

社会人2年目、1990年のドラフトでは、ついにヤクルトスワローズから2位指名をいただきました。プロ野球選手としての人生の始まりです。フロントの方から「背番号は何番がいい?」と聞かれ、僕は最初「44番でお願いします」と答えました。なぜなら昔、阪神の救世主とよばれたランディ・バース選手がつけていた番号だったから。めちゃくちゃ打てそうな番号じゃないですか(笑)。でも、「それは空いていない」と。「じゃあ、8番で」と答えたら、今度は「それは広沢の番号だから無理」と。で、そのときに空いていた27番が、プロ野球選手としての僕の背番号となりました。それなら最初から空いている番号を提示してくれればいいのにね(笑)。
そして監督は、現在、東北楽天ゴールデンイーグルスを率いる、あの野村克也監督です。社会人野球でオリンピック代表に選ばれたときの教訓から、まずは野村監督の好みをとことん知ろうと、彼に関する本は全部読みました。やはり試合に出してもらわないと意味がないですから。そして、まずは素直に野村監督の指導に身を任せようと決めたのです。「ID野球」(データ重視の戦略)はもちろん、ミットの構え方から、リードのイロハまで、その教えはまさに目からウロコの連続。毎日、自分が変わっていくのがわかりましたよ。4月11日の中日戦で初出場の機会をいただき、4月30日の巨人戦で初安打と初打点を記録。このシーズンは年間106試合に出場、ルーキーとしてオールスターゲームにも参加し、ゴールデングローブ賞も受賞。野村監督との出会いもありましたし、僕にとっては幸先の良いプロ野球人生の幕開けだったと思います。
2年目には、当時、中日に在籍していた落合博満選手と首位打者争いを演じます。結果は、僕が最終戦で1安打を打って、「3割3分9厘8毛0糸」。落合選手が、「3割3分9厘5毛7糸」。わずか「2毛3糸」の差で、キャッチャーとしては野村監督以来、26年ぶりの首位打者を獲得することができたのです。この年は、チームも11年ぶりのAクラス入りに成功し、うれしいシーズンとなりました。3年目、大混戦を抜け出した我がスワローズは、実に14年ぶりのリーグ優勝を果たします。4年目のシーズンは、リーグ2連覇。日本シリーズで西武ライオンズを破って、15年ぶりの日本一をヤクルトファンにプレゼントすることができました。その後も、1995年、1997年、2001年と、リーグ優勝、日本一のタイトルを獲得しています。
僕は1998年に、日本プロ野球選手会5代目の会長に就任しています。プロ野球選手って、社会的にも責任が大きいとよく言われるじゃないですか。「プロ野球選手は子どもたちの夢」という話だって、いつの時代も言われることでしょう。僕を含め、球界で活躍するトッププレイヤーたちのさまざまな権利を強化していくことが、大きな視点でとらえると球界の明るい未来につながると。プロ野球選手の中にもいろんな人がいますから、そんなことはやりたくないという人も中にはいますよ。でも、僕は自分がやるべきだと思った。だから、選手会長をお引き受けすることを決めたのです。
たとえば、プロ野球選手の肖像権の管理を日本野球機構ではなく選手会が行なうこと、140試合制の導入に対してセ・パ交流試合を取り入れること、また、契約改定時の代理人交渉制度やFA(フリーエージェント)の期間短縮、ドラフト制度の改革に、プロ・アマ交流の関係改善などなど。昔から、こうしたほうが正しいと思えることがたくさんありました。ただし、相手側は当然、今のままでいいと考えています。だから、そこを突破するのは正直大変です。交渉事もたくさんありますし、向こうは必死できますから、こちらはそれ以上に必死で勉強して対抗しなくてはならない。なぜ一所懸命やったかというと、やはり、正しくないことから逃げたくなかったということですかね。おかしいことは、おかしいと言い。正しいと思ったことは、引き下がることなく、是正していきたかったということです。
当然、うまくいかないこともありますが、うまくいったものもあります。2000年には、代理人制度は認められましたし、その後セ・パ交流試合も始まりました。また、2004年には、プロ選手がシーズンオフに母校で練習することが認められています。旧来のままでは何かおかしいと思えることが、少しずつ正しくなり始めているのではないでしょうか。2004年のセ・パ合併問題もそう。「たかが選手が」と言われながらも反対を主張し続けたのも、プロ野球70年の歴史で初めてのストライキをやむなく敢行したのも、選手やファンの皆さんにおよぼす影響を考えた結果、日本プロ野球の行く末が危ういと感じたからです。そういった意味で、東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生し、2リーグ制が維持できたことは本当に喜ばしいことだと思っています。
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