13:10 キーノートスピーチ

大和ハウス10兆円企業への挑戦とベンチャー提携戦略

 昭和30年にスタートした当時の大和ハウスは、まさにベンチャー企業でした。資本金300万円、18人でスタートした会社です。初年度の売り上げは2200万、創業40年目には1兆円企業の仲間入りを果たしました。いったん、売上は1兆円を割りましたが、大和ハウスと大和団地が2001年に合併して、1兆900億円の会社になりました。合併時、私は大和団地の再建を経て帰ってきたところ、大和ハウスの社長を拝命し、今日に至っております。

 私自身は、ここにおられる多くの方と同じ気持ちです。今日は大企業のベンチャーファイナンス関係者が38%、ベンチャー企業として実際に事業をしている方が28%、これからベンチャーとしてやっていこうという志を持って努力されている方が22%、ここまで合計して88%。残りの12%は優秀なベンチャーをどう育てるかということでおいでになっておられる方々ということを聞いております。

 本日は大和ハウスの生い立ちから話をすると時間が足りませんので、「ア・ス・フ・カ・ケ・ツ・ノ」※という7文字をキーワードにして話をしたいと思います。
※)アスフカケツノは、 ア(安心安全)・ス(スピード・ストック)・フ(福祉)・カ(環境)・ケ(健康)・ツ(通信)・ノ(農業)の頭文字をとったもの

老健施設(介護老人保健施設)の仕事にはじまる、大和ハウスの福祉関連事業

 まずは「ア」は「安心・安全」、「ス」は「スピード・ストック」ということで、ここは説明するまでもないので、3文字目の「フ~福祉関連」というところから話をします。

 当社のシルバー事業のスタートは、ちょうど私が常務の時に宮崎の病院から老健施設をやってみないかという引き合いをいただいたのが始まりです。それまでシルバー関連の事業はやったことがなかったものですから、誰か指導してくれる人がいないとさっぱりわからないなと思っていましたが、森脇さんという技師の先輩がおりました。
 この方には非常にかわいがってもらっていたので、森脇さんに「こういう話を頂戴している。できるものならやりたい。しかし、専門知識無しではどうもうまくいきそうにない。建物を建てたらよしというものでは思うので、協力してくれますか」とお願いしたら、「樋口さんがやろうとするのなら、協力するよ」ということで、森脇さんの知恵を借りながら、老健施設をやらせてもらいました。

 施設の建設が終った後、興味を持った私は、実際に運営されている施設を見学させてもらいました。同時に病院の理事長や病院長の話もお聞きしました。実際にヘルパーさんがお風呂に入れようと作業されているのを見て、これは大変だなとわかりました。 お風呂に入れ方ひとつにも、体の起こし方とかそういうノウハウがあるんだろうなと思いながら、病院の各階を、ベッド数にして100床ぐらい、ずっと案内してもらいました。
 すると、奥の方の10床だけは窓に格子がはめられていました。「なぜ、こんなことになっているんですか?」と聞いたら、「ここは認知症のひどい人がはいっておられます」との答えでした。徘徊癖のある方は、窓からでも出ていくそうです。だから格子をしてあるそうで、なかにはゴミ箱とトイレを間違える人もいますと、そういう話を聞きました。

 老健施設というのは、別名中間施設と言われます。病院と自宅の中間にあるから中間施設というんですけれども、よくなれば家に帰れる、よくなければそこにずっといなければならん、または病院へ入院しなければならん、というようなことになるんですけれど、その辺の話をずっと聞いて、働いている人の話を聞き、要は現場を見た結果、このようなシルバー関係の施設は今後ますます必要になってくると考え、当社の事業として取り組むべきだと役員会に提起しました。それが当社のシルバー事業の始まりでした。
 現在の日本の人口は1億2700万人といわれています。2060年には8800万人、2100年には6000万人くらいになると推計されています。一方、世界の人口は現在72億。これが2060年にはおそらく98億になるだろう。間違いなく100億を超えてきます。
 早晩、人口や環境問題を含めて、いろんな問題が提議されるようになってくると思いますが、まずは日本の社会においては高齢化がものすごく早く進んでいるわけです。そうすると、これをなんとかしなければならない。

 当時、こういう施設がどのくらいあるのかスタッフに調べさせました。そうすると3万床くらいという報告でした。3万床で将来の高齢化の問題を考えたら、どのくらい必要になるのかということを検討すると、厚生省からはゴールドプラン、28万床は必要という数字がでていました。これは官だけではいかないので、官民一体となって推進していかなければいけない。今は3万床程度しかない。とにかく絶対数が足らない。

 何をしたら儲かるかという発想ではなく、世の中の多くの人々の役に立ち、喜んでもらえるかどうかを基軸にして事業や商品を創造していけ、というオーナー※の理念からしましても、これは大和ハウスの事業として取り組むべきではないかということで、役員会に起案しました。そうするとオーナー会社ですから、すぐオーナーより「樋口君、それは必要なことだからやれ」と、その一言で議論する余地もなく決まりました。
※)文中のオーナーとは大和ハウス創業者の石橋 信夫氏を指します。

 決まったけれども、オーナーからは利益計画はどうなっているのかと、指摘されるのは分かっておりましたから、オーナーの部屋に行って「この事業は、建物というハードを作ったからといって済む問題ではありません。老健施設を作るにも、いろいろなノウハウを入れる必要がある。それを国内・海外に勉強に行かせてください。十分な知識を持って対応しなければ、何もできません」ということでお願いしたら、「わかったと。わかったけども、それで?」と言われるので、「3年間は数字を追求しないでもらえますか。3年間はスタッフにも勉強させたいです。その間の人件費などは、私が預かっている事業部で全部持ちます」
 こう言うたら「わかった。3年やな」ということになりましたが、その日から2年経過した全国事業所長会議で、私が自分の事業部で話をしている部屋へオーナーが入ってこられました。私はオーナーに「今日はどういうご用件でしょうか?」と聞いたら、「樋口君、後1年やな」とだけいわれて出ていきました。
 これは、「1年後には数字を聞くぞ」という意味合いなんですな。このようにオーナーはやりたいことはやらせてくれますけども、非常に厳しい人でした。

 石橋オーナーの話を少しさせていただきます。オーナーは戦争体験をしていますし、戦地で脊髄損傷もされています。2年近くリハビリして、それからもういっぺん、部下が戦地におるということで、戦地に出向いて、ソ連の捕虜にもなりました。終戦を迎えた時はシベリアに抑留されていました。帰ってきたのは、昭和23年です。
 そんな石橋オーナーが昭和25年のジェーン台風の後、外へ出て見ると、木々はなぎ倒されているのに稲穂や竹やぶの竹は倒れずに残っていました。そこで稲穂を折ってみたら、中は空洞で丸い。竹も丸くて中は空洞。中が空洞で丸い方が強いのかと、稲穂を折ったものを見ながら、人工的に丸くて中は空洞なものはなんやろか…と考えられた時に、鉄パイプだと気づきました。ということで、鉄パイプを作って、工場生産をして組み立てられるようなものを考えた。これが大和ハウスの創業商品のパイプハウスになりました。プレハブの第一歩ですね。

 石橋オーナーはこれを国鉄へ売り込みにいったそうです。大阪の天王寺保線区に通ったそうですが、あんまり熱心に来られるから、国鉄の担当者から、「石橋さん、ここへいくら一生懸命来てもらっても私らの力ではどうにもならん。本社へ行ってお墨付きをもらってもらわないといかん。」と教えてもらえました。
 そしたら、それを聞いたとたん、すぐ午後から夕方の夜行列車で朝には東京へ出て、東京の駅前にある国鉄の本社を訪ねたそうです。夜行列車って言ったら年配の人は知っているでしょうけども、走っている最中に煤がかかるのです。その煤を落として、朝一番に担当者に会いに行ったわけです。しかし資本金300万円で18人の会社で、ろくすっぽ経歴書もない。カタログもない。手書きして印刷したような資料しかありません。それを持って、一生懸命説明しました。汗をかきながらです。しかし、全然話にはならなかった。そこでオーナーは「国鉄、国鉄と、でかい面するな!元をただせば駕篭かきやないか。」と大声で尻をまくって言ったそうです。「初めから大きな会社なんてない。」それを奥で局長が聞いていた。運が良かったんです。翌日何食わぬ顔で再度訪問すると、その局長が今度は「石橋さんの言うとおりや」と温かく迎えてくれました。そして使用書の書き方のわかる担当をつけてくれて、とんとん拍子で話はまとまりました。そこ日から20日間以上自宅に戻らず全国を営業して回ったそうです。

 本日ご来場された方の中には、スーパーゼネコンの方もおられるでしょう。5大スーパーゼネコンにも、パイプハウスを現場の事務所や倉庫に使ってほしいと営業に回りました。熱意と創意、努力以外の何もなく、足が全てということで、一生懸命、営業に通いました。
 そうして熱心に通っていると、情のある人から「どこかの販売事務所でやらせてやれよ」というような形で仕事がいただけました。このように這いずり回って、立ち上がってきた、そんな会社です。老健施設をはじめとしたシルバー事業も、まさにそのように駆けずり回って立ち上げました。
 スタートしてから3年目ぐらいから数字を上げられるようになってきました。そして今日まで、病院を始めとして診療所や老健施設や、そして老人ホーム、そういうものを合計して累計6000億円を超える事業になっております。
 大和ハウスが、そういうシルバー事業関連の建物を6000億円以上もやっているというのは、ほとんどの方がご存じないと思います。

大和ハウスへの入社

 続いて、「カ」は「環境」。現在当社グループは全体で136社になりましたが、様々な環境事業に取り組んでいます。メガソーラー事業もそのひとつです。風力発電もやっています。

 またオーナーの話をさせてもらいますが、石川県の能登はオーナーの思い入れの深い地です。そこに能登ロイヤルホテルというのがあります。大和ハウスは30のリゾートホテルを作りましたが、最初に作ったホテルがここです。その能登ロイヤルホテルの前には別荘地が延々と広がっております。

 オーナーはホテルに一番近いところにご自身の別荘を買われて、石橋山荘を作られた。オーナーは2003年に亡くなられていますが、1999年から2003年の4年間、その石橋山荘で闘病生活をされていました。
 その4年間、私は毎月少なくとも1回、多い月は2回行くことになるんですけども、だいたい毎月の役員会の4、5日前に行くように日程を調整していました。次の役員会にどういうことをやります、私の考えはこういうことですと擦り合わせをして、ご指示があったら伺って役員会を仕切っていました。
 その4年間の闘病生活をされているときに、1999年といえば、大和ハウスの大阪ビルならびに東京ビル、それを作ってもらった年です。当時のオーナーは車椅子でしか動けなかったものですから、大阪の本社には10回ぐらい来ておられますが、東京のほうには3~4回くらいしか、自分の部屋へ入っていなかったと思います。

 大和ハウスでは、まず地方の支店とか営業所の整備を優先してやってきました。「本社は一番後でええ。本社は稼ぐ場所じゃないやろ。第一線で働いている人の環境を優先せい」というオーナーの意向で、全国の支店、営業所を先に進めて、最後に東京と大阪のビルを作ってもらいました。
 1999年、大阪のビルの竣工披露式典にオーナーが車いすで来られたんです。ここから2003年2月21日に亡くなるまでの4年間。闘病生活をしながら大和ハウスグループの将来のことを考えておられました。常に鼻から酸素吸入をしながらです。その執念と根性と言いますか、今は根性という言葉は死語と言われていますけれども、私は根性だと思うんです。

 つい先日、2014年9月22日(月)、BSジャパンの10時から11時に、小谷真生子さんと対談した番組が放映されています。あれを見られた人は、大和ハウスの精神とか私自身の考え方を、すでに承知していただいているかと思います。見ておられない方には、あれは1時間近く番組ですから、ここではほんの一部しか話ができませんが、大和ハウスという会社は、石橋オーナーの功績があったからこその会社であると言ってきました。私は今まで300回くらい講演していますけれども、これはそのたびに申し上げています。
 親を大事に思わない人に、大成した人は私は知りません。歴史上にも居ないんじゃないかな。会社で言う親は誰かといえば、それは創業者です。創業者が基盤を作ってくれたから、今があるわけです。

 今日お集まりのベンチャー経営者の皆さん方も、創業者としてやはり基盤作りをされているわけです。大きな志のもとにスタートされていると思います。私は76歳をすぎました。今更ベンチャーはできませんけれども、大学を卒業して社会人になるときには、自分はいつか会社を興して一国一城の主として、今で言うベンチャーとして、当時はベンチャーという言葉は使わなかったけれども、自分の会社を上場会社にして、親孝行して恩返しをするんだと強く決心していました。そう思って社会人になりました。

 私は普通の家庭で生まれ、育てられてきました。サラリーマンの家庭です。父は会社で部長職でしたが、それほど贅沢ができるわけじゃない。先祖伝来の資産があるわけでもない。兄弟は4人。上2人は男、下2人は女。2人とも運動をしていましたから、どんぶりに2杯も3杯もご飯を食べる。  優しいおふくろは、やりくりについては愚痴をこぼさない人でした。ある日、大学が暇で家にいると、おふくろが整理ダンスから自分の着物を引っ張りだして出かけるのを見かけました。どこに行くのかと、ついていったら、質と書いたのれんをくぐった。出てきたら、何も持ってなかった。
 それで、ああ、自分の着物を質屋に入れてまで、食べ盛りの子供に腹が空いたとか、そういう思いをさせないようにしてくれてるんだな、そういう気遣いをしてくれるんだなと思い知らされました。

 それで一念発起して、どうしても事業をおこそうと思いました。大学を出て、会社を大中小と3つ受けました。おかげで3つとも合格通知がきましたが、その中で一番小さな会社を選びました。
 世の中は、本で読む通りには、学問通りには動きません。一番小さな会社を選んだ理由は、会社を興すためには、小さな会社のほうが活きた勉強ができると思ったからです。
 そうして最初に入社したのは、鉄鋼商社でした。朝は9時に始まり、夜は夕方5時に終わる。土曜日は半ドン。給料は良い。勤務時間は短い。営業は継続取引の得意先を回っていたらよい。そんな会社でした。

 そういう状況の中で、課長が書いた文書を読ませてもらったり、先輩について1~2ヵ月ほど営業の勉強をしました。後は、自分1人でお得意先を回りました。会社の中でどれだけ伝票があるか、その伝票はどういう流れでなっているか、それはなぜなのか。そういうことを大学ノート1冊使って、自分なりに整理をしていきました。
 しかし、物足りなくなるんです。そんな「楽」をしとっていいのか。俺は将来、自分の会社を持って、上場会社になるくらいまで成長させて、それで親孝行するんだと、一念発起したのではないかと。鉄鋼商社は楽で給料もいい。そんなぬるま湯に慣れてしまってどうするんだと。これでは自分の志が折れてしまう。
 だからどこか厳しく自分を鍛えてくれる会社はないかと探していました。そうしたら、週刊誌に「モーレツ会社、大和ハウス、不夜城、大和ハウス」という記事が出ていた。その週刊誌を読んで、この会社で鍛えてもらおう。そう思い立ち、昭和38年8月16日に大和ハウスへ転職しました。

 鉄鋼商社の社長も立派な人でした。当時は170人ほどの小さな会社でしたから、転職時には社長と直に話をしました。一生懸命、自分の思いを言いましたけれども、慰留してくれました。慰留してくれましたけれども、それに負けたら、自分の志が折れるからと。最後は机に頭をこすりつけて頼みました。自分には将来の夢がある。わがままを許して下さいと頭を下げて、そこまでおっしゃって頂いたら、男冥利ですということで承諾していただきました。
 そうして大和ハウスへの入社ですが、実はコネもなにもなかったのです。きっかけは新聞に載っていた、縦5センチ横7センチくらいの小さい、歩合制セールスの求人募集でした。それを切り取って、大和ハウスの入っているビルに行きました。そして人事課長に自分の身の上を訴えました。

 私は24歳で結婚してます。大和ハウスに入る頃は25歳です。もう子供もおりましたから、私はなんとしても正規の社員として採用してほしい。そのように面接でお願いしました。「募集にちゃんと書いてあるでしょ、歩合制セールスの募集しかしてないんだよ」と言われました。でも、それは承知でとにかくお願いしました。
 そのように熱心に話をしたら、「あんた鉄屋におったんやろ、うちは木材に詳しい人はたくさんおるけれども、鉄に詳しい人は少ないな。いっぺん資材担当の人に聞いてみるわ。もし面接してもええということやったら、また追って連絡する」ということで、そのときは別れたんです。
 しばらくして、当時の専務が何日か大阪におられるから来てくれということで、面接を受けたんですけれども、面接では鉄の値段を、ずーっと聞かれるんです。
 私は毎日やっていたことですから、さっと答えられる。そうすると、わかったと。できるだけ早く来てくれたらいいということで、決まったんですけれども、給料決めてもらったかと言われたので、まだ決まっていませんと答えたら、そうしたら人事課長呼ぶから決めてもらえと。ということで人事課長出てきてこのくらいの給料だと言われます。

 そうすると、前は中小といえども商社で給料が高かったものですから、提示された数字があまりにも安すぎるんで、渋りました。ちょっと安すぎるんですってね。そしたら人事課長が「厚かましく出てきたな」と。
 歩合制セールスを正規の社員で採用してくれ言うし、給料の額を示したら大和ハウスの基準は私には安すぎると言うし本当に厚かましい。しかし専務も来ているし、人事課長も難しい顔をしながら、ちょっと待っててほしいと、待つこと10分くらいだったか、大変長く感じました。そしてこれがベストですよと渡された。それでも商社でもらっていた給料より若干安い。若干ですから、これはもう辛抱しないといけないなと思って、よろしくお願いしますと言って決まりました。

 最初は堺工場のパイプ倉庫の担当でした。パイプの入手から全部やって、工場の内部などもその時に勉強できました。いろんな資材の勉強もできました。しかし家から通うのに片道2時間たっぷりかかりました。朝7時半からのラジオ体操に始まり、5時には終わりますけれども、そこから勉強しなければいけなかったから、そういう生活を2年間くらいしました。
 志がなかったらと、今でも思いますけれども、将来に対する強い志があったからこそ続けることができました。それと、そうした生活に耐えられた強靭な体に生んでくれた両親のおかげだと。ほんまにいい体験をさせてもらいました。

 その後、本社の資材を経て、ある年の金曜日、突然「月曜日から住宅営業をやれ」といわれました。それまで住宅営業は全くやったことがなかった。その時はすでに29歳で、課長になっていました。
 資材から営業に行く時は次長としていきました。次長は決裁しなければいけない。しかし、ぜんぜんわからない。それで、営業管理の担当者を私の机の横に座ってもらって、解らないことはすべて聞きました。この書類は何のためにどういう流れでやっているのかと。何のため、なぜということをずいぶん聞きました。そして、今度は飛び込み営業も指導しなくては行けない。飛び込みなんかやったことがない。恥ずかしかった。
 しかし、講習などを受けていると、いろんなことを教えてくれる。せっかく相手の幸せのためにいい情報を提供しても断られたら、ああこの方はかわいそうな人だなと、そう思いなさいとかね。いろんなことを教育していただき、営業を3年やらせてもらいました。

 そして36歳の時に、山口の支店長になりました。山口の2年間も猛烈にやりました。私が山口支店に行って最初の挨拶は、「山口支店株式会社の社長として赴任してきた、樋口です」と、そういう挨拶をしました。なぜかというと、支店長としてみられるということは社長の代理人になるわけですから、そういう認識で、最初の挨拶をしました。それからは、まさにそのつもりで自分の会社という思いで頑張りました。
 支店長なのに、その県の知事に挨拶ができていないという事があります。その県の長として、会社の代表者として赴任しておるということは、社長の代理人です。だったら、いの一番に、知事のところに挨拶しておかないと。これはオーナーが事業所長会議なんかでも話していることですが、行ってない人がいる。そうすると、オーナーは何にもいわれないけど、支店長から上の役職に上がった人はおりません。
 私が役員になった時、役員のなかには好き嫌いが露骨に出る人もいました。私はそんな役員に反発したもんですから、ずいぶんと意地悪もされました。しかし、持って生まれた、オーナー思考の性格が自分にもあったと思います。ですから、私は、自分の信念を持ってそれを貫き通すというのは、やっぱり成功の一番大きな道筋ではないかなと思います。

オーナーとの4年間

 どんな商品が、どんな事業が、世の中の多くの人の役に立ち喜んでもらえるか。それがベンチャーにとっても大事なことです。

 大和ハウスが出資をしているCYBERDYNE(サイバーダイン)株式会社が、2014年年3月26日にマザーズに上場されました。ロボットスーツを開発された山海さんから私のところにアポイントがあったのは10年前です。
 まだ出資する前、山海教授との話が終わった時に「先生は何のために研究をされているんですか?」と質問しました。そうすると先生は「仕事の研究を通して、世の中の多くの人々の役に立てればいいと思ってやっています。」と言われた。だったら私どもの会社で応援させてもらいますといって、すぐに工場と研究所を作る資金を出資させてもらいました。

 まず結論を出さない会社は前へ進みません。私は絶対的なオーナーではありませんが、独断はするけれども、独裁はしない、そう自分に強く言い聞かせてます。当時も独断で出資しますと、返事をして、一番近い月の役員会にはかり、皆さんの賛同を得て、出資をし、10年目で上場して頂きました。上場後に40億円ほど回収させてもらいましたが、残りはまだ持ってますけれど、大きな含み益になっております。

 オーナーが亡くなられる1年前、「樋口君、50周年には1兆5000億やってくれるんやろな。」と言われました。まだ1兆300億円くらいのときですね。「はい、やります。」と言ったら、「そしたらな100周年の時には10兆円の企業群を形成してくれよ。それが、俺の夢や」と言われました。
 オーナーの耳がよく聞こえなくなったのは闘病生活に入って2年ちょっと過ぎた頃で、残りの2年近くは筆談でした。私は毎月オーナーのもとをたずねました。
 朝8時42分発の列車サンダーバードで出向いて、山荘につくのは12時15分。オーナーはいつも食事を待っていてくださり、いつも昼食を一緒にしました。初めてうかがったときに、昼食を食べてからいったら怒られたので、以後はいつも昼食を一緒にとりました。オーナーは食べるのが早い。酒も飲まない。ですから、食事はものの10分もあったら十分足りました。
 それから応接へ行って仕事の話。6時半頃、賄いの人から夕食ができましたと声がかかります。そして夕食をとって、また応接に行って話をする。夜の12時を過ぎた頃に、「もういい、12時回ったから寝ようか」と言われました。
 オーナーご自身のベッドの横に、介護する人のためのベッドがありました。「今晩、君はここで寝なさい」と言われるので、オーナーがベッドで横になられるのを手伝い、私も横になったら、「あのなぁ」と、また話を始められました。そこから朝の3時半まで。通算すると15時間。
 全部「ハイハイ」言うとったら話が続きません。ですから、後になって分かるんですけど、意図的にどういう考えを持っているのか、自分の考えに対してどういう反応を示しているのか、全部テストされていたんです。
 凡人はテストされている時には、テストされていると分かりません。そうして、ずっとやりとりをしていくと、自分の本当の気持ちが出てきます。オーナーは私の本当の気持ちをテストしていたのだと思います。

 そういうことで、亡くなる1年前にオーナーから、「樋口君、君はかけがえのない人やから健康だけは注意してくれな」そう言われたんで、私はびっくりしました。
 「かけがえのない人はオーナーだけですよ」と返したら、いやいや、君はかけがえのない人なんだと。それで、俺の夢は…ということを語られた。会社は公器やから頼むと。従業員の後ろには家族がいる。取引先がこれだけいる。戦争を体験した人の独特の考え方だろうと思うんですけれども、それだけ「公」というものを大事にされていました。
 だからオーナーが亡くなられた時には、大きな財産はありませんでした。相続税を払って、残ったものだけ息子さんに託されて。だから、お金のためにやってきた人ではない。世の中の多くの人の役に立ち喜んでもらえる、そういう理念で引っ張っていったらこういう会社の形になった。そういう精神を私はなんとしても継承したい。
 オーナーがどういう気持ちで会社を引っ張ってこられたか。ものすごい厳しい人でしたから、昔は退職率も高かった。今は退職率の低い会社になっている。住宅メーカーの中でもうちはおそらく、退職率が一番低い会社だと思う。

 さきほど申しましたように、親を大事にしていない人に大成している人を私は知らない。会社で親とは創業者です。そういうことを役員会でも言いました。たとえ短い時間であっても、話す内容が重複してでも、毎月必ず、役員会で訓示してきました。
 大和団地から大和ハウスの社長に就任した時に、オーナーに言われたのが、「まず樋口君、役員から教育してくれよ」ということでした。
 就任したのは2001年4月1日、日曜日でしたが、合併して新しくスタートする門出の日だから、振替休日を取って役員も社員も会社に出てくれと言いました。
 訓示のあと、各フロアも全部回りました。8年間、大和団地の再建に出ていましたので、直近のことは詳しく分からなかったんですね。しかも、オーナーも闘病生活に入っておられた。そんな中で、訓示したことを各フロア、各部署で朝礼をやっているわけですけども、100人くらいの部署で担当役員が訓示をしていた。一番後ろに立ったのですが、その役員の声が聞こえない。隣にいる若い社員に聞いてみたんです。君は聞こえているのかと。そうすると、どうも聞こえていないようでした。それではっきり分かりました。既に大企業病にかかっていると。
 頭にきましてね、一番後ろからコラーっと言いました。そしたら前を向いていた全員が後ろに振り返りました。そこから30分くらい説教しました。
 説教をひと通りやって、それから次へ、また次へ行く。役員会でも言ったんです。大企業病にかかってると。なんで本社にこんな奴がおるんだと、何のためにここにこれだけいるんだと。彼らの目的は何だと。聞いても答えは帰ってこない。目的意識なしにただ漫然と時間を潰している。最近はパソコンが配布されているので、隣の隣のデスクにいる人とでも、パソコンでしかやり取りをしない。
 ですから、大企業病にいっぺんかかったら、それを撲滅するのは大変です。そういう小さなことから社員の意識改革を進めていきました。おかげさまで、今は小さな派閥もなく、非常に風通しの良い組織になりました。だから退職率も低くなってきたのだと思います。

 リーダーに対しては、「公平公正」、「無私」、「ロマン」、「使命感」という4つの品性。それと、4つの力「先見力」、判断力」、「統率力」、最後に「人間力」を持つように言ってきました。あわせて6つの判断基準、「会社にとって良いことか」、「社員にとって良いことか」、「お客さまによって良いことか」、「株主にとって良いことか」「社会にとって良いことか」、「将来にわたって良いことか」と常に考えて決断せよと言ってきました。
 特に地方の支店長は、社長に替わって判断するんだから、自分で考えて決断しないといけない。そういう厳しい状況を乗り越えて、経験を積んで成長していく。要するに努力をしない人間は駄目。私自身は、山口、福岡の支店長時代には全部そうしました。

 ベンチャー起業家として会社を立ち上げてきた人、本日はそういう経営者の方がたくさんおられると思いますが、そういう人達は、当社の創業者である石橋信夫さんと一緒とは言いませんけれども、将来に対する志は一緒だと思うんですね。
 いっぱしの大きな会社にしても、世の中の役に立っていこうということがベースにあると思うんです。私はこの前、英語を学ぶより歴史を学びなさいということを話しましたが、そのことが記事になっていました。
 福岡の商工会議所に頼まれて、講演に行ったんです。黒田官兵衛の街です。やっぱり歴史というのは大事。それは事業に活きる要素があるんです。そんな話をずっと…。これはまた長くなりますんで、また改めて。

10兆円企業への道

 もう60分を過ぎました。残り時間もわずかですが、今のところ「福祉」の「フ」までしかいってないな(会場笑)。

 「カ」は、環境です。1995年頃、オーナーに呼ばれまして、「樋口君、水と太陽と風をキーワードに事業を考えていくように」と言われました。私は意味がよく分からなかった。何を言ってるのかなと。
 で、その後、四国佐田岬に9000キロワットの風力発電をやりました。四国電力と来年契約をします。それから、やっぱり21世紀になったら太陽光発電が一般的になって、今ではメガソーラー事業を展開しています。現在、計画中のものも含めて、200メガワットぐらいをグループ全体でやっています。
 まだまだ電力売買企業としてはまだ中小もいいところなんですよ。それでももうちょっといけば、自社グループの分は賄えるようになる。

 あとはエリーパワーというベンチャーに出資しています。大型リチウムイオン電池および蓄電システムの開発、製造、販売を手掛けているベンチャーです。エリーパワーとは8年前、現社長の吉田さんと一緒に、慶応大学のプロジェクトに参加して勉強していたんですけれども、それはエリーカーという8輪駆動の電気自動車に搭載する蓄電池の研究でした。
 NHKでも放送されたから、見た方もおられるかと思う。ポルシェと競争して最初は5~60メートルくらい引き離れたけど、その後は追い抜いて走り勝ちました。2台作られたうちの1台は、イタリアで走って370キロを出しました。
 車のボディに大きく「ダイワハウス」と描いてあったので、財界の人からは、今度は自動車をやるんかと言われました。「自動車会社も住宅をやっているからなあ・・」と答えると、「本気か?」と。「冗談や。」というと笑っていました。今更、自動車はできません。私の狙いは大型のリチウムイオン電池の開発でした。
 結果的には、リチウムイオン電池のエリーパワーを応援しています。これは8年前ですから、来年か再来年には上場してほしいところです。ベンチャーは10年経って上場できなかったら、私は非常に厳しいと思う。エリーパワーは、世界で初めて150年の歴史をもつドイツの世界的第三者認証機関(TUVRheinland)の安全認証を取得しました。だから私はきっと大成するとにらんでいます。ずっと応援もしてきました。

 大和ハウスとして10兆円いくためには、今の事業だけでは足りないと思います。国内の事業で2013年度は2兆7000億。創立60周年にあたる2015年度には3兆円にせいと言っていますが、堅いところでは2兆8000億円とみています。
 だけど、役員には10兆円を目指せと言ってます。10兆円になるために、どういうことを考えないといけないか、ということが大事なんです。そのためには、世界で通用する独立した商品がいくつも必要です。執行役員でしっかりした男がいるので、彼にその推進役・責任者になってもらっています。最初から大きな花は咲きません。それを承知でやってもらう訳ですから。彼も必死でやってくれていると思いますが、そう一朝一夕にはいかないでしょう。

 ベンチャーを育てる前に、何が一番大事かという話をしたいと思います。これからベンチャーをしようという人と話をするときに、何かピリピリッと感じるかどうかが大事です。ピリピリッというのは抽象的でわかりにくいかもしれないが、そういうものを感じないとやりません。
 それと、そのことが世の中の多くの人の役に立ち喜んでもらえるようなものになるんだろうかということを考えます。
 新しい事業、新しい商品のアイデア募集を毎年やっています。年800件以上の応募があり、その中から10件くらい絞り込んで報告を受けます。ただ、10件くらい絞り込んで来てもらっても、いまいちだなと思って終わってしまうこともあります。
 先ほど申し上げたように、「風と太陽と水」に関わる環境の問題は、1995年前後に言われていたことが、まさに今そうなっています。だから、オーナーは先の先が見えていたのだとわかりました。私は聞いた時は、ぽかんとしていた。はいはいと聞いていた。
 飲料水の問題はいずれ大きな問題になってくるだろうと思います。海水から淡水化して、飲料水に使える技術は非常に大事だと思います。大手さんがやっておられますけれども、まだ一般化されているわけではありません。

 もうそろそろ終わりの時間? だいたい自分の講演のパターンが90分が圧倒的に多いんですよ。今日は飛ばしてるつもりなんですけれども、ちょっと脱線が多かったかな。環境問題のところはリチウムイオン電池、福祉のところはロボットスーツ。
 そして「ケ」は健康で、スポーツクラブを経営しています。「ツ」の通信はHEMS(ヘムス)。これは電力使用量の可視化、節電(CO2削減)の為の機器制御、ソーラー発電機等の再生可能エネルギーや蓄電器の制御等を行うシステムですが、シンガポールへ輸出していますけれども、大和ハウス独自で開発した商品です。
 今は、大和ハウス発で単独で売れる商品は「HEMS」だけだなと言っていたんです。期待をしております。

 「ノ」は農業。先の先を考えると、必ず食糧難になるということで、小型の野菜栽培するユニット「アグリキューブ」というものを作っています。住宅を売る前のミゼットハウスみたいなものです。これからどのように発展させるかという大きな課題で、大手さんと一緒になって施設研究をしています。

 こういう事業を通じて、世の中の多くの人の役に立ち喜んでいただけるか、ということをキーワードにして今後も進めていきたいと思っています。
 また、有望なベンチャーがあれば、積極的に応援していきたいと考えております。

 話を飛ばしたものですから、全部は語れませんでしたけれども、今日のテーマに沿う、10兆円いくためには今の事業だけではいかんということがはっきりしております。
 だから感動していただける商品、そして世界の各国の人々に役に立ち喜んでもらえるということをキーワードにしてこれからも進めていきたいと思っています。
 質問を受ける時間はございませんが、以上で私の話を終わらせて頂きます。

 ご清聴ありがとうございました。

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