第44回 株式会社ゴルフダイジェスト・オンライン 石坂信也

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第44回
株式会社ゴルフダイジェスト・オンライン代表取締役社長・CEO
石坂信也 Nobuya Ishizaka

1966年、東京都生まれ。成蹊大学経済学部経営学科卒業。東芝アメリカの社長を拝命した父親の転勤により、6歳の時、一家でアメリカへ引っ越す。13歳 で帰国後は、成蹊中学に編入する。渡米時も帰国時も、彼を仲間に溶け込ませたのはスポーツだった。高校ではバスケット、大学ではラグビーに打ち込む。大学 卒業後、三菱商事へ入社。燃料グループに配属され、液化石油ガスの輸入業務、タンカーの配船業務、アジア地域の貿易およびプロジェクト推進に携わる。 1997年、社内留学制度を利用し、ハーバード・ビジネススクールへ。1999年、MBAを取得。帰国後は、金融企画部にて、企業買収、ベンチャー投資、 ネット証券立ち上げなどに奔走する。2000年1月、三菱商事を退社し、同年5月、資本金8000万円でゴルフダイジェスト・オンライン(以下、GDO) を設立。代表取締役社長に就任。2004年4月1日、同社を東証マザーズに上場させた。

ライフスタイル

好きな食べ物

最近はダイエット気味で。
昔から大食漢だったんです。ハンバーガーとか大好きで。でも今年40歳になったことを機に、ダイエットを始めました。このタイミングで体をしめておかない と、まずいなと思って。なので、最近は和食を中心にしています。お酒はそんなに強くないですが、仕事関係の会食やスタッフたちといろいろイベントをします から、飲めるほうです。健康に気遣って焼酎を飲むようにしていますが、昔はウォッカやジンなどのハードリカーが好きでした。

趣味

体いじめ、でしょうか。 
ゴルフはもちろん大好きな趣味ですよ。あと最近はダイエットで体をしぼることを目標にしていますから、週3回、1時間弱のジョギングと、ジム通いを継続しています。ゴルフのプレイにも効果が現れますし。

休日

ゴルフと家族との時間です。
スタッフや仕事関係の方々とゴルフをすることが多いです。あ、もちろん家族との時間も大切にしていますよ。もうすぐ初めての子どもが生まれるのです。もう 男の子ってわかっているので、名前を考えているのですが、いろんな人に相談しすぎてしまって……。悩んでるんですよ(苦笑)。

行ってみたい場所

欧州旅行かラグビー観戦。
もしも2週間休みが取れたら、イタリアとスペインを旅行して回りたいですね。なぜかって? それは行ったことがないから(笑)。で、現地の美味しい料理を 食べまくりたい。あと、ラグビーも好きなので、ニュージーランド対オーストラリア戦とか、現地で観戦したいです。あくまでも、休みが取れればの話ですが。

国内最大級のゴルフ専門サイトが、日本のゴルフマーケットを再生!

 1990年代後半、日本のゴルフ場の多くが預託金の返還問題で危機に瀕していた。そして、それまでは常識と考えられていた会員権のストックビジネスは崩壊し、ゴルフ場運営のビジネスモデルは大転換を迫られたのである。最悪ともいわれたこのマーケットに、チャンスを見出した男がいた。それが石坂信也氏。彼は三菱商事時代、社費留学したハーバード・ビジネススクールで「日本のゴルフマーケット再生」という研究論文をしたためていた。まさにそれを実現すべき時が、やってきたと踏んだのだ。そして、2000年5月、インターネットでゴルフのワンストップ・サービス「買う・行く・観る・つながる」を展開する、GDOを設立。リスクを最小限に抑えるマネジメントスタイルを徹底し、右肩上がりの成長を実現。2004年4月、同社を東証マザーズに上場させた。
「将来は日本の環境資源を最大価値に高めるために貢献し、次世代の子どもたちに豊かな日本を引き継ぎたい」と語る。今回は、そんな石坂氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<石坂信也をつくったルーツ1>
家族と共に6歳でアメリカへ。生来の運動神経の良さが孤独を救う

 私は、4人兄妹の末っ子長男なんですよ。だから上3人は女の子。父は、東芝に勤務する会社員でしたが、32年勤めて最後は東芝アメリカの社長。でも、定年前の1989年に、アメリカのベンチャー企業に転職するんです。もともと、日本企業の合理性を欠いたしきたりなどにずっと疑問を持っていた人でしたから、もしかしたら「32年も我慢してやっと好きなことを」といった感じだったのかもしれません。母はフェンシングをしたり、全国縦断自動車ラリーに参加するなど、とても活発な女性だったようです。幼稚園くらいの記憶はあまりないのですが、姉たちのおもちゃ的存在だったんでしょうね。わりとマイペースでおとなしくて、意外とどっしり構えていたみたいです。今でもたくさん食べるほうで、姉たちが残した食事を私が残さず食べていたんですって。まあ、残飯処理係ですよ(笑)。

 父がアメリカに転勤することになり、私たち家族もついていったんです。私がちょうど小学校に上がるタイミングで。半年前くらいから、異国へ行くんだって家族で英語を勉強していましたよ。全く役に立ちませんでしたけど(笑)。この頃から記憶が鮮明になるんです。羽田空港から発ったんですが、みんなで青いJALのバッグを持って、歩いて飛行機に搭乗したことをはっきり覚えていますから。サ ンフランシスコに到着してまず驚いたのは、スーパーマーケットがすごく巨大だったこと。アメリカの豊かさに家族で圧倒されました。

 小学校はパブリックの現地校へ。半年間はまったくコミュニケーションできませんでしたね。7歳なりにストレスを感じていましたよ。でも、半年を過ぎたある日、校庭でキックベースをしているクラスメートから。おまえも一緒にやらないかって誘われたんです。幸いに私は運動神経が良かったもので、活躍できて、それからは一気に仲間に溶け込むことができたんです。なぜだか言葉も自然とできるようになりました。スポーツはいろいろやりました。バスケット、野球、サッカー、テニスでしょう、父親に連れられてゴルフも。現地の河川敷で開催された草ゴルフ大会に出て、なんと初めて90のスコアを切った。50の37で回って。父から、「本格的にやってみたらどうだ」と言われたのですが、ほかのスポーツも楽しみたかったので、ゴルフだけにのめり込むことはなかったんです。

<石坂信也をつくったルーツ2>
13歳でアメリカから帰国し中学へ編入。日米の生活習慣ギャップに大いに戸惑う

 当時は70年代。アメリカはベトナム戦争敗北という問題を抱え、学校も廃頽傾向が進んでいたのでしょう。高学年になるにつれ、白人は白人、黒人は黒人、ユダヤ系はユダヤ系とグループができ始め、それぞれが反目し合うようになった。ずっと仲良くしていた友人からも日本人ということで、線がひかれてしまった時は、本当にショックでした。人種とか宗教とか、世界には面倒な問題が横たわっている。日本で生活していたらわからなかっただろうことを、小学生の私が洗礼のように浴びてしまったわけです。

 そんな8年間のアメリカ生活も終わりを告げ、私は13歳で帰国します。でも、アメリカでは日本語を学ぶための補習校に通わずスポーツに明け暮れていましたから、日本語が全くおぼつかないのです。それで半年間、日本語学校に通って、小学校で覚える漢字とか必死で勉強しました。姉たちは3人ともインターナショナルスクールに編入しましたが、自分は男なんだから違う選択をしようと。成蹊中学の国際学級を受験して編入したのです。でも、日本語がまだまだだったので、中学3年の年齢だったのですが、中2に下げて。アメリカでは服装も自由、自転車で通学していたのですが、日本はみんな同じ制服で、わざと薄く潰した革のカバン持って、電車を乗り継いで通学でしょう。正直、そのギャップに苦痛すら覚えましたよ。

 帰国子女の知り合いから、編入後のいじめがすごかったという話を聞きますが、私の場合は国際学級だったのと、やはりスポーツが救ってくれたんですよ。体育の授業でアメリカ仕込みのバスケットテクニックを披露したら、みんな圧倒されてましたから。バスケ部にも誘われましたが、みんな真っ白な運動着にアシックスのバッシュ。そんな中、カエルがプリントされた派手派手のオレンジのTシャツで参加したものだから、みんなア然ですよ。バックパスを決めたりして、バスケ部に強く勧誘されたのですが、ちょっと水が合わないなと感じて、部活動はやりませんでした。だから、中学時代は帰宅部ですね。

 中学までは日本語がいまひとつで、特別学級だったのですが、高校に上がってからやっと普通学級に入ることができました。高校ではゴルフ部をつくろうと学校に交渉したのですが、「何を生意気な」と却下。で、バスケ部に入部。あとはバンドとアルバイト三昧の生活に突入です。高校2年くらいになって、やっと自分も日本の学生生活に馴染んできたなと感じられるようになりました。

<三菱商事へ入社>
伝統的な燃料グループに配属され、ビジネスの要諦を叩き込まれる

 アメリカの大学に進学することも考えましたが、まだ自分は日本の何たるかをしっかり経験できていない。それがしっかり見えてから、アメリカに行けばいいと。その前に行ってしまうと、もう二度と日本の習慣に馴染むことができないと思ったんです。私は物事の順番を大切にする性格なもので。それで推薦で成蹊大学に行くと決めて、高3でバスケ部を引退し、夏の合宿からラグビー部に参加しました。3年の最後にはラグビー部の選手として試合に出場しています。大学に行ってからは、ラグビー部に入部するつもりでしたから。

 大学ではラグビーもやるけれど、勉強にもしっかり取り組もうと思っていました。ですが、先生もクラスメートも思ったほど自分のモチベーションを上げてくれません。姉たちは全員頑張ってアメリカの優秀な大学に行っていましたから、その話を聞いて比べてしまったのかもしれませんね。言い訳になるかもしれませんが、ここで一所懸命勉強しても見返りは少ないと感じ、勉強はあまり熱心ではなかったです。姉たちからは「甘えてるんじゃないよ」って怒られましたが(苦笑)。ですから大学時代は、ラグビーと、シーズンオフのアルバイトに精を出すことに決めたのです。

 就職先の選択に際しては、英語力を生かして海外で活躍できること、ビジネススクールへの道があることを重視しました。そして、私は三菱商事にお世話になるのです。配属先は燃料グループ。会社の中でも伝統のある事業部で、少数精鋭の稼ぎ頭。当然、ずば抜けて優秀な先輩たちが集った職場で、私はとことん鍛えられることになりました。商社って、右から左の代理店ビジネスという側面もありますが、私は液化石油ガスという商材を担当し、原産国との交渉、契約、物流、納入といった、当該ビジネスの川上から川下まで、一気通貫をマネジメントするという、とても貴重な経験をすることができたのです。ここでは事業全体を俯瞰して、どこに投資すれば最大価値が得られるかという、バリューチェーンのセオリーを学びましたね。

 そして、リスク管理マネジメント。天然ガスを満載したタンカーという危険物を扱いますから、想定される事細かなリスクをイメージしながら、仕事を進めなければなりません。ビジネスは成功のイメージも大切ですが、起こり得るリスクをクリアできれば成功の確立が高まるのは当然です。もちろん厳しい環境ではありましたが、ビジネスパーソンとして生きていくうえでの要諦を、叩き込まれた職場であったことは間違いありません。

<ハーバード・ビジネススクールへ>
狭き門をくぐり抜け、社費留学へ。金融とネットビジネスを学びMBA取得

 社会人になる前、父から「3年以内に私費留学せよ」と助言されていましたが、結局、私は7年目に社費でビジネススクールという道を選択しました。1996年から1997年にかけては、通常の仕事をこなしながら、社内選考の4人枠という狭き門を通過するための勉強に没頭。なんとかその競争を勝ち抜き、私はハーバード・ビジネススクールに入学する権利を手にしたのです。燃料グループでの仕事は確かにやりがいがありました。しかし、私のモチベーションは、大きな歯車の一員ではなく、自分の裁量で動かせるビジネスに移りつつあった。そのためのキャリアチェンジができれば、という思いも大きかったですね。

  当時、M&Aやファンドなどの金融手法を学びたいと考えていたので、1年目は、ベンチャー投資などのプライベートエクイティと、空いた時間を使ってデリバティブなどのキャピタルファイナンスも専攻しました。後者のクラスは投資銀行出身のつわものばかりで、ついていくのも大変でしたが、非常に大切な視点を得ることができました。デリバティブはご存じのとおり、複雑に絡み合ったリスクを最小限に抑えることで利益を生み出す金融テクニックです。ビジネスも同じ。成功の方程式を探すことよりも、リスクを最小限に減らすことで確実性を高めたほうが、成功の確率を高めることができるということ。商事で学んだリスク管理マネジメントの重要性を、論理的に再確認できたのです。

 そして、2年目からはインターネットに興味が移り、ネットビジネスの研究を開始します。当時、アメリカでMBA取得を目指している人はみんなそうでしたよね。90年代後半の日本のゴルフ場は、預託金問題により経営が逼迫していました。私はここにチャンスがあると踏んだのです。社会人になって接待ゴルフをするようになって、幹事をやらされて、だんだんゴルフが嫌いになっていました。しかし、留学中にアメリカでやったゴルフは違った。とても楽しかったんです。また、ゴルフ場を探す際に検索サイトを使ったのですが、ユーザーコメント付きでこれもすごく使いやすかった。自分の趣味であるゴルフ、インターネット、日本市場という観点で、新規事業のリポートを書き始めたのです。幸い、親戚がゴルフダイジェスト社の経営者だったので、日本のゴルフ市場の情報をいろいろヒアリングさせてもらいながら。そして1999年、私はMBAを取得し、帰国しました。

1500のゴルフ場を網羅し、会員数109万人(07年6月末)を突破。
さらなる夢~日本の環境資源を最大価値に!

<三菱商事を辞し、起業への一歩を踏み出す>
ゴルフダイジェスト・オンライン(GDO)を起業

 帰国に際して私は、会社に希望を出して金融企画部へ配属されました。社内既存事業のネット化コンサルティング、ネット証券会社の立ち上げ、ベンチャー企業の調査・投資など、ハーバードで学んだ金融とネットビジネスの知識を大いに生かすことができましたね。しかし、だんだんとアメリカでしたためたビジネスプランを実践したいという思いが強くなっていったのです。ゴルフ場の会員権ビジネスが完全に行き詰まり、どんどん不良債権化していました。破綻があれば必ず再生の動きが起こる。これからは会員権というストックで運営維持をするのではなく、できるだけ多くのゴルファーを集客するためのゴルフ場運営をしていかざるをえないだろうと、私は考えていました。

 私は留学中の休暇を利用して、外国人のクラスメートに日本を紹介するという「JapanTrip」なるものを企画し実行しています。50人くらいを引き連れて、日本の大企業の見学、京都や浅草観光など、もうボロボロになりながら10日間。その時「俺はなんでこんなにまでして頑張ってんだろう」と考えたんです。表舞台で活躍することはどうでもよくて、自分が企画したプロジェクトを自分の考えで差配して、成功に導く。これが自分の得意なことなのだ。そして、これが自分に与えられた役割なのだと。だったら、会社から与えられたミッションをこなしていくことよりも、自分の力と自己責任で、ビジネスを立ち上げていく起業家を目指すべきなのではないかと。今、本当にやりたいことがあるのに、それを我慢することのほうが人生のリスク。また、父のように32年も我慢できないなと思いましたし(笑)。

 そして、2000年1月に、三菱商事を退社し、その年の5月にGDOを設立します。実はゴルフダイジェスト社からは、一緒に事業を展開していかないかというお誘いをいただきました。しかし、私は金融企画部の仕事で、大手企業がベンチャービジネスを手がけるという矛盾を目の当たりにして、それではうまくいかないということを痛感していたのです。出資はお受けしますが独立したかたちで経営をしていきたいとお断りしました。この事業を経営していくうえで重視したのは、やはりリスク管理マネジメントでした。

<トライシクルモデルで発進!>
プレイ予約代行事業、eコマース事業、情報・広告関連事業が3つの柱

 まず、ベンチャー企業にとって一番必要なもの。それは、収入源の確保です。当社事業はスタート時から変わることなく、トライシクルモデルという、大 きくは3つの事業を柱として運営されています。インターネットでのプレイ予約代行事業、ゴルフ用品のeコマース事業、そして関連するさまざまな情報提供と広告事業。収益源を複数持っておくことが、リスクヘッジとなるのは当然ですから。また、これら3つの相乗効果こそが、当社の強みでもあるわけです。

  設立から半年間は会社の土台づくりに専念したかったので、借り入れがなくても運営できるよう、8000万円の資本金を確保。ゴルフダイジェスト社からは、30%の出資と、ブランドネームの貸与という支援をいただいています。そして、さまざまなリスクをイメージしながら事業をスタートしました。でも、当時はネットバブル。スタッフたちから「スピードを上げていかないと」、なんて不平を言われましたよ。しかし、リスクを抑えることこそが、成功への近道であるという私の考え方は揺るぎませんでした。

 もちろん、この事業の根本にあるのは常にゴルファー=ユーザーとしての視点です。日本がバブル景気に沸いていた頃、ゴルフ場は会員権というストックにあぐらをかいて、本来あるべきゴルフ場としての姿勢を忘れていました。誰もが予約を取るために四苦八苦していましたから。とてもユーザーのほうを向いていると思えないのが実情でしたよね。

 しかし、キャッシュフロー、すなわちたくさんのユーザーに来場してもらえないと生き残れないとなったら、ゴルフ場サイドがユーザー視点をしっかり持って積極的に変わっていくしかありません。当社はユーザーが気軽にゴルフを楽しめる環境づくりのためだけではなく、ゴルフ場がいい意味で変わっていくための環境づくりのお手伝いもしていきたい。そういった意味で、当社が手がけているのは単なるインターネットビジネスではないのです。ゴルフマーケットの再生ビジネスなのですよ。

 ネットバブルの崩壊に際して、大きなダメージを受けなかったのも、やはり綿密な計画と、リスクを最小限に押さえ込むマネジメントができていたからだと思います。おかげさまで設立4年目の2004年4月、東証マザーズ市場に上場。資金調達力と社会的信用を高めることが最大の目的でした。

<未来へ~GDOが目指すもの>
2年半後の10周年を好調のまま通過し、将来は、日本の自然環境を価値に変えたい

 ビジネスは順調に進んできたと思っていますが、一番難しかったのはやはり人の問題ですね。ビジネスが先行しすぎると、人や組織がついてこれなくなったり。そのリスクを少しでも軽減するために、オフィス機能の向上を図りました。2006年3月に、2カ所7フロアに分かれていたオフィスを、5つのC(Challenge、Collaborate、Create、Communicate、Comfortable)というコンセプトに統合し、東京・虎ノ門に本社を移転。ちなみに、社長・役員すべてのスタッフが完全フリーアドレス制です。クラブハウスをイメージしたエントランスや、オーガスタナショナルゴルフクラブ16番ホールを模した広場、屋上のリフレッシュスペースなど、スタッフがストレスなく、楽しんで仕事ができるような工夫をちりばめています。

  日本のゴルフ場の数は約2400カ所。現在、当社はおよそ1500カ所のゴルフ場を網羅し、会員ユーザー数は今年109万人(2007年6月末)を超えました。やっとここまできたか、というのが実感です。いよいよこれからなんですよ。ゴルフマーケットにはまだまだチャンスが隠れています。売り上げ、利益を向上させるというのは当然として、2年半後に控えた10周年をどういうかたちで通過するか。ここを考え始めたところです。

 その先にやりたいこともあります。ゴルフ場がある場所もそうなのですが、日本の豊かな自然環境は世界に誇れる大きな価値であると思っています。その証拠に、北海道のニセコのホテルや土地をオーストラリアや中国、香港などアジアの投資家たちがどんどん購入しています。第二の人生を脱都会で過ごしたいと考えている日本人だって多いですよね。その大切な価値であり資源である、自然環境を外国にもっていかれるのはもったいない。飛行場だって、道路だって無駄とはいわれても、もうできてしまったもの。それらのインフラも有効活用して、海外からどんどん観光客を呼べるような仕組みをつくりたいのです。それができれば、次世代の子どもたちにも豊かな生活をもたらすことができますから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
あなたに与えられた役割をしっかり理解。そうすれば進むべき道が見えてくる

 さきほどもお話しましたように、私は社会において自分に与えられた役割というものを、30歳になって理解しました。「JapanTrip」を企画し実行に移した経験が、そのことを教えてくれたのです。思い返せば、高校では小学生キャンプのボランティアを務め、バスケ部の主将になり、大学や会社では、パーティやゴルフコンペの幹事を引き受けるなど、作戦や企画をプランニングし、組織を束ね運営していく、その達成感にいつも無常の喜びを感じていたんですよ。自分が表に立たなくても全く問題ないですしね。このことに気づいたから、私は起業への一歩が踏み出せたのだと思っています。

  もちろん、得意な分野はひとそれぞれですから、みなさんも自分のこれまでを振り返って、素晴らしい達成感が得られた経験を思い出してみるといいですよ。そうすることで、きっとあなたに与えられた役割が見えてくると思います。この役割さえしっかり理解しておけば、岐路に立たされた時、行くか止まるかといった判断もしやすくなるでしょう。また、これまで以上にやりがいを持って人生を歩んでいけるはずです。

 私は当社を創業し、経営を継続できています。でも本来は、ビジネスを立ち上げる起業家と、マネジメントを継続させていく経営者の資質って少し違うんじゃないかなと思うのです。自分がどっちの資質を持っているのか、実はまだわかりません。まあ、商社出身ですから、どんな強敵が現れても総合力で突破できる、ジェネラリスト志向でいこうかなと。

 ドリームゲートは起業に挑戦したい方々を支援するサイトを運営されていると聞いています。しかし、世の中を見渡してください。みんなが社長をやっていたら大変なことになってしまいますよね。当たり前なことですが。何をお伝えしたいかと言いますと、その人にとって、適材適所のポジションで働けることが一番幸せであるということです。だから、自分に与えられた役割を理解できたなら、社員として転職したっていいのです。起業は無理してするものじゃありませんから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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