
取材前、改めて『渋谷ではたらく社長の告白』を読み返した。上場直後のネットバブル崩壊の頃から、一時会社の身売りを考えたというくだりまでは、第三者の読者としても本当につらくなるほどだ。しかし、最年少の26歳、インターネット広告会社で初の上場と、初めてづくしを自ら背負い込んだ若き経営者藤田晋氏は、幾多のプレッシャーに耐え続け、嵐の期間を乗り切った。当の藤田氏は「当時は本当に何もわからないことばかりでしたからね」と淡々と語るが、驚くべき強靭な精神力の持ち主といえよう。設立当初に決めた「21世紀を代表する企業を創る」という思い。この信念を常に胸に抱き、現在も日本のインターネットビジネスを牽引し続けるサイバーエージェントの総帥。そして、強いマネジメント力と、的確な決断力で、同社を未来へと導くアントレプレナー藤田氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
●このインタビューは前編・後編と2回に分けて掲載する。

高校までは、福井の鯖江市で育ちました。小さな頃から、オセロゲームや将棋が得意でした。ある一定の決まったルールの中で、勝つための一番近いルートを合理的に導き出す。目標に向かった時の集中力が、人より強かったのかもしれません。小学校時代には、将棋大会で鯖江市の代表に選出され、県大会で優勝したこともあります。将棋を教えてくれた父はそんな私を「県で一番のケンイチくんだ」といって喜んでくれました。ちなみに父には一度も勝てませんでしたね、将棋では。
中学ではバンド活動にはまりました。パートはボーカルです。学園祭は一番大事な発表の場だと思ったので、学園祭を自分達で運営できるように、生徒会長もやりました。政治力をにぎるためだけではなく、モテますしね、生徒会長は(笑)。そして、中学まではどちらかと言えば勉強ができたほうだったので、高校は進学校に進みました。
高校では小学校時代にやっていた剣道部に入部します。そのうえ麻雀にはまって、バンド活動も継続していたので、勉強はサッパリ。授業中は寝てばかりです。バンド活動では学園祭がやはり大事なので、友人を生徒会長にして、指名制で私はまんまと副会長に。また学園祭を仕切りました。
当時私は、プロのミュージシャンになりたいと考えていたのですが、歌がへたです(苦笑)。昔から薄々気づいてはいたのですが、この頃はっきり自覚するようになった。それで、目標を切り替えました。同じ夢を持っている才能ある友人をデビューさせるために、レコード会社をつくると宣言したのです。ならばビジネスの中心地・東京に行って、経営者を目指さなければ。私が起業家を目指すようになった原点です。

これは後日談なのですが、ミュージシャン志望の若者が夢をあきらめ、起業家になったわけです。起業後に、ある週刊誌に私の音楽の才能がどれほどのものだったのか、その実際を検証するみたいな記事が掲載されたことがあります。周辺取材もしっかりされたようで、記事全体をとおして「藤田にミュージシャンの道は、ありえない」という論調だった(苦笑)。まあ、そんなこんなで、音楽の道はあきらめ、まずは東京の大学へ行こうと、高校3年の夏から猛勉強を始めました。それまでまったく勉強してなかったので、偏差値40台からの大学受験でした。
結果、私は青山学院大学経営学部に合格。3年間かけてずるずる勉強するより、明確な目標を立ててから集中して頑張るほうが性に合っているのでしょう。ラストスパートはどの地点からかけるのか。マラソン競技の戦略と同じようなものだと思います。
東京に行けることは決まったものの、青山学院の最初の2年間は厚木校舎なわけです。最初の住まいは神奈川県の相模大野。1、2年は雀荘のバイトにはまり、怠惰な生活を続けました。結果、留年。それでも先走って東京の二子玉川に居を移した私は、バーテンダーのバイトを始めます。そんなある日、バーの先輩スタッフから、「藤田、お前の夢はなんだ?」と質問されてハッとしました。そうだった。自分は経営者になるために東京に来たんじゃないか、と。
今思えば、なんとなく自分から質問されるように仕向けた感もありますが、夢や目標を聞かれるというか、言わされるシュチュエーションをつくることって大切だと思います。その先輩に「私は会社を創りたいのです」そう宣言した私は、まずは「会社」というもので働いてみようと、すぐにアルバイト情報誌を購入して新たなバイト先を探し始めました。
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