常の2時間でできる楽しいプログラムをご用意しています。もちろん、ライフセービングで培った独自の安全管理など、万全の態勢を構築していきます。アウトドアフィットネスにおける究極の理想は「自分のいのち」を考えることが、「社会のいのち」につながり、さらには「地球のいのち」をも救うムーブメントになっていくこと。つまりアウトドアでの健康増進が「自然を守ろう」という環境意識につながり、環境保全に広がっていくことです。

<未来へ~アウトドアフィットネスが目指すもの>
アウトドアフィットネスと社会貢献で、
さまざまな地域にたくさんの笑顔をつくりたい

  ありがたいことにスタート当初から「BEACH」のメディア露出は増え、会員数は500人を突破し、新規募集をいったんクローズ。創業7カ月目には、損益分岐点を超えました。予想に反して単年黒字化です。直営店は当面ここ「BEACH葉山」のみと考えており、多店舗化は急ぎません。ただ、アウトドアフィットネスのコンセプトをご理解いただいた企業、個人との提携は進めています。

 「ルネサンスアウトドアフィットネス(東京)」「Nadi 北山アウトドアフィットネスクラブ(京都)」「ファミリーオ館山(千葉)」「WIRED CAFE<>FIT(東京/代々木公園)」「way大濠アウトドアフィットネスクラブ(福岡)」と姉妹店クラブが全国に広がり、現在もさまざまな都市開発企業などからお声掛けをいただいています。提携も慎重に調査しながら行っていく予定です。スタートから3年をすぎたばかりですが、事業を継続する中でさまざまな経験値が蓄積できました。

 今後については、「アウトドアフィットネス」というコンセプトを活用した「人の集まり」を、どのように社会貢献に結びつけるのか。これがポイントだと思っています。アウトドアスポーツもランニングもインドアフィットネスもトライアスロンも、「自分の健康の為に鍛えた身体を、他の誰かの為に使うことができるか」そうゆう利他的な考え方が全国のスポーツクラブ、スポーツサークルに浸透すれば、「強い人の集まり」ができて、永続的に続くクラブが出来ると思うのです。歴史ある地域スポーツ構想を作っていく。あわてず急がず、さまざまな地域にできるだけたくさんの笑顔をつくっていきたいと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
好きなことにかける情熱が、
会社の成長スピードを加速してくれる

  まだ起業4年目の経営者ですから、皆さんの参考になるようなことがお伝えできるかどうかわかりません。でも、私が会社を経営していくうえでモットーとしていること。それは、「難しいことはシンプルに、シンプルなことは面白く、面白いことは深く」。やはり好きこそものの上手なれ、だと思うのです。いくら成功の可能性が大きかったとしても、嫌々やっている事業は絶対に盛り上がっていきません。だから起業して目指すべきミッションは、自分の好きなことをリンクさせたほうがいい。私も自分が好きでやっていた趣味や遊びを仕事にしていますからね。好きなことにかける情熱が、必ず会社の成長スピードを加速してくれるはずです。

 新しい文化は辺境からやってくると言われています。私はサーファーやスケーターが生み出す世界観を常にウォッチし、その一方で、産業界トップクラスのリーダーの方々の意見を聞いたり、その両者の間にあるズレやギャップをキャッチアップ。その中で、2、3年後に何が起こるか、どちらの考えのほうが長続きするか、ビジネスチャンスを予測することが得意なのです。その上で一緒に事業を推進してくれているスタッフのモチベーションとやりがいを高めることを一番に優先しています。スタッフは宝、チームの力も宝。ここまで失敗もありましたが、その考えをないがしろにしたり、勘違いしたマネジメントをしたりすると大きな痛手を被ると肝に銘じています。

 スタッフは最初に厳しく選ぶのではなく、人となりを見て、入社後に力を入れて教育していくのが当社の採用方針です。何よりもまずはアウトドアフィットネスの素晴らしさを理解してもらい、スタッフからスタッフへ、スタッフから会員様へ、会員様からそのお友だちへ。人と人をていねいにつなげながら、価値観の共有を図っていく、社会貢献の意義を広げていく。当社なりのビジネス観、拡大のスピード、規模感などをしっかり自分のものとしてもらうことを大切にしてもらいます。今後も健康増進、地域活性、環境保全という3つのテーマの融合を図り、各地で、その地域の特性を生かした、「地域ならではのフィットネス」が広がり、日本が、そして世界が、健やかで豊かな未来へなっていくことを願い、日々進んでいきます。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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